第15話 琥珀族の呪い

 自在鉤じざいかぎに掛けられた鍋の中で、根菜こんさい葉菜ようさいのたっぷり入った猪鍋が、底から湧き出る気泡に押されてぐつぐつと揺れている。

 ムウはサヤから熱い椀を受け取ると一口煮汁をすすり、さっそく肉を口に運んだ。

 初めて食べるわけでは無かったが、以前食べたものよりも格別に美味かった。

 鼻の奥に甦ってきたあの独特の獣臭は一切なく、噛んだ瞬間口の中で広がる脂の旨味が更に食欲をそそった。

 また、串刺しになった腸詰ちょうづめが鍋を囲うようにして木灰もくはいに突き刺さっており、ゆっくりと火に炙られた表面は、内から滲み出た油で照り、いい具合に焼き目が付いている。

 イェルハルドに勧められて木灰から串を抜き取り一口噛むと表面の皮が弾け、中から熱い汁が溢れ出てきた。

 あまりの美味さに目を丸くして驚いていると、イェルハルドが嬉しそうに教えてくれた。

「囲炉裏で炙った腸詰は美味いでしょう。まれに市場に入ってくるんですがね、早い者勝ちなんで毎回取り合いになるんですよ」

「確かにこれは絶品ですね」

 ムウは頷きながら目を輝かせた。

 視界の端で、サヤがほんの一瞬口元を緩めたのが見えた。

 それはまるで、子らが騒がしく食事をしている様を穏やかに見守る母親のような、そんな雰囲気を纏っていた。

 サヤの意外な一面を垣間見て、ムウは内心驚きつつも目の前の夕餉ゆうげを堪能していった。

 鍋の底が見えてきてようやく食事がひと段落した頃、ムウはエルヴィナに目をやった。

「あの、天鼠てんそしゅうについて詳しく教えて頂けませんか?」

 エルヴィナは忘れていたものを思い出したかのように、ああと頷くと、煮汁を啜って話し始めた。

「あんた写し屋は知ってるな?」

 ムウは肯定の意味で頷いた。

「はい、様々な書物を取り扱っている商所あきないどころの事ですよね?」

「まあ、商所をさす事もあるが、人をさす事もある」

 ムウは瞬きをした。

「天鼠の衆は建物ん中だけにおるとは限らん。街や村の写し屋を探すのもええが、あの連中はあんまり一つの所にとどまるのが好きじゃない。

 もし早く会いたいんなら、背負子しょいこを背負った商人にも注意してみろ。古紙や絹布けんぷに文字が写されとる物を運んどるような奴は大概天鼠の衆だ」

 エルヴィナは一旦話を切り、猪肉を口に放り込んだ。

「そういう奴に出会ったら、何処の写し屋で、看板には何と名が書いてあるのか聞いてみろ。それでそいつが『まだ商所は開いて無いから名も無い』と答えたら当たりだ。そこで掛け言葉を言えばええ」

 ムウは大きく頷きながら、決して忘れないように心の中で反復し、しっかりと頭に叩き込んだ。

「随分お詳しいですね」

 感心したようにムウが言うと、エルヴィナは一瞬咀嚼そしゃくを止め、囲炉裏の火に視線を落とした。

「昔、世話になったんだ」

 サヤが身じろぎするのが見えた。

「茶を用意します」

 サヤは身体の向きを変え、近くの火鉢に置かれた土瓶を布で持ち上げると、人数分の椀にゆっくりと湯を注ぎ入れていく。

「……山から獣が消えた年があった」

 エルヴィナがぽつりと呟いた。

 ムウは声につられてエルヴィナに視線を戻した。

「もう随分昔の話だがな、ある日を境に山から一斉に獣が姿を消した事があったんだ。

 そん年は年中日が差さず、ずうっと曇天が続いてな、春も夏も薄ら寒くて山菜も茸類も獣が食うもんも全部、ろくに育たん不作の年になった。わしらは山の恩恵を受けとる山民じゃ。狩るもんも食うもんも無く、どうにか蓄えを潰しながら食い繋いどったんだが、どっかの阿呆あほうが〈琥珀こはくぞくの呪い〉だと言い出して騒ぎになった」

