6

 彼はゆっくりと向きを変え、ボードの上に腹這いになって手で漕ぎながら砂浜に上がってきた。ビーチサンダルの横にボードを置き、バスタオルを持って裸足のまま小屋の前に来て座った。

 それまで見えていたきれいな私だけの景色は、絵画から飛び出してきた黒いウェットスーツに包まれた体で塗り潰されてしまった。

 そして彼はかがみ、その海ほど深い瞳を見せつけてきた。それは何度も鏡に映った、何かを抱え込んだ意味深な目だった。


 わたしはその瞳に釘付けになったが、次第に彼全体を見ることが出来るようになった。彼は背は高いがしゃがむとこじんまりと収まり、少年のようなその不思議な笑顔にわたしは夢を見ているようだった。さっき本当に見ていた夢よりも、今の方が何倍もきれいで非現実的だ。眠っているような感覚。こうしている実感が湧かない。


 わたしを一通り確認すると、彼はドアの真ん前からどいた。そして小屋の影に見えなくなってしまった。わたしがひょこっと首を出してみると、彼は小屋の壁にもたれて海の方を向いて目を瞑っていた。わたしも外に出てドアを閉めてから彼の横に同じように座った。青白い砂はやはりとても冷たい。風に乗ってココナッツのような南国の匂いがした。


「服砂まみれになっちゃうよ」


 彼は言った。以外にも声は大人っぽい。


「中にあるビニールシートを出して敷けばいい」


 そう言うものの彼は動こうとしない。わたしも面倒くさいのと、砂の上に直に座っていたいのとで首を横に振った。

 それから彼が何も言ってこないのでわたしは砂を手に取りながら聞いた。


「砂でさえこんなに冷たいのに海はもっと冷たいんだろうね」


 彼はバスタオルを肩から掛けて頭を拭きながら答えた。


「海の方がずっとあったかいよ。出るとすごく寒いけど」

「そうなの?」

「うん」


 わたしは立ち上がり、靴と靴下を脱いで海の方へ向かった。ジーパンの裾を捲り上げて波が足を撫でるのを待った。白い泡立った波がふんわりと足を包むと、確かに暖かい。振り向くと彼はまだ小屋にもたれていて、わたしはいそいそと戻った。


「まるで温泉みたいだった」

「うん。もっと北の方へ行くともうブーツやグローブが必要だけど、こっちは12月いっぱいまでウェットスーツだけで入れる」

「ふうん。入れるけど肝心の波が無いんじゃない? わたしは素人だから分からないけど、サーフィンってこんなものなの? しかも夜だし」


 彼は黙った。その硬い表情にわたしは何かまずいことでも言ったのかと思い、話題を変えようとした。


「ホント、わたし何も分からないからさ。それよりわたしの話を聞いてくれない? 誰も話す人いなくてちょっとグチりたい気分なんだ」

「いいよ」


 彼が何事もなく答えてくれたのでホッとした。こんな非現実的な状況のせいだろうか、いつもなら自分のことはあまり話さないのに、わたしは彼に全てを話していた。最初は遠慮がちだったけど、だんだん興奮してきて胸の奥深くに眠っていたものまで吐き出した。


 勉強もスポーツも満足に出来ないこと。故に自信が無く、常に壁を作り友達がいないこと。出来の良い妹がいて肩身が狭いこと。特に母が一番わたし達を比べていること。全てを投げ出しておばあちゃんちに行こうとし、その途中で終電になってしまったこと。海が見たくてここに来たこと。何に対しても興味が無いこと。自分を見放してしまったこと。


 彼はずっと隣で興味無さそうに海を見ていた。肩から掛けた白いバスタオルが彼の体を覆い、まるで幽霊に話しかけているようだった。わたしはそれでも構わなかった。誰かに聞いてもらえることが嬉しくて頭の中にあったもの全てを出し尽くした。そして最後に「スッキリした」と言って締めくくった。


