第四章 影たちの思惑
第28話 梟は目覚める
濃い橙色の大きな月が山頂付近の低い位置で輝いている。空全体が月の光に照らされて薄ら明るく、また、星々が煌めく美しい夜だった。
チャグナン
鼠は屋根の下から響いてくる
暫くして、酒場から二人の男たちが談笑しながら出てくるのが見えた。
鼠はそれを見つけると、静かに屋根の縁まで移動し、軒先から伸びた
道路脇に置かれた木箱や雑に積み上げられた麻袋に時折身を隠しながら、男たちの後をチョロチョロと追いかけていく。
地面すれすれの慣れない視点であっても、従者は難なく駆けた。
男たちが宿に入っていくのを確認しようと通りに出た瞬間、凄まじい衝撃と共に全身に激痛が走った。
突然の出来事に何が起こったのか理解出来ず、藻搔こうと身体をひねろうにも、何かにがっちりと掴まれていて身体が動かない。
その間に視線がぐんぐんと上昇していく。あっという間に、先程まで地面すれすれに居たチャグナン街の通りを上空から見下ろしていた。
よく聞くと、静かに宙を切る巨大な翼の音が聞こえる。
従者は恐る恐る自身の身体へと視線をやった。
鋭く尖ったかぎ爪が体毛に埋まり、薄い皮膚に食い込んでいる。
どうやら野鳥がこの鼠を獲物として捕獲してしまったようだ。
(ついてない……)
従者は心の内で悪態をついた。
仕方なく術を解こうとしたその時、風が耳元を通り過ぎていく轟音の中で人の言葉を聞いた。
「話がある」
従者はぞっとして身体を強張らせた。
――違う、これはただの食物連鎖ではない。
野鳥が鼠という餌を捕獲したのではなく、この鳥は意志を持って俺の魂が乗ったこの鼠を捕獲したのだ。
そう悟った瞬間、恐ろしく冷たいものが従者の胸の内に広がった。
急いで魂を抜こうとするが、どういうわけか、鼠の身体の檻から先に進む事が出来ない。
必死に藻搔こうとすればするほど、かぎ爪が食い込んでどうにもならなかった。
そのまま鳥は暫く飛んだ後、何処かの森へ入り、少し拓けた地面に降り立った。
従者は、ぼとりと地面に投げ落とされた。
痛みに耐えながら見上げた先には、視界いっぱいに広がる
今宵の月のような橙色の瞳の中にある、真っ黒い瞳孔が真っ直ぐ自分を見つめている様があまりにも不気味で、一瞬にして総毛立った。
鼠と梟。獲物と捕食者。
鼠の本能か、それとも己の本能か、恐怖のあまり身体が硬直してしまい、震える事すらも出来なかった。
わーんと不吉な音だけが耳奥でずっと鳴り響いている。
そして、痺れたような頭の中に一瞬、ほんの一瞬、火花が散ったようにぱっと、ある狼の姿が浮かんだ。
(ああ、そうか)
従者は己を見つめる梟を見つめ返しながら確信した。
(一度ならず二度までも)
ふつふつと湧き上がる疑問と怒りを抑えながら、従者は静かに言った。
「……なぜ、私の邪魔をするのですか?」
――今目の前にいる梟は、以前ノジン村の山で対峙した、あの狼だ。
しかし、梟は従者の問いには答えず、ずいと顔を近づけて一言問うた。
「お前は
梟の大きな透明の膜に、目を見開いて驚いている小さな鼠が写っている。
従者は答えなかった。――いや、答えられなかった。
なぜこの梟の口から
従者は動揺しまいと必死に己に言い聞かせた。
「私はただ、逃亡奴隷の後を追っているだけで……」
「くだらぬ駆け引きはいらぬ、答えよ」
遮られた圧のある言葉と梟特有の動かぬ眼球が従者を責め立てる。
それでも従者は口を閉ざしたままだった。
すると、梟は再び口を開いた。
「狩り人か、守り人か」
従者は眉根を寄せて訊ねた。
「貴方はどちらなのですか?」
「……魂の入れ物が命を落とすと、術者はどうなるか知っているか?」
梟は冷めた口調でそう言うと、鋭いかぎ爪を従者の首に突き立てた。
(ここまでか)
従者が諦めて口を開こうとした瞬間、一陣の風が二人の間を吹き抜けた。
風を受けて、梟の羽毛がばっと捲れ上がった。
その時、突風に巻き上げられた小枝が梟目掛けて飛んでくるのを従者は決して見逃さなかった。
(恐らく気が逸れれば、この呪縛から
従者の思惑通り、小枝は翼の付け根付近にぶち当たろうとしていた。
梟もそれに気づき、すんでのところで咄嗟に翼を広げて舞い上がった。
かぎ爪からようやく解放された従者は、素早く魂を引き抜くと、そのままの勢いでぐんと天へと昇り、逃げるようにして元の身体を目指して飛んだ。
*
「あの小鼠め……」
老女はため息交じりに呟いた。
顔にかかった髪の毛を鬱陶しそうに払いのける途中で、ぴたりと手を止めた。
「来ていたのか」
老女は部屋の隅で静かに自分に
「婆様、術中に申し訳ございません。お声掛けを致しましたがお返事が無かったので、無礼を承知で入らせていただきました。この無礼はいかようにもお裁きください」
歳を重ねた男特有の落ち着いた声が部屋に響いた。
「かまわぬ。お前がここに来るとは珍しいな、
ユホウは下げている頭をより一層深く下げた。
「急ぎ、
「何事だ」
ユホウは暫く言いよどんでいたが、やがて、ゆっくりと落ち着いた口調で言った。
「……ラダンが濁流に飲まれました」
老女は何も言わず、ユホウの白髪交じり頭を見つめた。
それから、ユホウは淡々と静かに、アッカから伝え聞いたその時の状況を簡潔に告げた。
「
ユホウはそこで言葉を切り、その先の言葉は紡がなかった。
二人は、互いに同じ女の名を思い出していることを察して押し黙った。
暫くそうしていたが、ユホウはさっと顔を上げて口を開いた。
「この任務は親である
老女はじっとユホウの目を見つめていたが、やがて、小さく頷いた。
「良かろう、ぬかりなく遂行せよ」
「御意」
ユホウが一礼し、素早く部屋を去っていくのを見届けた後、老女は大きなため息を吐いてゆっくりと腰を上げた。
(色々なものが動き出したか……)
心の内で呟きながら、部屋の隅に置いてある小ぶりな
中身を丁寧に床に並べ、空っぽになった引き出しの奥を凝視する。
底板から不自然に伸びている細い糸を見つけると、指でつまんで静かに引き上げた。
底板は糸につられるようにして静かに持ち上がった。
持ち上がった板を脇に置き、老女はそこに現れた薄汚れた小袋を手に取った。
手の内にすっぽりと収まるほどの小さなそれを大事そうに眺めた後、ゆっくりと口を開けて中身を取り出した。
円形の薄い金の中央に、黄金色の石が鎮座している。その石を中心として、いくつもの細かい線が放射状に描かれており、縁には複雑で
「邪魔はさせぬ」
老女は低く呟くと、そっと耳飾りを小袋に戻し、薄布を上から当てて着ている
そして、目を閉じて深く息を吸った後、ぱっと目を見開いた。
――
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