第26話 濁流

 通り雨は思ったよりも長く降り続いた。

 ようやく雨が上がった頃には、空一面を覆っていた雨雲は満足したようにゆっくりと風に身を任せながら流されていった。

 空の端からはうっすらと青空が顔を覗かせている。

 ラダンたちは行商人たちが発った後、充分に時間をあけてからほこらをあとにした。

 雨でぬかるんだ山道には人の通った痕跡がはっきりと付いている。

 ラダンたち狩人かりびとにとってみれば、わざわざ行商人たちにぴったりとくっついて行かずとも、その痕跡を追って同じように山を登る事は造作もない事だった。

 雨水を吸った大地からはむっとするほどの湿気が立ち昇っていたが、雨が降った後の涼しい風がさらってくれた。

 山道を進んでいくと森が途切れ、目の前がひらけてきた。

 左側には切り立った崖が現れ、右側には遥か下方に谷川たにがわが流れている。

 行商人たちの足跡は、その先の人一人がやっと通れそうな細い崖路がけみちに続いていた。

 ラダンは眼下の谷川に目をやった。

 舗道があったであろうと思われる場所は茶色い濁流に飲み込まれて姿を消している。

 行商人たちが言っていたように地崩れが起きたのか、大きな岩や根が付いたままの木が浮き沈みしながら流されている。

 ラダンは慣れた足取りで細い崖路を歩きながら違和感を覚えていた。

(不便すぎないか……?)

 狩人ならまだしも、ただの行商人や巡礼者たちがこうも足場の悪い崖路をわざわざ選ぶものだろうか? 本当にこんな危ない道しかないのだろうか?

 ラダンが違和感を口にしようとした時、ふいに、後ろを付いてきていたアッカの足が止まった気配がした。

 不思議に思い振り返った瞬間、うなじにじりっと鋭い何かが走り抜けた。

 次の瞬間、足元が大きくぐらついた。

 ヒュンと何かが頬を掠めて、血の飛沫しぶきが不自然に上へと昇っていく。

――いや、違う。自分が落ちているのだ。

 がらがらと崩れる崖路と共に落下しながら、素早く身をよじって見上げると、ラダンが居た場所よりもずっと崖上に、弓を構えた複数の男たちの姿があった。

 そして、その首謀者だと思われる男と目が合った。

 ラダンは目を見開いてその光景を眺めていた。

 そこには、静かに佇み、冷めた目で自分を見下ろすアッカの姿があった。

はかられた……!)

 そう思ったのと、思い切り谷川に叩き付けられたのとはほぼ同時だった。

 背に伝わった強烈な衝撃で息が詰まり、肺に空気を入れるのが遅れてしまった。

 どうにかして顔を水面に出そうと藻掻くが、水嵩みずかさが増した川の流れは思ったよりも早く、身体が激しく揺さぶられて安定しない。

 上も下も分からぬほど、もみくちゃに回転しながら、ぐんぐんと流されていく。

 川底も水面も永遠に無いのではないかと錯覚を起こすほど、激流に雁字がんじがらめに捕らえられて抜け出せない。

 肺が空気を求めて暴れ出している。

(どうにかして息をしなければ……)

 全身に力を込めて泳ごうとした次の瞬間、突如脇腹に激痛が走り、その衝撃で肺に残っていたわずかな空気を吐き出してしまった。

 目の端で辛うじて捉えられたのは、巨木から伸びた太い枝に茂った緑の葉だった。

(くそっ……)

 目がかすみ、もう身体に力を入れる事が出来なかった。

 ラダンはそこで意識を手放した。



 身体のあちらこちらが痛かった。恐らくどこかの骨にひびが入っているのだろう。

 とにかく、鉛のように全身が重たく、指先を動かすことすらも億劫に感じる。

 節々の軋みや呼吸の速さ、異常な寒気も気になった。

 ああ、熱があるな。ラダンは、ぼうっとする頭で鈍くぼんやりとそんな風に考えていた。

(……俺は生きているのか?)

