第25話 通り雨

 夜が更けていくにつれて、横殴りだった雨はいつの間にか小雨へと変わり、ヤロモ酒場には打ち付ける雨音の代わりに酔客すいきゃくたちの下品な笑い声や怒声が飛び交うようになっていった。

 ラダンはその喧騒の中で、ムウたちとの談笑を終え、酒を共に出来た礼を告げると静かに酒場を後にした。

 通りに出ると、上空から一つ鋭い鷹の鳴き声が耳に届いた。

 その声につられるようにして顔を上げると、小ぶりな鷹が上空をゆっくりと旋回しているのが目に止まった。

 小雨とは言え、まだ降り続く細かい雨粒が顔に張り付いてくるのが不快で、思わず顔をしかめた。

 ラダンは目を細めながら鷹の動きをじっと観察した後、胸の前で指を一本突き立てた。

 指先は不規則な動きを見せたが、鷹はそれを見届けると今度は先程よりも高く、長く鳴き、さっと何処かへ飛び去ってしまった。

 ラダンは濡れた顔をゆっくりと手でぬぐい、湿り気を帯びた前髪を後ろにかき上げながら再び歩き出した。

 安宿の板戸の留め具は、より頑丈に締められたのだろうか、弾け飛びはしなかったが、その分開閉の音がうるさくなったように感じる。

 店主はもう寝てしまったようで、店内は真っ暗でしんと静まり返っており、ラダンが踏むたびに悲鳴を上げる階段の軋む音だけがやけに大きく響き渡った。

 部屋に入るとラダンはさっそく通りに面した小さな窓を開け放った。

 風の無い、むっとする湿気が垂れ込んできたが、気にせず顔を少し出してから短く指笛を鳴らした。

 すると、それを待っていたかのようにして、さっと小さな影が窓から飛び込んできた。

 影は円卓の上に降り立つと、まるで人がするような仕草で雨に濡れた翼を不快そうに振り下した。

 そして、蠟燭が一つ置かれただけの薄暗い部屋で、夜目の利かないはずの鷹は迷いなくその鋭い目をラダンに向けた。

「報告を」

 ラダンが短く鷹に告げると、鷹は長く曲がった嘴を開いた。

「未だ金色こんじきまなこは確認できず。引き続き任務を遂行します」

 くぐもってはいたが鷹の口からは、はっきりと人の言葉が発せられていた。

「チャグナンがいに一番近いのは誰だ」

わたくしアッカでございます」

 ラダンは目をつむり暫く思案していたが、やがて鷹に目をやった。

「各々連れている五名は帰らせろ、アッカは俺と合流、ソナとリジェンには別で指示する。目処は立った」

「御意」

 アッカの魂を乗せた鷹はくいと頭部を下げてから、静かに窓から飛び去っていった。

 何気なくその姿を目で追っていると、鷹は途中でぐんと落下し、次の瞬間、慌てたように翼を広げながら上昇していく。

 恐らくアッカが獣奇魂じゅうきこんの術を解いたのだろう。

 濡れるのを嫌う鳥類が知らぬ内に雨の中を飛ばされたのだ。ラダンは少しだけあの鷹の不運を思った。


 翌朝、安宿の前にはすでにアッカの姿があった。

 年はラダンのいくつも上であったが、威厳や貫禄というよりは静けさや落ち着きが滲む顔立ちの男だった。

 争いごとを好まぬような、目尻の下がった穏やかな顔をしているが、この男は恐ろしいほどに頭が切れる。

 自らを誇示こじし堂々と獲物を狩る大型獣ではなく、敵の警戒がほころんだ僅かな隙を一瞬でつくさとい中型獣の印象だった。

 前者であれば力比べをすればいいが、後者は実に厄介だ。

 闇に生きる狩人たちは大凡おおよそその気質を持ってはいるが、果たしてアッカの右に出る者がどれほどいるのだろうか。

(なるほど、上手く紛れ込んでいるな)