「ありがと」

「別に」


 彼はまたあの笑顔を見せた。今までの興味無さそうな態度とは全く違って、とても優しそうに見える。でもいざ口を開けると急に冷めた顔つきになって、水平線を見る。


「君はさ、」


 わたしは月に照らされた青白い彼の横顔を見た。


「君は嫌なことから逃げ出すタイプなんだ」


 一瞬彼の言葉を理解するのに時間が掛かった。そしてカチンと来た。わたしは突っかかるように返す。


「じゃああなたは投げやりにならず、きちんと解決するタイプだっていうの?」

「時間が掛かっても解決法は見つけたい」

「なにそれ」


 彼はまた黙って海を見る。

 わたしは聞いた。


「こうやって夜中にサーフィンすることで解決策が見つかるの?」

「……」

「人に偉そうに言うならちゃんと教えて」

「偉そうにはしてないけど……。うまく説明できなくて、ごちゃごちゃしちゃうかも」

「いいよ」


 彼はわたしをチラリと横目で見ると、話をまとめようと「あー」とか「うー」とか小さく呻いたが、やっぱり切り出し方が分からないらしく、わたしは聞きたいことを自分で質問して理解することにした。しかし、単刀直入の質問には彼の唇は南京錠が掛ったように簡単には開きそうもない。


 わたしも今までそうだったからよく分かる。助けを求めたくてチャンスをもらったとしても、自分の奥底にしまい込んだものは中々表に出すことは出来ない。


 わたしは最初から的を射るのは止めて、まず小屋のことから聞いてみることにした。


「この小屋、どうしてここにあるのか知ってる? 何のための小屋なんだろう」

「あぁ昔、俺達が造ったんだよ」

「え、あなたが?」


 彼の言葉はあまりに意外で、わたしは声が裏返ってしまった。ただの世間話程度から始めようとしたら不覚にも核に触れてしまったからだ。

 わたしの必要以上の驚きに対し、彼は微動だにしなかったが、それがまた恥ずかしくなり「へえ、ずいぶん乱暴な造りだよね」と嫌味っぽく言ってしまった。


「小学生だったしね。中学生もひとりいたけど、別にこういうの得意じゃなかったから」


 彼は淡々と返した。


「どうして造ろうと思ったの?」

「仲間とずっと一緒にいたかったんだ。秘密基地だよ」


 海を見つめる彼の目が細くなり、昔に思いを馳せていた。そしてゆっくり話し出した。


「俺の兄貴は当時中学生だったんだけど、アマチュアながら時々サーフィンの雑誌に載るくらいは有名だった。当時仲の良かった二人と兄貴にサーフィンを教わるようになってから楽しくて、ずっと海の近くに居たくてみんなで造ったんだ。あの当時は家に帰るのも惜しくてずっとここにいた。その内、兄貴の大学進学と親父の転勤が重なって都会に出ることになって、家族で引っ越そうということになったんだけど、俺は行きたくなかった。中学もあと少しで終わりだし、一応仲間の家に居候させてもらうってことだったんだけど、結局昼も夜もここにいた」

「ひとりでいたの?」

「最初はひとりだったんだけど、まぁ仲間二人もほとんど一緒にいたから、ここで三人暮らし。中学卒業してバイトもしだすと、高校なんてほとんど行かなかった。バイトしてサーフィンする毎日。俺達はプロになるんだって、そう思い込んでた」


 ばかだよなぁ。

 彼は波音にかき消されるくらいの小さい声で呟いた。


「兄貴は都会に出るとき、自分のボードを俺に寄越して言ったんだ」


 彼は目線は水平線のまま、手だけ動かしてそっとボードを撫でた。


「俺は大学出るけど夢はお前らと同じプロだからまた戻ってくるって。それまでこいつを頼んだぞ。戻ってきたら色んな大会出ようぜって。でもあいつ、連絡ひとつ寄越さないし、未だに戻ってこない」


 家族と孤立している点では、わたしと彼は似ている。ただひとつ決定的に違うこと、それは――、


「お兄さんのことが好きなんだね。なんだかんだ言っても、あなたの中でとても存在が大きい」


 わたしは妹や親がいなくなっても、きっと何事も無く過ごすだろう。むしろ喜ぶかもしれない。


「それで、ここで夜中でもお兄さんを待っているの?」

「待ってるわけじゃない」


 無表情だった彼が、少し顔を歪めた。

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