第三章 二本の糸

第19話 北へ

 勢い良く開かれた木戸から飛び込んできたムウの形相を見てイェルハルドは驚いた。

 ムウの呼吸の荒さにおろおろと両手を宙に漂わせ、何事かと目を見張った。

「だ、大丈夫ですか? 顔色が酷く悪いですよ」

「いつ……いつ、ここを発ちますか?」

 ムウはイェルハルドの問いには答えず、息を切らしたまま途切れ途切れにそう訊ねた。

「……?」

「北へ出稼ぎに行かれるのはいつになりますか?」

 すがるような目で答えを懇願するムウの必死さにイェルハルドは気圧けおされながら眉根を寄せた。

「落ち着いて下さい。冬は越しましたから、出立の準備が整えばここを発ちますよ?」

「それはいつですか? すぐにでも天鼠てんそしゅうに会わなければ! 私は長居をし過ぎた」

 最後の言葉は自分自身への苦言だった。

 そうだ、居心地が良すぎたのだ。ムウは言葉にしてようやく納得した。

 イェルハルドたちと共に過ごす日常があまりにも穏やかで、心地良く、自分が何を背負って国を出てきたのか、また、自分の帰りを祈るようにして待っている者達がいる事を次第にぼんやりとした輪郭の中に閉じ込めてしまっていたのだ。

 ムウはぐっと唇を噛んで顔をしかめた。

「はあ、何があったか知らんが、落ち着けぇ。焦ったってどうにもならん」

 囲炉裏の前で茶を啜りながら、エルヴィナは何事もなかったように前を見たまま、ため息交じりに言った。

「そうですよムウ殿、ひとまずこちらに座って落ち着いて下さい」

 イェルハルドはぐずった幼子をあやすように背をさすり、囲炉裏の前まで誘導してくれた。

 サヤは何も言わずに、温かい茶を手渡してくれた。

「取り乱してしまい、申し訳ない。不吉な月のを詠んで、自分がしなければいけない事を思い出したのです」

 ムウは慣れ親しんだ茶の香りを嗅ぎ、安心したようにようやくぼそりと呟いた。

「……そうですか、では急ぎ明日から準備に取り掛かりましょう」

 イェルハルドは暫く思案した後、深く詮索しようともせず、代わりに穏やかに笑って見せた。

 ムウはその答えに、表情にほっと胸を撫で下ろした。

 しかし、ふと、自分はとんでもなく不躾な申し出をしている事に気が付いた。

 当たり前のことだが、イェルハルドが共にここを発つという事は家族と離れなければならない。年に一度訪れる家族団欒の貴重な時間を、己の都合で奪っていいはずがない。

 ムウはさっと血の気が引くのを感じた。

「いえ、その……申し訳ございません。自分の都合しか考えていませんでした。本当に失礼な事を……急ぎではなく……」

 ムウはしどろもどろ、言葉を濁しながら目を泳がせた。

「ほんにせわしない奴じゃな。もう十分一緒におったわ、毎年の事じゃて別に今更惜しむもんでも無い」

 エルヴィナはムウが何を言いたいのか察して、呆れたように言った。

 それを聞いたイェルハルドもようやく理解したようで、ああと頷いた。

「私もそろそろだと考えていたので大丈夫ですよ。食料の貯えも、薪の貯えもムウ殿が手伝ってくれたおかげで、例年よりも早く出立出来そうです」

 イェルハルドは微笑みながら頷くと、深々と感謝の意を込めて頭を下げた。

 下げられた頭を見て、ムウは胸に込み上げてきた熱いものをぐっと堪えた。

 そして、姿勢を正して床に額を付けた。

「本当に感謝してもしきれません。この御恩は決して忘れません」

 大袈裟な、と鼻で笑ったエルヴィナの表情にも普段あまり表に出さない穏やかな笑みが滲んでいた。


 それからはあっという間だった。

 大きな荷車の荷台に竹細工や出稼ぎに必要な荷物を積み、エルヴィナやサヤに見送られてノジン村を経ったのは、よく晴れた初春の早朝だった。

 竹林を抜け、雪に覆われた白銀はくぎんの田園風景に辿り着いたのが、ついこの前のように感じるが目の前の景色は春の陽光に溶かされて、生命力溢れるみずみずしい若葉の世界へと姿を変えていた。

 畦道あぜみちに咲く背の高い白や黄色の小さな花々は、朝の爽風に吹かれながらゆらゆらと踊っている。

 また、田には水が張られ、苗が植えられるのを今か今かと待ちわびているようにきらきらと輝いていた。

 名残り惜しそうに振りえると、エルヴィナが小さく手を挙げた。

 サヤは相変わらず無表情のままだったが、ムウの顔を見るとゆっくりと頭を下げた。サヤらしい挨拶だった。

(またここへ戻ってこよう。ここで過ごした日々はきっと生涯忘れる事はないだろう)

 ムウは深々と頭を下げて二人の家族とノジン村に別れを告げた。

 こうして、イェルハルドが荷車を前から曳き、ムウは後ろから押す形で北への旅は始まった。

 まずはジュゴ王国の都に寄り、通行証と商い証を貰わなければならないという。

 都までの道のりは、いくつもの険しい峠を越さなければならないのかと覚悟していたが、意外にも商人専用の舗道がきちんと引いてあった。

 加えて、山を越えると言っても、蛇行しながら緩やかな坂になるよう考えて作られているようで想像していたよりも荷車を押しながら歩く事はそこまで苦では無かった。

 それに、どうやらノジン村での生活の中で幾分か体力が付いたらしい。

 武術にてんで縁の無かったムウにとってみれば、それは嬉しい収穫だった。


 道中、足早に通り過ぎていく背負子しょいこを背負った商人たちにも目を凝らしてみたが、残念ながら書物を運んでいる者はいなかった。

 それからひたすらに歩き続け、木賃宿きちんやどへ辿り着いたのはすっかり夕刻を過ぎた頃だった。

 宿前には大きな提灯がさがっており、そこだけが煌々と明るかった。

 イェルハルドはムウにここで待つよう伝えると、荷台から麻縄で縛った薪の束を抜き取った。

 ムウが不思議そうに見ていると、イェルハルドは笑いながらこの薪が宿代になるんです、と宿の名の由来と共に教えてくれた。

 イェルハルドは店番の男に薪束を差し出しながら、何やら交渉しているようだ。

 互いに手を突き出して提案し、話し込んでは首を振ったりと押し問答が続く。

 ムウはその様子をぼうっと眺めていたが、ようやく意見が合致したのかイェルハルドが頷いたのが見えた。

「すみません、お待たせしました。今日は客が多いようで申し訳ございませんが、相部屋になりました」

 イェルハルドは申し訳なさそうに謝りながら、薪を半分持って帰ってきた。

「その代わりに薪を貰いました」

 にっと口の端を上げ、持っていた薪を軽く揺らしてみせたのを見て、ムウは生粋の商人だなと心の中で舌を巻いた。

 それから、荷番のいる小屋に荷車を預け、木賃宿の木戸をくぐると正面にはいくつかのかまどと水場が設けられており、左手にはふすまが外された広い一室があった。

 宿泊客たちの憩いの場として開放されているようで、行商人や旅人、巡礼者などで賑わっている。

 ムウたちはそこで干飯と干し肉を湯でふやかした簡単な食事をとって、早々に部屋へと向かった。

 細い廊下の両側に襖で仕切られた部屋がいくつも続いており、談笑や赤子の泣く声などが聞こえ漏れていた。

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