第24話 交わらぬ糸

 ラダンは大気の匂いが変わったのを感じて足を止めた。

 ずっと続いていた嗅ぎ慣れた晴日はるひの匂いはいつの間にか消え去り、遠くから湿った水の匂いが漂ってきている。

 見上げると、空の端に黒々とした分厚い雲が顔を覗かせ、空全体を覆おうと勢いを付けて膨らみ始めていた。

 じきに雨が降るだろう。

 ラダンはチャグナンがいあきない通りを見渡し、古びてさびついた安宿の看板に目を止めた。

(今日はここで足止めか)

 安宿のガタついた板戸に手を掛けると、大きな音をたてて軋みながらゆっくりと内側に開かれた。

 久しく開閉されていなかったのだろうか、板戸に付いていた留め具が一本弾け飛び、床で二、三度跳ねて奥へと転がっていった。

 留め具の外れてしまった板戸はぷらんと斜めに吊られて、ゆらゆらと揺れている。

 ラダンが呆然と板戸を眺めていると、店の奥からバタバタと早足でこちらに向かってくる足音が聞こえた。

「いやーお客様、すみませんねえ。見ての通り古戸ふるどでして、こうやってすぐに外れちまうんですよ。ちょっと失礼」

 店主は豪快に笑いながら、留め具の外れた部分に何やら道具を当てて、くるくると回し始めた。

「壊してしまったのかと思って肝が冷えました」

 ラダンは顔に穏やかな仮面を貼り付けて、胸を撫で下ろす仕草をした。

「いえいえ、うちはこれが売りなんでお気になさらず。ところでお泊りですか?」

「ええ、一晩お願いします」

「まいどあり」

 いつの間にか直っていた板戸を後ろ手で閉めながら、店主は嬉しそうに頭を下げた。

 案内されながら軋む木板の階段を上ると、左右に二つずつ、計四つの部屋が並んでいた。

「好きなところを使って下さい。こんなおんぼろな安宿に好き好んで泊まる客なんて他にいやしませんから」

 店主はまたもや豪快に笑うと、ラダンの肩をぽんと叩いた。

 それじゃあごゆっくり、と告げて下へ降りて行く途中で、店主はふと足を止めて振り返った。

「ああ、それと、食事は二軒隣のヤロモ酒場に行くといいですよ。あそこは飯も美味いし、安い酒も多いですから、ちったあ気晴らしになるはずです」

 ラダンは微笑みながら頷いて礼を言った。

 部屋は小さな円卓と椅子、寝具が置かれただけの狭い造りだったが、掃除の行き届いた小ざっぱりとした部屋だった。

 通りに面した窓の外では、雲行きの悪さを早急に察した商人たちが、急いで露店を畳んで引き上げている。

 ラダンは肩掛けの荷を円卓の上に置くと、寝具に腰を下ろして、モリュから貰った古紙を広げた。

 そこには、ここ数ヶ月で生まれた赤子の情報がずらりと並んでいる。そして、そのほとんどの横には大きくばってんが記されていた。

 この古紙を受け取った際、モリュはラダンに小さく耳打ちをした。

「俺がこの目で実際に見た情報ですので確かです。多めに頂いた金のお礼です」

 モリュはぱちんと片目を閉じて、得意げに笑った。

 これはラダンにとってみれば有難かった。古紙に並んだ情報の一つ一つを潰していくとなると、かなりの時間を有するはずだ。

 得意げに笑ってみせたモリュの顔を思い出しながら、ラダンはふっと口元を緩めて、ばってんの書かれていない文字を目で追った。

――目のやまいの赤子が三人、モリュが人伝いに集めた情報の赤子が五人、そして、まだお披露目されていない皇太子が一人。

 中には、金色の目を病だと言う人もいるのだろうか。それとも、目が開かぬ者を金色こんじきまなこと呼ぶのだろうか?

(それなら、この三人ともがそうなのか? いや、違うはずだ……)

