5
うつ伏せになって頭から全てを消し去ろうとする。でもまだ何も消せないうちにその足音は近づいてくる。
あー、また。お母さんが階段を上ってくる音が聞こえる。お母さんはわたしの部屋のドアを開けようとした。でも鍵が掛かっているのでそれ以上どうこうしようとはせず、ドアの前で怒鳴りだした。
「恵美、進路はどうしたの。もう冬休み前なのよ? 由美みたいに推薦も無ければ勉強だって出来ないんだから。就職するにもどんどん募集は締め切っているのよ? 今からでも学校に戻って求人票でも見たらどうなの!」
わたしはベッドの上から怒鳴り返す。
「もううるさいの! わたしだって考えてるんだから!」
「だったら学校へ行って考えなさい! 自分の部屋に籠ってばかりで将来が見えるの?」
「うるさいうるさい! ほっといて!」
「何もせずに家にいられると思ったら大間違いだからね!」
お母さんの足音が遠のくと、わたしの目から涙が溢れた。もう無意識に両目からぼたぼた容赦なく涙は布団にシミを作る。
一番ギリギリなのはわたしなんだ。志望校もやりたい仕事も無く、みんなより何キロも後ろを俯きながら、とぼとぼと歩いていく自分がかわいそうで大嫌いで、冬休みの間近の今日、ついに突き放してしまった。自分の為に何かをしようとするのはもう辞めた。このままなるようになればいい。バイトは昨日辞めたけど貯金はあるし、この家の寄生虫になるつもりは無い。明日は終業式だけどもう学校も行かないことにした。現実逃避をした。
階下で電話が鳴っている。うるさいなぁ。あ、誰か取った。
しばらく静かな時が流れたが、また階段を上ってくる足音がする。
「お姉ちゃん」
わたしの双子の妹、由美だ。髪型のせいだけじゃなく、わたしたちは全てにおいて似ていない。
「お姉ちゃん、おばあちゃんから電話。また通信簿が見たいって」
父方の祖母は遠くに住んでいて、祖父はわたしが中学のときに亡くなってしまった。祖母が寂しいのは分かるが、頻繁に会える距離では無い為、長期休みや年末年始に加え、学期が終わり通信簿を土産代わりに持って行くのがいつからかわたし達の決まりとなっていた。でも今学期は持って行けない、行きたくない。わたしはわたしを見放してしまったから。
ちなみに母方の祖父母はどちらも健在ですぐ近くに住んでいる。さすが母の親とでも言うのだろうか、二人とも小うるさいのでごみ捨ての際は遭遇しないかいつも冷や冷やだ。
「お姉ちゃん、わたしは木曜日以外ならいつでもいいからね。日にち決まったら教えて」
由美はイライラしながらドア越しに言う。わたしはお母さんの時より警戒を解いて鍵を開けた。その音を確認して由美は薄くドアを開け、腕だけ入れて子機を寄越し、すぐに自分の部屋に戻った。彼女はわたしに興味が無いのだ。
わたしは子機を見つめて出ようか出まいか迷った。しかし保留ボタンが押されていなかったので、電話がわたしに渡ったのをおばあちゃんは気付いているはずだ。仕方なく「もしもし」と言った。おばあちゃんは明るいいつもの口調で応えた。
「恵美ちゃん、久しぶりね。もうすぐ冬休みでしょう」
「うん、そうだね」
「また来てくれるでしょう。ばあちゃん、会いたいよ」
「ああ、うん……あのさ、うん……」
「今回は通信簿はいらないよ。恵美ちゃんだけちょっとおいでよ」
「え、わたしだけ?」
「そう。由美ちゃんはまた別の機会に呼ぶから。ばあちゃんの畑手伝ってくれないかなぁ」
畑と言ってもどこかに出荷するようなものではなく、ちょっと大規模な家庭菜園だ。
「うーん、いいけど……」
「冬休みの間中、ひとりになってみたらいいんだよ。お母さんに言ってみたらどう?」
何も言っていないのに、おばあちゃんはお見通しのようだった。
わたしは誰にも何も言わず家を飛び出した。それが今日の昼過ぎだった。
ざざざ……ざざざ……。
冷たい……。目を開けるとわたしは真っ青な海の中にいた。白い砂の海底で仰向けに横たわっている。波の音がする。だけどおかしいな、魚もサンゴも海藻も無い。ただ深い青だけがわたしを取り巻いている。
上半身を起こすと海では無いことに気付いた。月明かりがビニールシートのブルーを抱いて、小屋の中を青く見せていただけだった。
顔を触るとまるで氷のように冷たい。荷物は全てコインロッカーに置いて来てしまったので着るものなど何も無いが、そこまで寒く感じないのは小屋のおかげだろうか。それでもそろそろ暖かい場所に移動しなければと思い、小屋を出ようとドアに手を伸ばした。
その時、波以外の音を聞いた。ざくざくと砂を踏みつけ、ぺたんぺたんと踵に当たるサンダルの音。懐かしいビーチサンダルの夏の音。わたしは音のする方の壁の穴から覗いてみた。
真っ黒なウェットスーツを着た体が見えるが、その穴からは腰辺りしか見えない。何か大きくて長いものを横に抱えているのが分かる。その誰かは海の方に歩いて行く。
わたしはそっとドアを開けた。月明かりの逆光で黒いシルエットに青白い縁取りがされている。それから見るとどうやら男だ。
彼は波打ち際ギリギリまで近寄り、そこに腰を下ろした。そしてじっと水平線を見つめている。彼の座っている場所は、さっきわたしが座っていた場所だ。自分をみているようでとても怖かったけど、とてもきれいだった。
どのくらい時間が経っただろう。わたしはさっさと駅に戻ればいいのにずっと彼の後姿を見ていた。どうしても目が離せなかったのだ。こんな真冬の夜中にどうしてひとり海に入ろうとしているの。どう考えてもおかしい人なのに、月がそのシルエットを美しく見せてくれるのでわたしは絵画を眺めているような気分だった。
彼はちらりと腕時計を見た。そういう仕草をした。そして立ち上がり、体を動かし始めた。彼が息をする度にぽっぽっと白いもやが上がっては消える。
彼が持っていた大きく長いものがやっとサーフボードだと分かった。彼はコードを足首に巻いて、ボードを脇に抱えて海に入って行った。座っていたところにはビーチサンダルが刺さっていて、隣にはバスタオルが置いてあるようだ。
わたしはもうドアを全開にして彼を見ていた。しかしあちらはまだ気付いていない。ずっと水平線を見たままボードに座っている。たまに腹這いになって海面を移動するものの、波に乗らなかった。大体、素人のわたしから見ても乗れるような波なんて一切無い。この海はとても穏やかだ。
冷たい風がふわっと彼を通り抜け、小屋に当たった。屋根のビニールシートがバタバタと波打った。その音で彼はふいにこちらを向いた。そして、わたしを見つけた。
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