第16話 命の灯

 いつの間にか眠ってしまったらしい。

 早朝の賑やかな野鳥の鳴き声と、木板に小気味良く刃の当たる音でムウは目を覚ました。

 まだ微睡まどろみの中にある頭を起こすように、一つぐっと伸びをして簡単に身支度を整えた。

 囲炉裏のある居間の戸を開けるとサヤが一人、かまどの近くで朝餉あさげの準備をしていた。

 挨拶を交わし、水場にあった桶の中に手を突っ込んで、張ってあった水をそっと顔にかけた。

 あまりの冷たさに半分閉じていた目は完全に開かれ、はっきりと目覚めたと同時に小さく身震いをした。

 サヤはちらりとムウを見て言った。

「熱い茶を入れましょうか?」

 ムウは朝餉の準備を邪魔しないようにと小さく頭をふった。

「いえ、お気遣いありがとうございます。茶葉の場所だけ教えて頂ければ自分で入れます」

「では、これを」

 ムウは礼を言い、サヤから渡された茶葉を持って囲炉裏の前に腰を下ろした。

 すぐそばの火鉢の上にはすでに土瓶がかけられており、注ぎ口からは湯気が上がっている。

 椀に茶葉を入れ、ゆっくりと土瓶から湯を注ぐと、椀の中で茶葉が踊った。茶葉は徐々に湯を吸い上げ膨らみ、椀の中に自身の色を溶かしていく。

 その間、サヤと互いに言葉を交わす事は無かったが、別段気にはならなかった。むしろ、この朝の静けさがとても心地良かった。

 ムウは朝餉の準備の音に耳を傾けながら、明かり取りから差し込む日の光を眺めていた。

 そうして熱い茶をすすり、ぼうっとしているとイェルハルドが起きてきて、ムウと同じように身を震わせたので茶を入れて渡した。

 イェルハルドは美味そうに茶を啜り一息ついた後、囲炉裏に手をかざしながら、ムウの方を向いた。

「今日は干し肉をもう少し蓄えておきたいんで、また狩りに出かけようと思っています。ムウ殿にもご一緒していただきたいんですが、いかがですか?」

 ムウはぱっと目を輝かせた。

「それは、是非ご一緒させて下さい。アウタクル王国では狩りをする習慣が無いので、勉強させていただきたいです」

 ムウはとりわけ、知らぬ事を知るのが好きだった。

 様々なものを見聞きし、それを実際に体感する事で、自身を大きく成長させているような、何とも言えぬ心地良さが心を満たすのだ。

 この世には知らない事が多すぎる。それを一つも取りこぼしたく無かった。

 父親に長い説教を食らおうと、母親に過分な心配をされようとも、やしろを飛び出して異国を旅するのにはそういった理由もあった。

 絶えることの無い探求心が、常にムウの心の中にはあるのだ。

 それが伝わったのだろうか、イェルハルドは昔竹細工を教えた学童のようだと笑った。



 早朝の山は、静かでがらんとした雰囲気だった。

 凍った空気が山全体を包み込み、霜が下りた地面からはザクザクと厳冬げんとうの音がしている。

 奥に進むにつれて常緑樹の大木が密集しだし、日を隠し始めた。

 枝葉の隙間から細く頼りない日が差し込んでいるが、辺りは薄暗く見通しが悪くなっていった。

 まだ獣たちは眠っているのだろうか、とても静かだ。

 イェルハルドが引いている、獣を運搬する用の木板で作られたそりが地面の小石に当たって跳ねる音だけが響いている。

 イェルハルドはふいに足を止め、ムウに手招きをした。

 近づくと、立派な角を有した大きな牡鹿おじかが罠に掛かっていた。

 牡鹿はくくり罠に足を取られながらも、必死に逃げようともがいている。

 罠の縄がくくり付けてある大木がみしみしと音を立てて揺れていた。

 イェルハルドが猟刀を抜き取ると、牡鹿は一層強く縄を引きながら遠くへ逃れようと暴れ出した。

 しかし、イェルハルドは何もせず、牡鹿をじっと見つめて落ち着くのを待っているようだった。

 暫くして、牡鹿は疲れたのか足を折って横たわった。

 ふと、牡鹿の濡れた真っ黒な瞳と目があった。

 瞬間、雷に打たれたような強烈な衝撃がムウの全身を貫いた。

 突如心臓を鷲掴みにされ、強く押しつぶされるような鋭い痛みが全身を打ったのだ。

――そこには、勿論、生きようともがく生命の強さがあった。

 しかし、食う食われるの無情な檻に閉じ込められ、それをわずかに悟った諦めの目も確かにそこにはあったのだ。

(ああ、この牡鹿は悟ったのだ)

