8

 塩辛い海水に唇が痺れていく。だがオレは確実に直哉に近づいていた。波間波間にかろうじて青白い顔が浮いている。

 そしてやっと直哉の手を取った。直哉は疲れ切っていたが、それでもオレに体を任せることはしなかった。それどころか早く戻れと押し返すのだ。

 オレは言った。


「もうボードはいい、早く戻ろう」

「ボードなんかもうとっくにどっかに流れちまった」


 確かに周辺にそれらしきものは見えない。


「じゃあ早く戻って来いよ」

「海に任せて浮いてたんだ、おかげで体力回復した。でもさすがにこんな長い時間海に入ってちゃ体が冷える。戻ろう」


 直哉はそう言うと泳ぎ出した。途端に引き離されていく。あれ、オレってこんなに泳げなかったっけ。

 

 もう星すら見えない、真っ暗だ。


「目ぇ開けろ!」


 直哉がオレの顎を下から掴んで持ち上げた。どうやら顔半分海水に埋まっていたようだ。


「さすがに休憩なしで浜からここはキツいんだろ。せめて目開けろ!」

「め? 開けて」


 るよ。と言ったつもりが最後はガボガボと水の音しかしなかった。

 泣きそうな直哉の顔が一瞬見えたが、また視界は真っ暗になってしまった。


「おい、白目剥いてんじゃねえぞ!」

「なんだ……?」


 フラッシュのように直哉の顔は見えたり見えなかったり。ただとても霞んでいる。

 

 直哉、先に行け。


「声を出せ!」


 聞こえないのか?


「弘樹!」


 だから――、


 ゴツッと音がした気がする。オレの顎を掴んでいた直哉の手から衝撃が伝わり、離れた。オレは必死で手を動かしたつもりだったけど、多分動いてない。直哉に触れることは出来なかった。そして海がオレの頭を掴んで海中に押し込んだ。息が出来ない、上下が分からない中でもオレはなぜか冷静だった。


 その時、とんとんと優しく呼ぶように顔に何かが当たった。血液の代わりに鉛が流れているような重たい腕が、なんとかそれを掴んだ。肌触りからそれはサーフボードだと判った。


 あったぞ、修のサーフボードだ。


 その瞬間、ふわっと水中で体が大きく持ち上がった。大波が来たんだ。

 ボードが手から離れたかと思ったら、奴は助走を付けてオレの頭を横からぶん殴ってきた。今度ははっきり脳内に響いたゴツンという音。そして直哉の手から伝わったものと同じ衝撃。痛みを感じる代わりに、海水が冷たさを増し傷を冷やした。


 海、お前はオレを殺したいのか助けたいのか、どっちだ。


 もうオレには為す術が無かった。体は動かないし、喋ることも出来ないし、目も開けられない。とにかく寒かった、苦しかった、疲れた。


 暖かい布団で眠りたい。


 ところで直哉、お前はもっと下にいるのか。

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