 ラダンは目の前の男を見ながら心の内で呟いた。

 誰も、この巡礼者の装いをした小柄な男の正体が王帝に仕える狩人だとは思わないだろう。

「馬を借りますか?」

 アッカの提案にラダンは首振った。

「いや、いい」

「どちらへ?」

「アウタクル王国へ行く」

「御意」

 二人は最低限の言葉しか交わさなかった。

 昨晩、慣れぬ愛想笑いをし続けたせいだろうか、二人の間に流れるこの冷えた空気がラダンにとっては何とも心地よかった。

 嵐が過ぎ去った朝の空は、何もかもを洗い流したような、透き通った天色あまいろが広がっている。

 薄く棚引く透けた雲を見上げながらラダンはこれからの事を思った。

 モリュが確認出来なかった赤子たちはソナとリジェンに任せ、後ほどアウタクル王国で合流するよう指示を出した。

 自分たちは先にアウタクル王国に入り、王族を相手に立ちまわれる足場を築かねばならない。

 まだ皇太子が金色こんじきまなこだと決まったわけではない。しかし、答えはすぐに出る気がしていた。

――何も知らずに生まれた赤子が、何も分からぬ内に死んでゆくのか……。

 アウタクル王国の王帝に他の子がいるという情報はない。

 唯一の世継ぎだ。

 自分たちは今、親鳥の腹の下で大事に守られている雛を食らおうと、僅かな隙間から獲物を狙う狡猾な蛇になろうとしているのだ。

 そう思った途端、何かがすとんと腹の中に落ちた気がした。

(そうか、俺は安宿の店主や酒を共にした者たちに見せた甘ったるいつらではなく、こちらの方が性に合っているのだな)

 ラダンは心の内で苦笑しながら、歩き始めた。



 雲行きが怪しくなり、雨の気配を纏った風がラダンたちに吹き始めたのは、チャグナンがいを発ってから数刻も経たぬ内だった。

 小さな雷鳴が遠くの方で響いたかと思うと、たちまち空は灰色の分厚い雲で覆われた。

 ぽつぽつと降り始めた雨が、一瞬のうちに大粒の雨となって地面を叩き付け、土道を黒く染めていく。

 ラダンたちは山道を駆けた。

 そして、丁度現れた道祖神をまつった大きなほこらの屋根下に飛び込んだ。

 風はほぼ無く、ばちばちと降りしきる雨は一直線に地面に向かって落ちていく。

「通り雨ですね」

 アッカは濡れた衣を手ではたきながら、空を見上げた。

 屋根下には、ラダンたちと同じように突如降ってきた雨を凌ごうと行商人たちが身を寄せ合っており、酷く狭苦しかった。

「こりゃあ、トゥムナ川も氾濫しそうだな」

 行商人の一人が舌を鳴らして呟いた。

「ああ、しかも、この辺りは地崩れし易いからなあ、濁流に巻き込まれねぇように山を登るか。ついてねぇ」

「川のそばの舗道が一番近道なんだが、これじゃあどうしようもねぇな」

 ラダンは行商人たちの会話を聞きながら、ちらとアッカの方を見やった。

 アッカは真っ直ぐ前を見つめたまま、口を真一文字に結んで眉間に皺を寄せている。

 ラダンが声を掛けるべきか迷っていると、アッカは小さく呟いた。

「私たちも山を登りしましょう」

「……そうだな」

 ラダンは間を空けてから一言そう答えると、滝のような雨で視界の悪くなった景色に視線を戻した。

 濁流と聞いて最初に頭に浮かんだのは、アッカの妹の事だった。

 ラダンが隊長になるよりも随分昔、アッカの妹は狩りの途中で足を滑らせ、濁流に飲まれて命を落とした。

 仲間たちと下流を広範囲で捜索したが、とうとう彼女の亡骸は見つからなかったという。

 山間の川が氾濫し、上流で地崩れをおこした時の濁流の恐ろしさは狩人でなくとも誰もが骨身に沁みて知っている。

 だから、彼女が荒れ狂う自然の猛威から逃げ切れなかった事は誰もが予想のつく事だった。

 狩人の屋敷で、湖面のように静かなこの男が、唯一の肉親を亡くした時にあげた慟哭どうこくを今でも鮮明に覚えている。

 それに、その亡骸を腕の中で抱く事の出来なかった悲しみは、誰とも分かち合えずに生涯一人で抱えていかなければならないだろう。

 ラダンは先ほど垣間見たアッカの眉間の皺を思い出しながら、雨が通り過ぎるのをじっと待った。

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