 どうにも腑に落ちず、その考えは早々に打ち消した。

 考えを巡らせながら、ラダンはふと、皇太子と書かれた横にあるアウタクル王国という文字を指でなぞった。



 夜になると風は勢いを増し、チャグナンがいには豪雨が降り注いだ。

 大粒の雨は暴風と共に横殴りを続け、地面や家屋に白い飛沫しぶきを散らしている。

 天空では紫電が空を裂き、唸るような雷鳴が断続的に大気を揺らしていた。

 その打ち付ける激しい雨音を聞きながら、ラダンは店主に言われた通りヤロモ酒場の入り口の傍で食事をとっていた。

 湿気を帯びた蒸し暑さとごった返した男たちの熱気が混ざり合い、むっとした空気が立ち込めていたが、出された料理や酒はどれも絶品だった。

 簡単な食事を済まし、静かに酒をあおっていると、入り口の板戸が勢い良くあいて二人の男が飛び込んできた。

 男たちは、ずぶ濡れになった雨衣あまごろもを壁の釘にかけると、ラダンのすぐ後ろの椅子に腰を下ろした。

 給仕の女がにこにこと愛想のいい顔をしながら、座った男たちの注文を取りにやってくる。

 特に気にする事もなく、酒場の賑わいに耳を傾けながら酒を楽しんでいると、ある言葉がラダンの耳に飛び込んできた。

「これは絶品ですね、では見た事も無い料理です」

 ラダンは目を見開いて、口元に持っていこうとした酒杯さかずきを止めた。

 そのまま静かに酒杯を卓の上に置くと、意識を耳に集中させて、先ほどの声の主を探った。

 女の高い声でも無く、老いてくぐもった声でも無い。酔っぱらって上ずった声でも無ければ、若く幼い声でも無かった。

「海洋の魚は川魚と違った風味がしますね」

――いた。

 その声は先ほどラダンの後ろに座った男から発せられていた。

 ラダンはちらと後ろを振り返り、声の主を目視した。

「これは驚いた! この酒はくどくなくて口当たりがいいですね」

 男は興奮したように隣に座る男に話かけている。

 それを確認すると、ラダンは酒杯に残っている酒をぐっと喉に流し込み、酒壺さかつぼと酒杯を持ってゆっくりと立ち上がった。

「こんばんは、ご一緒しても宜しいでしょうか?」

 突如現れた見知らぬ男の登場に、男たちは一瞬驚いた後、互いに顔を見合わせた。

 お互いの表情からして、どうやらどちらの知り合いでもなさそうだと悟った男たちは困惑の表情を浮かべながらラダンを見上げた。

「突然申し訳ございません。実は私の弟がアウタクル王国に婿むこりしておりまして、こんなところでその名が聞けるとは思っておらず、思わず声をかけてしまいました」

 ラダンは微苦笑を浮かべながら、小さく頭を下げた。

「それは、それは、こちらにどうぞ」

 四十後半だろうか、見るからに人が良さそうな男が穏やかな笑みを浮かべて、隣の椅子を指した。

 ラダンは一礼し、椅子に腰掛けると、給仕の女を呼んだ。

「同じものを一つ」

 持っていた酒壺を小さく上げて見せると給仕の女は嬉しそうに頷いて奥へ引っ込んでいった。

「お食事の邪魔をして申し訳ございません」

「とんでもない、美味い酒は大勢で飲むものですよ」

 もう一人の男が楽しそうにそう言いながら、自分の持っていた酒杯を持ち上げてラダンに近づけた。

 ラダンも隣の男もそれにならって酒杯を持ち上げ、三つの酒杯が小さな音をたててかち合った。

「テナンと申します」

「私はムウと申します。こちらはイェルハルドさんです」

 ムウと名乗った男は、もう一人の男を手のひらで指しながら教えてくれた。

「北へ出稼ぎですか?」

 南部地方特有の濃いはっきりとした顔立ちの二人を見ながら、ラダンは当たり障りのない会話から始めた。

「私はそうです、ザムアル帝国に出稼ぎに行く途中なんですよ」

 イェルハルドの答えにラダンは首を傾げた。

「私は?」

「ああ、私は旅の途中なんですよ、縁あってイェルハルドさんと共に北を目指しているんです」

 ムウはラダンに酒杯を出すよう促すと、そこに自身の酒を注ぎながら言った。

「ありがとうございます。旅仲間なんですね、しかし随分南から来られたのですね」

「アウタクル王国はこの大陸の最南端ですからね」

 ムウは確かに、と笑いながら答えた。

「あそこは緑の多い穏やかな気候で住みやすい国だと弟から聞いております。最近、皇太子様が生まれたと吉報が届きましてね、先日祝いのふみをだしたところです」

 ラダンはムウの目を見ながら微笑んだ。

 その左右に小さく揺れた瞳を見逃す事なく、更に続けた。

「民にお披露目はあったのですか?」

「いえ、皇太子様は次の年の春の誕生祭まではお披露目されません。私もお会いできるのを楽しみにしているんですよ」

 ムウはラダンに微笑み返した後、ふと視線を下げて、中の酒を回すように酒杯を小さく揺らした。

「そうですか、それは待ち遠しいですね」

 ラダンは相槌を打ちながら、丁度給仕の女が持ってきた酒壺を笑顔で受け取った。

(春の誕生祭か)

 では、それまでにモリュが確認出来なかった五人の赤子を先に調べるか。

 そこで見つかればいいが、もし一国の皇太子に手をかけるとなると、それなりの準備が必要だな。

 ラダンはムウたちと談笑しながら、頭の中では様々な算段をたて始めた。

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