第27話 月下美人

 その写し屋には看板こそ無かったが、ノギの言っていた通り、チャグナンがいの表通りに堂々と店を構えていた。

 店内は薄暗く、写し屋特有の墨の匂いが立ち込めている。

 昼間だというのに客は他に居らず、店の奥では女人にょにんが一人静かにすずりっていた。

 ムウとイェルハルドは緊張した面持ちで顔を見合わせると、頷き合った。

 ゆっくりと店奥へ足を進めると、足履あしはきの下で細かい砂がじゃりじゃりと音を立てた。

 女は二人に気付いたようで、顔を上げて微笑んだ。

「いらっしゃい、どんな書物をお探しですか?」

 六十を過ぎたあたりだろうか、白髪の混じった長い髪をくしで丁寧に整えて、後ろで一つに結わえている。

 肉付きのいいふっくらとした丸顔で、口角を上品に上げた穏やかな笑みが印象的な女人だった。

 天鼠てんそしゅうとはもっと、とっつきにくく、冷淡そうな者たちなのかと身構えていたが、目の前の女からはそれらを微塵も感じなかった。

 あるいは、彼らはもうここには居ないのかもしれない……。

 ムウは心を落ち着かせるように小さく息を吐くと、すがる思いを必死に隠しながら女に訊ねた。

ちょうじゅう、ならざる者の勘物かんもつを探しています」

 静かにそう告げると、女の顔つきが急に変わった。

 やや間をあけて、ムウの顔をじっと凝視していたが、やがて、女は大きなため息と共にぼそりと呟いた。

「なんだい、それならそうと早く言っとくれよ」

 先程までの笑みは何処かに消え去り、まるで獲物を見つけた獣のように一瞬、目の奥が鋭く光ったような気がした。

 ムウはそのあまりの変貌ぶりに目を丸くした。

「ここに来る客どもはどいつもこいつも書物ばかり買っていくもんだから、危うく自分の生業なりわいを忘れちまう所だったよ。ようやく本物の客が来たね」

 どうやら当たりだったようだ。ムウは心臓の鼓動が一気に跳ね上がったのを感じた。

 そんなムウをよそに、女は品定めするかのようにゆっくりと下から上に目線を動かしてムウを見やった。

「先に聞くが、金はあるのかい?」

 薄汚れた衣を着た旅人が本当に金を持っているか怪しんでいるのだろう。

「はい、金貨がここに入っています」

 ムウは懐から金貨の入った小袋を取り出すと、口を開けて中身を見せた。

 女は一瞬、金貨に目を奪われていたが、納得したのか、口の端を吊り上げて頷いた。

「いいだろう、何の情報が欲しいんだい?」

 ムウは震えそうになる声を抑え、冷静さを装いながら依頼内容を告げた。

谷に棲む民ラガ・コテルを探しています。彼らが今何処にいるのか教えてください」

谷に棲む民ラガ・コテル? 聞いた事がないね……まあ、いい」

 女はあまり興味が無さそうにそう言うと後ろを振り返って、ぱんぱんと大きな音をたてて手を叩いた。

「ヨヌア、出てきな、仕事だよ」

 すると、奥の木戸がすっと静かに開き、年端もいかない女児が頭を下げて現れた。

「ご依頼承りました。ヨヌアと申します」

 顔を上げたヨヌアを見て、ムウははっとした。

――月下美人

 まさにこの花が似合いそうな顔立ちの女児だった。

 まるで、甘く濃密な香りを周囲に漂わせながら、気品高い純白の花びらを広げ、闇夜の中で唯一光を放つ月下美人の妖艶さそのもののように思えた。

 しかし、目だけは恐ろしく冷たい色をしていた。

 表情は湖面に張った薄氷のようにぴくりとも動かない。それでも、触れればすぐに割れてしまいそうな儚さも兼ね備えている。

 口元に薄く引かれた真っ赤な紅が、色白な絹肌の中で嫌に目立って何とも奇妙だったが、どういうわけか目をそらせないでいた。

 常人ならざるその容貌は、男を――女とて、いとも簡単に飲み込んでしまいそうなほどの恐ろしさをまとっていた。

 ここには無い幻を見ているような気分だった。

「初めてヨヌアを見た男どもは皆そんな顔をするさ」

 ムウは女の呆れ声で我に返った。

つらが良いだろう? ああ、夜伽よとぎも人気でね」

 女の下卑げびた笑みを見て、ムウはぎゅっと顔をしかめた。

 あまり他人の生業なりわいに口を出したくはないが、どうにも嫌悪感を抱かずにはいられなかった。

 ムウはまだ幼さの残るヨヌアからさっと目を背けた。

「情報はこの子が取ってくる。さて、前払いで金十枚だよ」

「高すぎる」

 今まで黙って成り行きを見守っていたイェルハルドが突然口をひらいた。

 暫くの沈黙の後、女はキッとイェルハルドを睨みつけると、怒鳴るように声を荒げた。

「金が払えないんだったらこの依頼話はなしだ! いいのかい? 谷に棲む民ラガ・コテルとやらを探しているんだろう?」

 最後には勝ち誇ったような薄ら笑いを浮かべる女を見ながら、イェルハルドはわざとらしく顎をさすった。

「そうか、ルガウ街道の写し屋は金六枚だと言っていたがなあ。こっちの方が安いかと思って来てみたが思い違いだったようだ。それじゃ仕方あるまい、戻るとしましょうか」

 イェルハルドはムウの肩をそっと押して、出口の方へと押しやった。

(……?)

 ムウが戸惑ってイェルハルドを振り返ろうとした瞬間、女は慌てたように立ち上がった。

「待ちな! 金五枚と銅五枚でどうだい! これ以上は下げられないよ」

 女は広げた手のひらを突き出して、大声でムウたちを引き止めている。

 イェルハルドは何も言わずにじっと女を見つめていたが、やがて、頷いてみせた。

「いいだろう、手打ちといこう」

「ちっ、何も知らない素人かと思えば、商人を連れてやがったのかい」

 女は舌を鳴らして、吐き捨てるように言った。

「相手を間違えたな」

 イェルハルドが静かに笑っているのを見て、女は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。

「さあ、ムウ殿、金六枚を出して釣り銭を受け取ってください」

 ムウはイェルハルドに言われるがまま、女に金貨を渡して釣り銭を受け取った。

 受け取った釣り銭を小袋に戻している時、イェルハルドはそっとムウに耳打ちをした。

「まだ先は長いでしょう、この先何かと必要になるはずですから、どうか大切に使ってください」

 驚いてイェルハルドの顔を見ると、そこには、何とも商人らしい頼もしい笑みがあった。

――なるほど、取引にうとい俺を助けてくれたのだな。

 ムウはようやく事の成り行きを理解して、深く頭を下げながら静かに礼を言った。

 店奥では、ヨヌアの冷めた目がじっとその様子を見つめていた。

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