第20話 平野の戦場
上空では風の流れが速いのだろう、先ほどから細い半月が現れては、またすぐに雲に隠れて姿を消していった。
眼下の平野にはザムアル帝国軍の
少し離れた小高い丘に
篝火の近くでは兵たちがいくつかの陣に分かれて固まっており、開戦の合図をずっと待っている。
ラダンはその小さな黒点の集合体を見下ろしながら、まるで甘味に群がる蟻のようだと、ため息をついた。
「なぜ俺をこの戦に呼んだ」
ラダンは後ろに立っている男に、不服そうにそう訊ねた。
「
男は一言そう言ったきり、再び静かに眼下に目をやった。
ラダンは心の中で舌を鳴らしながら、計画が大きくずれた事に対して苛立っていた。
本来であれば、とっくに
にもかかわらず、なぜ俺は今ここに立っている? なぜ互いに睨み合い、一向に動こうともしないつまらないものを見続けねばならないのだ。
敵は
無論、食糧補給路は徹底的に潰した。背後を狙ってくるだろうと思われた敵の援軍の一掃ももうとっくに終わっている。
ザムアル帝国の見立てではそろそろ敵も動くだろうとの事だが、その伝達を受けてから早ひと月が経とうとしていた。
婆様からのお告げを受けた後、父に呼び出されてこの戦に加われと言われた時は、いつものように早々に終わるだろうと高を括っていたが、どうやら王帝オムサはこの要塞をそのまま奪いたいようだ。
ラダンは再びため息をつくと、一度目を閉じてから苛立ちを無理やりぐっと奥へ押しやった。
「……御意」
納得は出来ないが、どうにもならない諦めを混ぜて吐き捨てるように言った。
「ラダン、そこらの子供じゃあるまい。らしくないぞ」
男は小言を言いながら、ラダンの横に並ぶようにゆっくりと歩み寄ってきた。
背丈はラダンの肩程しか無いが、鍛え抜かれた筋肉は身体のそこかしこで隆起し、頑丈で分厚い体躯を造りだしている。
幼い頃からラダンと共に育った男だ。
狩長でもあるラダンの父に忠誠を誓っており、情に厚く部下からの信頼も厚い。
特別才が有った訳では無いが、絶え間ない修練と幾度もの死戦をくぐり抜けた経験で隊長の座にまで上り詰めた男だった。
「そうは言うが、マース。この規模の戦ならお前の隊だけで十分なはずだ」
マースは一瞬言葉を詰まらせたが、間を置かずにさらりと答えた。
「何かお考えがあるのだろう」
「しかし、俺の隊は今回の戦に向いていない」
ラダンは目を細めて眼下の戦場を見下ろした。
自分の隊の事なら誰よりも知っている。ラダンの隊は今回のような別の隊と行動を共にするような狩り法には向いていなかった。
なぜならラダンがそう育てたからだ。
ラダンの隊は他の隊と違い、ただ淡々と個々で動く集団だった。
内々で連携を取り合いながら相手を狩るという事は決してしない。
各々が自身の獲物を狩る事だけを第一に考え、どんな手を使ってでも必ず狩ってくる。
そして、その能力が無い者は簡単に切り捨てた。
強さこそがラダンの隊で生存できる唯一の証であり、弱き者には居場所を与えなかった。
隊の連中もそれを良しとしていたし、そこに異論を唱える者もいなかった。
そんな冷酷さと近寄り難さから、他の隊からは敬遠され孤立していたがラダンはそれでいいと思っていた。
弱い者を抱える負担は時として味方の命を奪うことになる。また、情や慣れ合い、仲間意識といった曖昧な感情は必ずどこかで自分たちの首を絞める事も知っている。
だからこそ、ラダンは強さのみに重きを置いた。
だが、それだけでは脆く崩れやすい事も重々承知している。
個々が、いくらずば抜けて強かろうが統率がとれぬようでは隊とは呼べぬ。
それは数が増えれば増えるほど失われていくものだ。
そして、何処からか生じた小さな亀裂は徐々に幅を広げ、上と下を分かつ大きな溝になるのだ。
だから、ラダンは自分を頂点とした三角の集団形態を作り上げた。
まず、強き三人の副将を選定し、そこだけに信を置いた。
それ以上は散漫し、差を生まぬ。人は特別が欲しいのだ。己だけが認められ、信を置かれ、頼られているという確証が。
その差が無くなれば不満や不安が生じ、仕える対象を見失う。
だから、副将たちにも己の下に三人の
そうして出来上がった大きな三角の型は途切れる事無く土台を広げ続け、確固たる集団を作り上げた。そこに他が入り込める隙間は無いのだ。
いくら他の隊から能面だの人面獣心だのと影口を叩かれようが、どうでも良かった。
その時、野太い角笛が平野に響き渡って思考が途切れた。
どうやら、ようやく戦が始まったらしい。
隣を見るともうマースの姿はそこに無かった。それでもラダンは動かなかった。
未だに自分が呼ばれた事に納得が出来ず、事の成り行きをここで見守ることにしたのだ。
闇夜を鋭く切り裂く矢の音、刃と刃がぶつかり合う甲高い音、雄叫びにも似た男たちの
暫くして、一際大きなどよめきが沸き起こった。
見ると右方に大きな流れが出来ている。敵陣から土埃を巻き上げながら猛進する猪の如くこちらの陣に向かってくる一本の筋が見えた。
大方、敵将の御出ましと言った所だろう。
マースが早々にかたをつけるだろうと気にも止めていなかったが、いつまで経っても敵将の勢いは止まらなかった。
それどころか、こちら側に大きく流れ込んで来ている。
ラダンは眉根を寄せた。
素早く戦場全体に目を走らせ、ある一点で目を止めた。
左方、篝火も届かぬ暗闇に小さな戦の揺らぎが見えた。
「右方と左方で別れろ」
ラダンは自分の隊にそう告げると地面を強く蹴った。獲物に狙いを定め下降していくハヤブサの如く丘を駆けた。
天候が荒れる前の嫌に湿って澱んだ空気を頬で切り裂いていく。
次の瞬間、刃と刃が激しい音を立ててかち合い、両者ともに動きを止めた。
敵と目が合った。
瞬間、敵の瞳の奥が僅かに揺れたのをラダンは見逃さなかった。
(成程、そういう事か)
敵は体制を立て直そうと素早く身体を縦に回転させながら後ろに飛びのいた。
飛びのき様、回転を利用した刃が下から上に突き上がってきたが、ラダンはそれを小さく避けると、逃げた相手を追うように更に前へ突っ込んだ。
(どいつもこいつも。なぜ迷うのだ)
ラダンは心の中で双方に悪態をつきながら、素早く
その時丁度、雲の隙間から現れた半月の光がラダンの刃に反射し煌めいたが、瞬時にどす黒い血の色に染まった。
代わりに、見開かれまま宙を舞った敵の双眸に月明かりが反射し、ぼとりと落ちた。
地面に転がった見知った顔の首を
嫌に静かだった。
ここだけ時が止まったように戦の喧騒から隔離され、音も動きも一切の活動を止めているようだった。
表情一つ変えずに血だまりの上に立つラダンの隊と、仲間の無惨な最期を前に戸惑いながら呆然と立ち尽くすマースの隊とが向き合う形となった。
「……どうなっている」
マースが絞り出すように呟いた。
「さあな、金でも積まれたんだろう」
ラダンは戦場の右方に目をやった。どうやら、あちらも問題無く片付いたようだ。
ようやくこの煩わしい戦が終わったのだ。
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