第23話 奇妙な男

 ムウは何かがこすれる音で目を覚ました。

 重い瞼を開けると、丁度ノギが背負子しょいこを肩にかけているところだった。

 ぼんやりとした意識の中、ムウはゆっくりと身体を起こした。

「もう行かれるのですか?」

 ムウは驚きながら、夜明けというにはまだ早い青暗い窓の外に目をやった。

 ノギは窓の外を眺めた後、ムウの方へ向き直り微笑んだ。

「ええ、僕はこの早朝の薄暗さや匂い、静けさが好きなんです。それに急かされるように進むのではなく、じっくり景色を楽しみながら自由に旅がしたいので」

「差し支えなければ、これからどちらに行かれるのかお聞きしても宜しいですか?」

「僕はこのまま王都に向かいます。そこにある写し屋に書物を持ち込んで交渉しようと思っています」

 ムウは一瞬目を見開いた。

「その写し屋に名はありますか?」

「……?」

「あ、いえ、すみません。私たちも写し屋を探していたもので、つい」

 ムウは頭を搔きながらぎこちなく微笑んだ。

 ノギはその様子を見て何か考えるような仕草をし、やがて、納得したように頷いた。

「なるほど、天鼠てんそしゅうですか?」

 ムウは弾かれたように顔を上げた。

「写し屋の名を聞かれたのでそうかなと思いまして、違いましたか?」

「いえ、その通りです。天鼠てんそしゅうを探しております。どうしても急ぎ会わなければならないのですが、所在が分からず手探り状態で困っているところでして……」

「それなら、ケザラ王国西部のチャグナンがいにある写し屋に行くといいですよ。ここからならそれ程遠くないですし、しっかりした佇まいなので比較的見つけやすいかと思います。ただ……」

 ノギは少し言いよどんだ後、申し訳なさそうに付け加えた。

「まだその写し屋がいたらいいのですが、僕が立ち寄ったのは随分昔のことなので、もしかしたら、もうそこに彼らが居ない可能性もあります。その時は申し訳ございません」

「とんでもない! 十分です。どんな些細な情報でも今の私にとってはとても貴重です。本当に有難う御座います」

 ムウは大きく首を振ってから、深く頭を下げた。

 まさかこんなところで天鼠の衆の情報を得られるとは思ってもみなかったのだ。

「もしそこに彼らが居なかった場合は、少し遠くなりますが北のルガウ街道に行ってみてください。あそこの写し屋は確実に生きていますから」

 ムウは眉根を寄せた。

「随分と天鼠てんそしゅうの事を知っておられるのですね」

 ノギは微笑んで頷いた。

「好きなんですよ、そういうたぐいのものが。世からかけ離れた奇怪な存在や、常人では到底理解出来そうにない怪異な事柄などが。それらは僕にとって堪らなく魅力的で、いつでも胸の奥をくすぐるんですよ。まあ、単なる好奇心ですけどね」

(ああ、なるほど)

 ムウはノギの言う好奇心が何なのかをよく知っていた。

「では、僕は行きます。素敵な旅を」

「はい、ノギさんも。ここでお会い出来て良かったです」

 二人は同じように微笑んで、宿を発つ者と再び寝床に潜り込む者とに分かれた。

 そうして、ムウに別れを告げたノギは木賃宿きちんやどから少し離れた所でふいに立ち止まった。

 山道脇に佇む背の高い木々たちはまだ太陽の恩恵を浴びずに暗く眠っている。

 しかし、幾人にも踏みならされた山道の道だけは白んできた空と同じように薄白くずっと先まで続いていた。

「これで良かったですか?」

 ノギは誰に向けるでもなく、一人呟いた。

 すると、木立の陰から奇妙な男の声が聞こえた。

「ええ、感謝いたします」

 ノギは前を見つめたままその男に訊ねた。

「教えては下さらないのですか? なぜ昨夜突然僕の前に現れて、彼らを天鼠てんそしゅうのもとへ導かせるよう頼んだのか、そして、それが何を意味するのかを。

 僕が先程語った好奇心に嘘はありません。ですから、貴方が何者なのか僕はとても興味があるんですよ」

「……偶然、筆師ふでしの貴方が私どもの前に現れた。ただそれだけです」

 奇妙な男は暫く黙っていたが、やがて低い声で淡々と告げた。

「さっぱり分からないな。貴方は昨夜から姿も見せないし、彼らの知り合いでもなさそうだ。今朝、木台に置いてあった金貨よりも貴方が何者なのか教えていただける方が、僕にとっては何よりも報酬なんですけどねぇ」

 しかし、奇妙な男の気配はもうそこには無かった。

 ノギはそれを確認すると、ふっと笑ってまた歩き出した。

(偶然か……さて、僕はどんな物語に入り込んだのやら)



「不思議な方でしたね」

 イェルハルドは荷車を曳きながら呟いた。

「そうですね、いつかまた会えるような気がします」

 ムウは明るみ始めた東の空を見ながらぼんやりと答えた。


 ジュゴ王国の王都に入り通行証と商い証を受け取ったのは、太陽が真上よりも少し西に傾いた頃だった。

「さて、これでチャグナンがいに向かえますね」

 イェルハルドは荷車の車輪を確認しながら、どこか楽しそうに言った。

「本当にいいのですか?」

 ムウは困ったように眉尻を下げてイェルハルドを見やった。

「チャグナン街はここからだと、かなり西寄りですからイェルハルドさんにとっては大きな寄り道になってしまいます。北へ真っ直ぐ進む方が何日も早くザムアル帝国に着きますよ」

 イェルハルドは小さく首をふった。

「今朝お伝えしたようにそれ程遠回りというわけでもないので大丈夫ですよ。それに、何だか私もね、ムウ殿に触発されたようで会ってみたくなったんですよ。天鼠てんそしゅうとやらに」

 イェルハルドは童心に返ったような笑顔をムウに向けた。

 そして、膝に付いた土を払いながら立ち上がると、行きましょう、と微笑んでみせた。

 ムウはどうにも不思議な気分だった。

 アウタクル王国を発った時に感じた凍てついた孤独感は、いつの間にやらじんわりと溶かされ、更には、もうずっと長い間二人で旅をしてきたような錯覚すら覚えるようになっていた。

 こうしているのも何かの縁なのだろう。生まれ、老いて死にゆく中でどれ程の縁と出会えるのだろうか。

 ムウは改めて自身の傍に立つ幾人もの暖かさに感謝した。

 しかし、別れはいずれ来る。それならば、今だけでもこの安堵を胸に抱いて進もう。

 ムウはふっと口元を緩めた。

「どうやら似てきてしまいましたね」

 それを聞いたイェルハルドもまた、嬉しそうに笑って頷いた。

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