「琥珀族の呪い?」

 ムウは首を傾げた。

「とうの昔に忘れ去られた古い言い伝えさ。太陽をつかさどる神様――琥珀族――がわしら人間に怒って日を隠しちまったってよ。

 村の年寄り連中は、言い伝え通りに白猪を太陽の神様に奉納して怒りを鎮めて貰わにゃいかんと言い出した。――今でもそうだが、白猪は山の神とされとるで、わしらの神様を差し出せば太陽の神様もきっとお許しになるだろうとな。

 何処の誰に差し出すかも自分たちでは知らんっちゅうのに、大勢でうちに押しかけてきよった」

「当時、私の父がこの村の村長むらおさだったんです」

 イェルハルドがそっと付け加えた。

 エルヴィナはサヤから茶を受け取ると、ぐっと喉の奥に流し込んだ。

「爺さんは押しかけてきた連中を追い返さんかった。話をきいてやり、落ち着かせて、自分がなんとかしようと言って年寄り連中をなだめた。――勿論わしは反対したさ、馬鹿げた言い伝えに振り回されるのはごめんだ、そんなもんで変わるものかと。だがなあ、爺さんはやれるだけの事はやろうと言って聞かんかった」

 エルヴィナは顔をしかめながら深いため息をついた。

「そっから爺さんは白猪を狩りに、何日も獣のおらん山へ入っていった。わしはまだ幼い息子を抱えて、それをどこに奉納すりゃええんか知るために天鼠の衆を探したんだ。だからよく知ってるさ」

 そこで話は途切れ、囲炉裏の中の薪が音を鳴らして爆ぜた。

「……それから、どうなったのですか?」

 ムウは恐る恐る訊ねた。

「なに、爺さんはちゃんと白猪を狩って戻ってきたさ。ももと横腹にでっかい傷さつくってな。戻って来た時には酷い熱で、そっから寝込んじまったよ。

 天鼠の衆が教えてくれた場所へは別のもんが行った……爺さんはそのまま熱が引かずに死んじまったよ」

 エルヴィナは一呼吸置いて、吐き捨てるように言った。

「皮肉なもんさ、爺さんが死んだ日、この村に日が戻っちまったんだからな」

 ムウは掛ける言葉が見つからず、ただ黙って顔をしかめる事しか出来なかった。

「言い伝えが正しかったのか、偶然だったのかは分からん。今更そんな事はもうどうでもええ。天鼠の衆とはそれきりだが、掛け言葉は今も生きとるはずだ」

 そう言うと、エルヴィナは膝に手を当てて立ち上がった。

「もう遅い時間だ、わしは休む。すまんが後片付けを頼むよ」

「はい、おやすみなさい」

 サヤはエルヴィナに向かってゆっくり頭を下げた。

 残された三人はただ黙って、薪が燃える断続的な音に耳を傾けた。

 外では風が出てきたのだろう、時折カタカタと木戸を鳴らしながら、騒がしく過ぎ去っていった。


 それから、用意してもらった寝床に入ってもムウはなかなか寝付けずにいた。

 目を閉じて、はるか遠い昔に生きた人々に思いを馳せた。

 多くの言い伝えや信仰はその土地土地に深く根付き、人々を支え、また殺しもする。

 そしてそれは、喜び、悲しみ、願い、絶望、祈り、その様々な心情を作り出しながら、複雑に絡み合って続いていくのだ。

 時には忘れ去られ、時には捻じ曲がり、その時々で都合良く生み出されながら、人々はそれにすがって生きていく。

(確かにある種の呪いだな……)

 ムウはそんな事を考えながら、長い冬の夜に身を委ねた。

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