9

 わたしは息を飲んだ。その時奇妙な生暖かい風がふわりと吹いて小屋のビニールシートをはためかせた。


「俺は気を失っている間、弘樹の視点で夢を見た。あいつらの死ぬ瞬間を見た」


 修は一息ついて続ける。


「夢を見てたのがどれくらいか分からないけど、海はまだ荒れていた。そして俺の横にはボードが置いてあったんだ」

「ボードが?」

「どうしてここにあるんだろうと思った。夢の中でこのボードが二人を殴って気絶させた。だけどそれはやっぱり夢で、もしかしたら二人が俺の横にボードを置いて、びっくりする様子を陰から見ているのかもしれないと思った。俺が大声でどこかに隠れているだろう二人を呼び続けてるうちに、夜が明けて明るくなってきた」


 そしたらライドしてる二人が見えたんだ。


 と、彼は水平線を指さして言った。そこには静かな海面から突き出した二つの岩があった。


「早く戻って来いよ、と言ったけど二人はずっとその場から動かなかった。夜が明けるにつれ、それがただの岩だということに気付いた」


 次第に風も波も治まり、それ以降この海は凪いでいるそうだ。

 わたしも岩を見るふりをして横目で彼を見た。彼の瞳にはまだサーフィンをしている友人二人が映っているようだった。


「それから記憶は飛び飛びで、二人の親が俺の胸倉を交互に掴んで大泣きして、気付いたらどこかに引っ越してた。その光景は他人事のように自分を背後から見ている記憶として残ってる」


 修は息を吸うとあとは一息で言った。


「あの岩はあの嵐の日に、地形が変わったのか突然現れた。それから波は立たなくなったけど、夜の微かな光の加減で見える二人に、俺は夜な夜な会いに来てる」


 どうして俺が夜にここに来るか分かった? そう言って修は涙を零して笑った。

 わたしも泣いていた。

 彼は続ける。


「親も兄貴も連絡を寄越さないのは、取り返しのつかないことをした俺ともう縁を切りたいのかもな」

「でも修は、悪くないじゃん」


 わたしは大泣きしながら、声をひっくり返して必死に言った。


「プロになるために挑戦しなよ。いつまでもこの海にしがみついてちゃダメ! 自分まで失っちゃダメだよ」

「ネガティブ志向の君から発せられたセリフとは思えないな」


 修は意地悪そうに歯を見せて笑った。それはまだ寂しそうな笑顔だった。


 その時、水平線が明るくなり、朝日が顔を出した。


 真っ暗だった世界に淡い光が差し込み、瞬く間に二つの岩に魔法をかけた。

 ただの岩だったそれは今やサーファーへと変化を遂げる。


 直哉と弘樹が、笑顔でこちらに手を振っていた。


「笑ってる」


 修は言った。


「いつもはあいつら、こっちを見ないんだ。でも今日は笑って手を振ってる。見える?」

「うん、見えるよ。弘樹君、髪が濡れても天パは隠せないね」


 笑顔で大きく手を振る二人は、まるで修に「いってらっしゃい!」と言っているようだった。


「あの日から海が凪いでいるのは、修がこの海から離れるように、二人が波を消したからなのかもしれないね」


 わたしがそう言うと、また修の目から涙が溢れた。今までの涙とは違う、暖かなきれいな雫だった。


「うん……」


 木々が緑を、海が青を、砂が白を取り戻す頃には、元の二つの岩が静かにそこにあるだけだった。きっともうあの岩は直哉と弘樹にはならない。不思議とわたしはそう感じていたし、修の横顔からも同じことを思っていると悟った。


「ありがとう、恵美。俺はこの町を出る」


 修がわたしの名前を呼ぶ。


「俺、がんばる」

「うん。わたしも、がんばるよ」

「やっぱりこのボードを置いたのはあの二人だったんだな」


 彼の笑顔を見て、わたしは修が心の中で大きな存在となっていることに気付いた。同時に修もきっとわたしを想ってる。そう、向けられた視線から感じた。


 お互いこの先再び挫けることがあるだろう。弱気になるときがあるだろう。その都度励ましあえたらどんなに心強いだろう。でも人は弱いから、へそ曲がりだから、いつでも頼れると思って逃げ道にしてしまうかもしれない。

 だから、わたしたちのこの関係は今日この時まで。一番きれいな魔法の絵画の中だけの存在でいよう。


「恵美もきっと大丈夫だよ。ばあちゃんちで少し休んだら、きっとうまくいくさ」


 わたしは頷いた。今までの不安や、マイナスでドロドロしたものがスッと無くなって、心が軽くなった。


「俺の名前を覚えておいてくれよな、きっと有名になるよ。森岡修、忘れるなよ」

「森岡?」


 わたしはしばらく考えた。そして嬉しくなった。

 声を上げて笑うわたしを、修はぽかんと見ていた。


「修、お兄さんは修を見てるよ。修が直哉と弘樹に会う時間を、誰にも邪魔させないようにがんばってるよ」


 修の頭に「?」が浮かんでいる。


「この町を出るときは、向こうの小さい駅から出てね。絶対だよ!」


 修は少し感づいたが、まだ信じられないようだ。早く確認しに行きたくて体は浜の出口に向いているが、わたしをじっと見つめて立ち尽くしていた。


「そろそろ始発が動くよ」


 そう言うと頷いて木々の間から素早く出て行った。


 わたしはすっかり明るくなった自分と世界に嬉しくなった。

 そして冷たい手をポケットに入れる。右手に何かが触れた。取り出すとケータイだった。

 全部ロッカーに入れたと思ったのに。

 電源を入れ、メールを見る。未開封のままの母からのメール。開けてみる。


『言い過ぎてごめんなさい。今日は恵美の大好きなロールキャベツだから早く帰っ来てね』


 でもわたしは帰らなかった。電話にも出なかった。心を込めて作ったのに、冷え切ってしまったロールキャベツを母はどうしただろう。


 そう考えてハッとした。わたしは家族の視点から自分を見たことがあっただろうか。今まで嫌なことがあると殻に閉じこもり、家族と話そうとしなかった。でも、わたしが部屋に閉じこもった時、母親がドアの外から怒鳴っていた。どうにかしてわたしとコミュニケーションを取ろうと必死だった。とても不器用だったけど。


 その時、ケータイに着信があった。出ると、こんな時間に起きているはずの無い妹の、聞いたことも無い裏返った声が響いた。


「あっお姉ちゃん? お母さん、やっと出たよ! もしもし?」


 わたしはおかしくて泣きながら笑ってしまった。


 そして「ごめんなさい」と言った。






 空気は澄んで、空は青い。

 今日も光は隅々まで行き届く。


 真夜中のサーファーには太陽を。


 廃屋の少女には暖かい居場所を。

 


 


 

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真夜中のサーファーと廃屋の少女 柴山 岬 @16shiba1023

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