第17話 春の訪れ

 厳しかった冬の寒さが幾分か和らぎ、時折風が春の匂いを運んでくる季節になった。

 ムウは大きく振りかぶった斧を太い木片に向けて力強く振り下ろした。

 深く斧が突き刺さった木片は真ん中でけて左右に割れると、すでに地面に転がっている他の木片にぶつかって跳ね落ちた。

 ムウは地面に落ちている木片を拾い上げて、丁寧に薪棚まきだなに積み上げると、ようやく一息ついた。

 次の冬に使えるように今から乾燥させておくのだ。

 まだ冬の名残を感じる薄ら寒い風が、汗ばんだムウの体をさっと撫でて通り過ぎていく。

 長く感じた冬もようやく終わりをみせ始め、眠っていた生命たちは寝ぼけまなこをこすりながらゆっくりと目覚めていく。

 雪溶けの水が山の小川を流れ始め、濃い紅赤色べにあかいろの梅の花弁や、つたなうぐいすの鳴き声が春の始まりを告げている。

 この頃には、ムウはすっかりノジン村での生活に馴染んでいた。

 イェルハルド一家とも家族のように打ち解け、次第にここが心休まる場所へと姿を変えていった。

 衣食住を共にし同じ時を過ごす事で、他者と心を通わし、そして、強く結びつく事が出来る事を知ったムウは、穏やかな春の木漏れ日にも似た温かな感情を胸に抱くようになっていった。

 ムウはふっと口元を緩めると、ぐっと大きく体を伸ばし、昨夜仕掛けた罠を見に山へ向かった。


 雪解け水がちろちろと流れる細い小川を越えて、芽吹いて顔をだしたふきとうの群れが点在する斜面を進むと、濃緑の匂いを放つ地衣類に覆われた湿地が広がってくる。

 木々の隙間から細く差し込む日の光は、幾重にも交差しながらずっと奥まで続いている。

 木々と陽光が織りなすトンネルを進みながら、緩やかな坂を登っていると、突如横の大木から黒い何かが飛び出してきた。

 ムウは咄嗟に身体を強張らせ、何事かと目を見張った。

 見ると、先ほどの幻想的な陽光をたずさえた一匹の牝鹿めじかが、じっとこちらを見つめていた。

 すらりと伸びた細い首の先に無駄のない洗練された美しい顔をつけ、四肢をしっかりと地面に付けて立っている。

 そのあまりにも気高い獣姿に思わずムウは息を飲んだ。

 次の瞬間、牝鹿めじかはピンと小さな耳を弾かせたかと思うと、さっと身をひるがえし山の奥へと駆け出した。

 何故か追わねばならないような気がして、ムウも反射的に駆け出した。

 小刻みに左右に身を飛ばしながら、ぐんぐんと小さくなっていく牝鹿めじかを無我夢中で追ったが、人が野生の鹿に追い付けるわけも無く、あっけなく見失ってしまった。

 ムウは呆然と立ち止まると、目をしばたたかせた。

 思いのほか長い距離を走ったのか、息が上がり心臓が脈打つ度に苦しかった。

 額にじっとり汗が滲んできてムウは呼吸を正しながら袖で汗を拭った。

 辺りを見回すと、来た事のない、見覚えのない場所である事が分かった。

 夢中になって牝鹿めじかを追った為、何処から来たのか方角が分からず、一瞬顔をしかめたがすぐに止めた。

 とりあえずくだればノジン村の何処かしらへは着くだろうと考え、ムウは目の前の未開の地へと足を踏み入れることにした。

 暫く目的もなく進んでいると、目の前に上へ続く長い石段が姿を現した。

 永らく人が使っていないのか石段の隙間からは雑草が生い茂り、綺麗な緑苔が我が物顔で、そこかしこに点在している。

 石段の先を見ようと顔を上げたが、木々に覆われており見通せなかった。

 ムウは探求心を掻き立てられて、周囲を観察しながら一歩一歩ゆっくりとその石段を登っていった。

 二十段ほど心の中で段数を数えていたが、それより先は数えるのを止めた。

 ようやく最後の一段を登り終えると、大きく拓けた平地にたどり着いた。

 急に遮る物が無くなり、ぱっと強くなった日差しに目を細めたが、目の前に広がる景色を見て思わず声を漏らした。

 そこだけぽっかりとくり抜かれたように木々が無く、遠くの地まで展望できる見晴らしのいい場所だった。

 恐らく山を挟んだノジン村の反対側なのだろう、遠くには山脈がいくつも連なり、眼下には広大な森が広がっている。

 ムウは暫く、その圧倒的な自然の景色を何も考えずにただ眺めていた。

 ふと、今夜ここで月を詠まなければならない気がした。

 何故かと問われれば、上手く言葉には出来なかったが、漠然とそうした方がいいような気になったのだ。

 暫く思案した後、もう一度ここへ来られるようにと、猟刀で木に印を付けながら慎重に山を下っていった。

 ふもとに着くと、知っている場所にたどり着いた為、もう一度山に入り回収出来なかった罠と獣を持ち帰って、夜を待った。



「様子はどうだった?」

 薄暗い一室の御簾みすの奥で女人にょにんは従者に問いかけた。

「上手く導けたかと」

 従者は御簾の前で片膝をつき、頭を下げたまま短く答えた。

「そう、上手くいくかしら?」

 従者は何も答えず口を閉ざしたまま、女人の問いだけが薄暗い部屋に溶けて消えていった。

 御簾の向こう側で、燭台に置かれた蠟燭の炎が小さく揺れ、時折ジジっと黒い煙を昇らせた。


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