 暫くして、目線だけを動かして周囲を見てみると、そこは古いお堂のようだった。

 板壁は所々に穴が空き、まつられていたであろうと思われる神像はとうの昔に姿を消したようで、台座の上はがらんとしていた。

 時折、天井から通り雨の名残がぴちょん、ぴちょんと垂れている。

「良かった、目が覚めたんですね」

 足元の方から若い男の声が聞こえ、ラダンはぞっとして跳ね起きた。

 急に動いたせいで全身に激痛が走り、咄嗟に膝をついた。

「ああ、急に動いては駄目ですよ。まだ寝ていてください」

 少しでも口を開こうとすれば、胃からこみ上げてくる激しい吐き気に思考を全部持っていかれそうになる。

 ラダンは必死に呼吸を整えて、目の前の男を睨み付けながらようやく小さな声で訊ねた。

「……誰だ」

 若い男は目元まで伸びた前髪を指でいじりながら暫く何かを考えていたが、やがて、口をひらいた。

「僕はノギと申します。旅をしながら口承民話を集めている筆師ふでしです」

 ラダンはきつく眉根を寄せた。

「その筆師のお前が、なぜ俺と共にいる?」

――俺は谷川に落ちたはずだ。なのになぜ、朽ち果てたお堂で見知らぬ者と一緒にいるのだ。

「熊です」

「は?」

「ここで雨宿りをしていた僕の前に、大きな熊が貴方を引きずりながら現れたんです」

 ラダンは想像もしていなかった答えに言葉を失い、瞬きをした。

「可笑しな話だとお思いでしょう? 僕も心底そう思います。熊が人を助けるなんて聞いた事も見た事も無い。けれども、事実です。現にこうして貴方は僕の前に居るんですから」

 ノギと名乗った若い男は、これ以上説明のしようがないとでも言いたげに、少し困ったような顔でラダンを見ている。

「……アッカの手の者か!」

 ラダンはようやく思い出したように声を荒げた。

 毅然きぜんと佇み自分を見下ろしていたアッカの姿が脳裏に蘇り、ふつふつと怒りが湧き上がった。

 なぜ俺の命を狙ったのか、アッカが何をくわだてているのか、そして、その背後には何があるのか……今は検討も付かないが、谷川に叩き落としただけで満足するような男ではない事は確かだった。

 あの男は俺の首を持ち帰るまで探し続けるだろう。

「いいえ、僕はただの筆師ですよ」

 ノギはラダンの怒気どき気圧けおされながらも、肩をすくめて答えた。

「アッカというものが誰なのか、なぜ貴方が瀕死の状態だったのか、僕には全く分かりません。

 それに僕は自由が好きなんです。誰かの手先になんて決してなりませんし、誰かにめいを受けてあなたを看病したわけでもありません。目の前に助けられる命があったから救った。ただそれだけですよ」

 そう言われて初めて、ラダンは身にまとっている衣が変わっている事に気が付いた。

 辺りを見回すと、ずぶ濡れになった衣はお堂の端に吊るされて、床に水たまりを作っている。

「……一体何者だ」

 ラダンは尚も目の前の男を疑っていた。

「ですから、旅をしているただの筆師ですよ。丁度今、アウタクル王国に紡謡の民オルガ・ヤシュが訪れていると聞いたので会いに行く途中なんです。彼らは面白い話を沢山知っていますから」

 ラダンはノギの答えに呆然とした。

(アウタクル王国か……どうにも縁があるらしい)

 ラダンは何もかもを諦めたように、ゆっくりと床に背をつけると深く息を吐いた。

 全身の痛みと熱にやられた頭では考えが上手くまとまらない。

 もうどうでもいいような気すらしてくる。

「俺も連れていってくれ」

 ため息交じりにラダンが呟いたのを聞いて、ノギは心底驚いたような顔をした。

「僕に利はありますか?」

 ノギの問いにラダンは少しだけ目を見開いた。

 見た目からは想像も付かないが、意外とはっきり物を言うらしい。

 ラダンはふっと口元を緩めた後、暫く黙っていたが、やがて、天井を見上げながら小さく呟いた。

「先ほど、自由が好きだと言ったな。……あんたの自由は、利が無いと動けないほどなのか」

 今度はノギが目を見開く番だった。

 ノギはそのまま暫く黙ってラダンを見つめていたが、突如目を輝かせて身を乗り出した。

「なるほど! 僕が常々感じていた違和感はそれだったのか。そうか、僕は不自由だったのか、そうか……貴方は凄いです。そんな事考えた事も無かった」

 興奮したように首を大きく縦に振ったかと思うと、何やら一人でぶつぶつと呟いている。

 予測不能な言動といい、幼子のようにころころと表情を変えるノギの姿をラダンは呆然と見つめていた。

「貴方とは良き友人になれそうです」

 そう言って向けられた笑顔があまりにも輝いていて、ラダンは面を食らってしまった。

 そして次の瞬間、ラダンは、可笑しな奴だ、と声を出して笑った。

 笑う度に身体のあちらこちらから悲鳴が聞こえてきたが、今はそれすらもどうでも良かった。

 いつぶりだろうか? 何も考えずにこんなに笑ったのは。

 ラダンの中で、頑丈に繋がれた重たい何かが外れたような気がした。

「利ならある」

 ラダンの突然の言葉にノギは瞬きをした。

「利ならある。アウタクル王国に着くまででいい、俺をあんたの用心棒にしてくれ。獣だろうが、山賊だろうが、どんなものからでも守ってやる」

 ラダンは軋む身体をゆっくり起こすと、姿勢を正してノギに向かい合った。

「名はラダン。腕には自信がある」

 どういうわけか、この男にならまことの名を教えてもいいような気がした。

 板壁の隙間から差し込んだ濃い蜜色の夕陽は二人の横顔を照らし、お堂の中に静寂と緩やかな時の流れを映し出していた。

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