第34話 我が主

 森を進み、大河を超えた西の果てにその谷はあった。

 自然の浸食により長い年月をかけて削られ、むき出しになった断崖の峰々みねみねが視界一面に広がっている。

 幾重にも積み重なった地層でいろどられた赤銅色しゃくどういろ砂岩壁さがんへきが、天をも突く勢いでそびえ立ち、ぎらつく日の光を全身で浴びている。

 谷底には幅の狭い細川が流れており、緩やかに蛇行しながら遥か先まで続いていた。

 時折、大地の雄叫びのような風のが渓谷の間を駆け抜けていく。

 アッカはそんな谷間をじっと眺めながら、ある晩のことを思い出していた。

 十数年前、屋敷の最奥にしつえられた狩長かりおさの部屋で静かに命じられた任務のことを。

 あの晩、ユホウは実に淡々としていた。

「なあ、アッカよ。今まで無害だと思っていたものが、きっかけ一つで脅威となり得ることを知っているか?」

「……」

 当時、まだ若かったアッカには聞かれた意味を理解することも、答えることも出来なかった。目を下げ、じっと押し黙ってユホウの話を聞いていた。

「天は条件が揃うと月を食らうという。我ら狩人かりびとの未来もまた、条件が揃えば食われるやもしれぬ。悲しきかな、我が子はその要因になり得る存在だそうだ」

 アッカは最後の言葉が引っ掛かった。

(だそうだ……?)

 しかし、口は挟まなかった。

「成るか、成らぬか、それはまだ分からぬが、もしもラダンに我らを食らう牙が生まれた時は……」

 ユホウは一旦言葉を切り、さも当然とでもいうように静かに言った。

「その時はお前がラダンを始末しろ」

 はっと顔を上げると、ユホウの視線とぶつかった。その目を見た瞬間アッカはこう思った。

 ああ、とうとう我があるじは人という被り物を捨てて、まことの獣へと昇ったのだ、と。

 情の読めぬ声、何も映さぬ顔、そして、あの目……あの目に見つめられた時の五感の震えをアッカは片時も忘れたことはなかった。

 実子を殺すことにすら、何の躊躇ためらいも持たぬ非情さを前に身が震えるほど高揚したのを覚えている。

 この方こそが、我が狩人一族の頂点に君臨するに相応しいお方だと、そう確信した瞬間であった。

 アッカはあの高ぶりを思い出しながら、延々と続く狭い崖路がけみちに残された足跡を追って、ただひたすらにくだり続けた。

 追っている人物は恐らく常人だろう。何処を通り、何処で火を焚き、どのように休息を取ったのか、その寝姿まではっきりと分かるような雑な痕跡がしっかりと残っていた。

 徐々に足跡がはっきりしだしたところを見ると、すぐそばまで追いついてきているのが分かった。

 谷底に着き、暫く進んでいると目の前に大きな岩が現れた。足跡はその岩陰に続いていた。

(ここで一旦休息を取ったのだろう)

 しかし、岩の後ろ側に回り込んでみても、どういうわけか足跡が途絶えていた。

 アッカはすっと片膝をつき、地面を凝視する。

 突然途切れた足跡は後にも先にも続いていない。

(おかしい……)

 アッカは眉根を寄せ、横を流れる細川に目をやったが、すぐに視線を戻した。

 追われていることを知らぬ常人がわざわざ水の中を進むとは考えられなかった。

 アッカは顔を上げ、注意深くゆっくりと周囲を見回した。

 断崖絶壁に挟まれたこの場所で、突如身を隠すすべを常人が持っているだろうか。

(いや待て……なぜ、足跡を消す必要があった?)

 嫌な予感が頭をよぎる。

 その時、唸るような谷間風が全身を強く撫でて通り過ぎて行った。

 次の瞬間、アッカは舌を鳴らして駆けだした。

(くそっ、やられた!)

 駆けながらアッカは悔しそうに奥歯をぎりっと強く噛んだ。

 先ほど吹いた風の中に、ほんの微かにだが、嗅ぎ慣れた香木の香りが入り混じっていたのだ。アッカはその香りを嗅いだ瞬間、おおよその事態を把握した。

――リジェン!

 僅かだが、アッカの中には常人を追っているという過信があった。

 追われているなどと微塵も疑わず、痕跡をばら撒き続けるただの常人の足跡をずっと追っているのだと、そう思っていた。

(いつだ! いつ痕跡をすり替えた……)

 いつの間にか挿げ替えられた痕跡を、なんの疑いもなく追っていたのだという事実を唐突に突き付けられて、アッカは信じられぬ思いで目をむいた。

 心の内で再び舌を鳴らし、紆曲した砂岩壁を越えると、駆け登れそうな緩やかな傾斜の砂岩壁が目の前に現れた。

 その時、ひゅうっと何かが素早く頭上を通り過ぎた音が聞こえ、アッカは足を止め、突如目の前に現れた人物を静かに見つめた。

 二つの影は何も言わずに見つめ合っていたが、やがて、アッカは観念したように小さく息を吐いた。

 そして、まるで親が子に言うような口調で呟いた。

「随分狩りが上手くなったな、リジェン」

 リジェンは一瞬顔をしかめたが、すぐに真顔になって言った。

「どういうつもりだ」

 アッカは不思議そうに眉を上げた。

「どう、というと? 私は私の狩りをしているだけだ。何もおかしなことは無いだろう」

「……仕えるあるじを見失ったか」

 リジェンは冷めた目でアッカを見つめながら、吐き捨てるように言った。

 アッカは暫く黙っていたが、やがて、耐え切れぬとでも言うように笑い出した。

「おかしなことを言う、私は主を見失ってなどおらぬ。私がお仕えするお方は後にも先にもただ一人。無論、これからもそれは変わらぬよ」

 リジェンは顔を歪めながら、吐き出した。

「何を企んでいる」

 アッカはすっと顔から笑みを消して答えた。

「知ったところでお主には何も出来まい」

「……」

 睨み続けるリジェンを尻目にアッカはちらと上空に目をやり、口の端を歪めた。

 リジェンがいぶかしげに眉根を寄せた瞬間、上空から無数の大鷲がリジェンの顔を目掛けて飛び込んできた。

「……っ!」

 襲いくる大鷲の群れを両腕で防ぎながら、アッカを見やると、去り際に口元だけがゆっくりと動いたのが見えた。

――我が主は実子の命よりも我ら狩人の未来を取ったぞ。

 アッカが砂岩壁を登り切ったと同時に、大鷲の群れはそれを待っていたかのように上空へとかえっていった。

 リジェンは呆然と立ち尽くしながら、アッカの消えた砂岩壁を見つめていた。

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