7

「3年前のあの日も風が強かった。波はグチャグチャだけどコシくらいあって、夜だったけど俺らは我慢できずに海に飛び込んだ。兄貴からもらったボードを試したくてしょうがなかった」


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 波打ち際はあちこちから押し寄せた波が崩れて荒れていた。大きな月が波しぶきを照らし、キラキラと辺り一面ガラスが飛び散ったように光っていた。

 このスープ(波がくずれた後に出来る白い泡状の波)を越えて少し沖に出れれば波は盛り上がるだけだ。


 ウェットスーツから出ている手と足に生温かい海水を感じながら、俺らは必死にパドルをした。波しぶきで前なんてほとんど見えなかった。

 しばらくすると大きくボードが上下し、崩れる波の音は遠のいていた。ある程度沖に出られたことが分かって上半身を起こし周囲を確認した。


 俺の数メートル後方に弘樹がいた。真っ黒な天パが風に吹かれて海中を漂う海藻のようだった。

 弘樹と目が合い、にやりと笑った。俺らは3人共日に焼けていたので、月に照らされた歯だけが妙に強調されて面白い。

 ふたりで笑い合ってると直哉の声が遠くから聞こえてきた。

 直哉は俺らより10メートル程左側にいた。直哉が何か叫んでいるが、波の音と風の音でよく聞き取れない。それほど風が強くなってきていたことに、俺はまだ危機感を覚えなかった。


 直哉は浜を指してなおも叫んでいる。

 風に吹かれて、濡れた前髪が視界を妨げる。結構痛い。なんとか前髪を抑えながら浜を見る。小屋からまっすぐ進んでいたつもりがだいぶ右にそれていたようだ。小屋は直哉よりもはるか左にあった。そのままぐるりと周囲を見回すと、もう右側には陸が迫っていた。ここは小さな湾だ。陸に近くなると下は岩場になっており、こんな波の日に巻き込まれたら怪我は必須だろう。


 そんなことを考えていると、ついに厚い雲が月を覆い隠し、荒れた海とちっぽけな俺たちを照らす光は頼りない星のみになった。


 それでも俺は、しっかりと下から自分を支えるボードを試したくて、わずかな光に反射する波頭を見つけて腹這いになった。それを見て弘樹がパドルでコースを譲った。


 まだ波は遠い。ゆっくりパドルする。

 音もなく近づいてくる波は、ついに俺を吸い込み始めた。パドルしてもまるで進んでいない。胸をボードに着け重心を前にする。じゃないと食われる。そしたら待っているのは岩場だ。全力で両腕を動かす。


 ついに波がテールを押した。重心を前にしたまま、ノーズが波に突き刺さらないように首を上げる。それだけで乗れた。

 立ち上がると、空も海も真っ黒なので飛んでいるようだった。昼間のライドとは違う、不思議な感覚に俺は魅了された。


「やべーマジで! さいこー!」


 弘樹も波を掴んだようで声高々にライドしていた。

 その時、一際大きく体が持ち上がった。今や波はムネ辺りまで高くなっていた。

 辺りを見回すと直哉の姿が無い。心臓が痛くなるほど鼓動したかと思うと、小屋の脇に直哉が立っているのが見えてホッとした。しかしその姿も波のうねりで見え隠れしている。

 弘樹はロングライドをこなし、浜に上がり直哉の元へ駆け寄った。

 俺もさすがにヤバいと思い、パドルをした。ぐっと下半身が持ち上がる。


「うわっ」


 ちょうど波が後ろから来ていてテールを上げた。咄嗟のことにバランスを崩し、しっかりボードにしがみついてしまい重心が前になる。目の前でノーズが海面に突き刺さるのが見えた。ボードは俺を乗せたまま急ブレーキをかけるが、迫りくる立ち上がった波はお構いなしにテールを持ち上げ、俺は頭から一回転し、背中から没した。


 波はなおも上から押しこんでくる。なんとかもがいて海面に顔を出したけど、空は海の中みたいに暗くて、水中だか水面だか分からない。思うように息が出来なかった。

 落ちるときにボードが太ももに当たったらしく、ものすごく痛い。もしかしたらフィンが突き刺さっているのかも。そう思うと足さえ動かせなくなって、体を支えているのは両腕だけ。でも、それもパドルで疲れ切っていたし、不規則な波のせいで何度も顔に水をかぶって何がなんだか分からなくなっていた。

 ついに水面に顔を出すことが出来なくなって、自分が水中でもがいていることは理解した。それがまたパニックを煽る。


 どうしよう! どうしよう! どうしよう!


 急に体が浮き上がった。


「だから戻ろうって言ったんだ!」


 直哉が俺の体をボードに押し上げた。直哉はずっと怒っていたが、俺は息をするのに精いっぱいで聞いていなかった。ふと遠くの真っ黒な波間に揺れる白いボードを見つけた。今しがみついているボードが自分のものだと思っていたらこれは直哉のものだった。兄貴からもらったボードはコードが外れ、遠くを漂っていた。


「兄貴の……」


 もう浜は目前だった。弘樹が飛び込んできてボードを掴み、引き寄せる。俺はなんとか浜に上がり、疲れ果てて突っ伏してしまった。恐る恐る太ももを触ると切れたような跡は無く、押すと痛む程度だった。

 少しホッとしたが、直哉の罵声を恐れて身を固くした。

 しかし何も聞こえない。

 ふと弘樹を見上げると険しい顔をして海を見ていた。そして弘樹の目線を追うと、流されていくボードに向かって泳ぐ直哉がいた。


 直哉はちっぽけで次から次へとわき上がる波に隠れてほとんど見えなかった。

 いや、もしかしたらあれは波で、直哉はあっちの影かも。

 とにかく全てが墨のように黒くて分からない。ただ、なぜか兄貴のボードだけは白く浮かび上がり、どこにあるのかハッキリ分かった。


 直哉らしき影を見つける度、波にのまれた恐怖が脳裏を掠める。

 

 直哉も今、同じようにあの闇と闘っているのか。

 自分のせいで――。


 ふっと何かが横切った。弘樹だ。弘樹が冷え切った体を抱えながらまた海へ入って行く。俺は言った。


「待って。お、俺が行く」


 喋ると肺から海水が込み上げてきて砂に吐いた。体の中で残った海水がゴロゴロと音を鳴らす。しかし俺は構わず体を起こした。が、立てない。気ばかり焦って上半身だけ前に出るので、結局またうつ伏せに倒れてしまった。

 口の中に砂が入る気持ち悪さを感じながら、一瞬止んだ風音の合間に弘樹が呟くのが聞こえた。


「直哉がいない」


 ごおっ!! 

 風は更に轟音を鳴らし、海を荒々しくかき混ぜていた。真横で弘樹が飛び込む音すら聞こえず、俺はただ一人呆然と海を見ていた。


 いや、もしかしたらあれは空かもしれない。


 波しぶきと星が混ざり合うくらい、波は高くなっていた。


「なおやーーーーーー!!」


 それはこの闇のどこかにいる弘樹の声だった。あれ程鼓膜を破らんばかりに鳴り響いていた轟音を掻き分け、とてもクリアに聞こえた。伸びる語尾が海水を飲み込み、ゴボゴボと泡立つそれまでハッキリと。


 大切な仲間が、大好きな海に喰われていく。全部俺のせいだ。


 軽い衝撃と共に頭が砂に埋まった。気を失ったようだ。

 


 


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