 今自分が狩られようとしている事を。そして、もうどうにも抗えないという事を。

 ムウは逸らすようにぎゅっと眉根を寄せて目を閉じた。

「可哀想だと思いますか?」

 はっと目をあけると、イェルハルドと目が合った。

「私ら山民はこの殺生をして生きているんです。狩りをしない人にとってみれば、残忍に映るかもしれませんが、こうして命を食らうという事がどんな事かを知っているからこそ、必ず手を合わせて感謝を述べて食うんです。獣に限らず全ての物に言えますがね。

 私らはこの死を決して無駄にはしません。食った側の血肉となり、身体を立派に育ててくれるんです」

 ムウは小さく頷くと、覚悟を決めてもう一度牡鹿に目をやった。

 決して目を背けることなく、しっかりとこの命のともしびを最後まで見届けなければならない気がしたのだ。

「これから獣が苦しまないように仕留めます。それがせめてもの私らの慈悲であり、命に対する礼儀だと思っとります」

 イェルハルドは牡鹿の首を地面にそっと押しつけて、付け根付近に猟刀を差し込んだ。

 内で細かく上下に揺すったかと思うと素早く猟刀を抜いた。

 途端、小さな穴からせきを切ったように大量の鮮血が溢れ出てきた。

 それはまるで、雨で水かさが増し上流から自然の猛威をふるって流れてくる川の濁流のように見えた。

「首元近くにある頸動脈という血管を切ると、たちまち頭に血が行かなくなって鹿も一瞬で意識を失うんです。心臓はまだ動いてますから、血抜きもしっかり出来て新鮮な肉が食える。私らはこうして獣とともに生きているんですよ」

 ムウは黙って頷いた。

 これ程までに死というものを目の当たりにしたのは生まれて初めてだった。

 微かに震える身体を正そうとぐっと膝に力を入れた。

 同時に、闇の中で禍々しく光る金色こんじき双眸そうぼうがじっと自分を見つめている光景が頭に浮かび、目の奥につっと痛みが走った。

 それから、イェルハルドは素早く内臓を取り除き、ムウと二人がかりで橇に雄鹿を乗せた。

 他の罠も見て回ると、子猪が二頭それぞれの場所で掛かっていた。

 最後の一頭の仕留めをムウに任された。

 わずかに震える手で猟刀を受け取り、頸動脈があるであろうと思われる場所をゴワゴワした毛の上から触ってみたが、ムウにはどうにも分からなかった。

「猪の場合はこうやって仰向けにして喉元をよく見てください、中央縦一本膨らんでるのが分かると思います」

 ムウはイェルハルドが指さした喉元を注意深く見た。

「これが気管です。頸動脈は気管に沿って左右にあります。片方で構いませんので頸動脈より少し横から猟刀を入れて気管側に引けば切れます」

 ムウは教えられた通りの場所に刃を当てた。躊躇いながら力を入れ、刃を子猪の皮膚に押し当てたが皮膚は軽くへこむだけでそれ以上深くは刺さらなかった。

――怖いのだ。

 己の手でこの小さな命の灯を終わらせるのが、身が震える程どうしようもなく怖かった。

 ムウは大きく深呼吸をした。

 覚悟を決め、ぐっと手に力を入れて今度は少しだけ下に引いた。

 刃が皮膚を突き破り、肉をく生々しい感触が手に伝い、危うく手を離しそうになった。

 しかし、これ以上獣を苦しめない為にも、もう手は止められないのだ。

 ムウは込み上げてくる吐き気をぐっと噛み殺し、気管側に刃を強く押し当て上下に引いた。

 確かに細い管のような物が切れる感覚が手に伝わった。

 その瞬間、止めていた息を大きく吐いて猟刀を抜き取った。

 ほんの数秒ではあったが、息を吸いなおすと肺付近がひどく痛んだ気がした。

 ムウは自身の大きく脈打つ心臓の鼓動を感じながら、勢いよく鮮血を流す子猪に目をやった。

 この感覚を一生忘れる事は無いだろう。

 ムウはこの光景をしかと目に焼き付けた。


 それからムウは、内臓の出し方や脱骨のやり方、肉の解体・保存方法、食べられる山菜や茸類の見分け方など様々な事をイェルハルドに教わりながら、長く感じる冬を過ごしていった。




※作中の獣の仕留め方や体の構造につきましては、インターネットで調べた知識となります。おかしな点、間違っている点など御座いましたらコメントいただけると幸いです。大変助かります。

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