第18話 朽ちた月の音色

 夜の山は思いのほか騒がしかった。

 じーじーと鳴き続ける虫の音や、おすの求愛にめすが鳴き答えるふくろうの鳴き声、遠くから聞こえる獣の遠吠えなど様々な生き物たちの声が山中に響き渡っている。

 また、煌々と輝きながら夜空に鎮座する月も普段に増してその存在感を放っているのは、今宵が満月のせいだろう。

 昼間とは違い、枝葉の隙間から差し込む青白い月明かりは地面を突き刺し、山はそれらを吸収して、自らをぼうっと発光させているような何とも言えぬ神秘的な光景が広がっていた。

 ムウは猟刀で付けておいた印を頼りに目的の場所にたどり着くと、呼吸を整えて、直接地面に腰を下ろした。

 暫く夜空を見上げて月を見つめた。

 ふと、ノジン村に来てすぐの頃、大雪が降る事を詠んでイェルハルドに大袈裟なほど感謝された事を思い出した。

 もう随分昔のようにも思えるが、ノジン村で月詠みをしたのはあの一度きりだった。

 金色こんじきまなこに関する事柄以外は詠めるのだ。

 天候、災害、まつりごとに関する事情、普段月詠み師が詠んでいるものは大概詠めた。

 だから、今回の〈もやの月〉が現れたとしても、事情を知らない宮の者からすれば、ミアは以前と何一つ変わらずに帝に仕えているように映るだろう。

 言ってしまえば、もやがかかって詠めない事柄だけは、全て金色こんじきまなこに関わっていると考えて良かった。

 しかし、ムウはこれから何を詠むのかをまだ決めていなかった。詠めば分かる。そんな曖昧な確信だけがムウの中にはあった。

 ムウは目を細めて月を見やった。

(さて、何を教えてくれる)

 ぐっと背筋を伸ばすと、腹に少しだけ力を込めて目を閉じた。

 意識を内側へ深く尖らせていくと、あれだけ騒がしかった山の声はムウを避けるようにして徐々に遠のき、辺りはムウ一人だけの空間へと姿を変えた。

 眉間から鼻の奥にドロリと濃厚な甘い花の香りが落ち広がっていく。

 途端、ムウの周りにあった大気は水飴のように粘性を帯び、辺り一帯に溶け出していった。

 それはドロドロと緩やかに、しかし、流水のように淀みなくゆっくりと流れ始めた。

 まるで、川の中の大きな岩を避けるように、流れは前方からムウの側方を通り、やがて後方へと流れ去っていく。

 そして、ゆっくりと静かに、流れを乱さぬまま下へ下へと沈みながら水底へといざなわれていった。

(ああ、久しい感覚だ……)

 ムウは目を閉じたまま、静かに大気を吸い込んで全身を満たした。

 すると、それは微かに、遠くから、そして徐々にこちらへと近づいてくる。

 風に揺られ静かに打ち付けられる風鈴の澄んだがいくつも、いくつも重なり合いながらゆっくりと広がっていく。

 遠過ぎず、近過ぎず、ムウにとって心地の良い距離でその音は全身に響き渡り、内で共鳴していく。

 加えて、川のせせらぎ、静かに降り注ぐ雨音、草原を吹きぬける風、寄せては返す波の音、そのすべてが混ざり合い調和されたようなおとがムウを包み込んでは、また静かに離れていった。

 しかし、その中で風鈴の澄んだだけはその全ての音色の最奥に存在を構え、一定の調子で鳴り続けている。

 やがて、他のおとたちが調子を変えて様々な事をムウに伝え始めた。

――俺は何を探している? 何が欲しい?

 様々な音色の中からこれだと思しきものを手繰り寄せては離しながら、ムウは慎重にそれらを選んでいった。

――これではない。これも違う。

 そのうち、ひとつ、複雑に絡み合った不協和音を手にした瞬間、ムウは弾かれたように目を開けた。

 瞬間、澄んだ音色は一斉に姿を消した。

 代わりに心臓が早鐘を打ち始め、耳奥でわーんと不吉な音だけが響いている。

 反射的に顔を上げ、空を見上げたムウは目を見開いて言葉を失った。

 いびつに歪んだ異常な月。

 円の周りは不規則に欠け、蜃気楼のように波打ちながら揺らめいている。月全体は、まるで朽ちた廃墟にようにボロボロと崩れ落ちていた。

(有り得ない……)

 その変わり果てたおぞましい月の姿に全身の毛が逆立ち、背中につっと冷たい汗が伝った。

 その時、脳裏に言葉が響き渡った。

――ほどけた糸が再び交わる時、両糸りょうし結ばれ一つのやいばと成る。

 ムウは瞬きを忘れて月を見つめた。

(糸? 刃? 何を俺に伝えている?)

 眉根を寄せ、瞬きをした途端、ぐらりと視界が大きく揺れて体がびくりと震えた。

 視界は真っ白に閉ざされて、揺れはだんだんと強くなり脳をも揺らし始めた。自身の身体も一緒に揺れているのか、そうでないのかすら判断が付かぬまま、ぐらぐらと激しく意識を揺さぶられ、えもいわれぬ恐怖がムウを襲った。

――目が回る。

 ムウはぐっと目を閉じて揺れが過ぎるのを待った。

 吐き気を催すほどの酔いを逃がそうと必死に奥歯を噛み締めたが、ぐっと固くなったこめかみが余計に脈打ち、ムウは身悶えた。

 長い間そうしていたのか、本当は一瞬だったのか……ようやく気が楽になった頃、はっと思い出したかのように顔を上げた。

 反動で冷や汗が頬から顎にかけて這うように伝っていく。

 しかし、月は何事もなかったかのように、何処も欠ける事無く綺麗な円を描いて夜空に堂々と鎮座していた。

 その時、背後で何かが、さっと駆けた音がした。

 慌てて振り向いたが、そこには山への入り口がぽっかりと口を開けているだけだった。

(ここを発たねば……冬は越したのだ)

 ムウは得体の知れない恐怖に掻き立てられて、急いで山をくだるとイェルハルドたちの待つ家へと足早に向かっていった。


 その後ろ姿を、月明かりに照らされた牝鹿めじかの黒きまなこだけが、静かに見つめていた。

 牝鹿はムウの姿を見届けると首を回して月をあおいだ。

 真っ黒な瞳に満月を映し出すと、静かに山に向き直った。

 次の瞬間、思いもよらぬ同胞と目が合った。

 牝鹿はぞわりと全身を打った恐怖に目を見開き、動きを止めた。

 目の前の暗がりから、こちらを見据えた狼が頭を低くしながらゆっくりと歩み寄って来る様を硬直しながら見つめていた。

 そして、牝鹿は本能で悟った。

――勝てぬ。

 牝鹿に魂を乗せていた従者は素早く術を解くと、急いで一室に預けていた自身の体に魂を戻した。

 むせ返るような香草の香りが充満する部屋の中で、従者は頭から血が引いていくのを感じながら、荒い呼吸を繰り返していた。

 まさか、同じ獣奇魂じゅうきこんの術を使う者があそこに居るとは思っていなかったのだ。

(ぬかった……)

 従者は息を整えながら額に噴き出た汗を拭うと、思わず呟いた。

「作戦を見直さねば」

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