僕と彼女の最後の冒険

沖合なせ

 ある暑い夏の日だった。

 痛いくらいに照り付ける日光に、テレビの中の球児たちですら、うんざりと白球を眺めていた。


 一点を追う八回裏ツーアウト満塁、バッターボックスには四番が入る。

 その初球をバッドが芯で捉えた時だった。

 彼女が窓の外を見ながら言った。


「……死ににいこうよ」


 冗談みたいな言葉だった。現実離れしていて、物語の中の台詞みたいで、それなのに不思議な説得力があった。

 あぁ、ほんとに死ぬつもりなんだ。

 そう思った。


「いいよ。いこうか」


 答えは、自然と出た。


 彼女の隣には、いつも僕がいた。その白くて細い右手は、いつも僕の左手が包んでいた。

 彼女の隣に立っているのが普通だった。彼女の手を握っているのが普通だった。


 だから彼女が死ぬというなら、その隣で首を切るのが自然だと思った。


「うん」


 彼女が笑った。

 僕も笑う。


 そしてその日のうちに、僕らは家を出た。ペットボトルに水を入れて、食べ物とお金を少しだけくすねて、ナイフを持って、まだ暗い空の下で落ち合った。

 僕らの最後の旅は、そうして始まった。


「海と山、どっちがいい?」


 裸足で線路沿いを歩きながら、彼女が尋ねる。僕が、死体は山の方が目立たないんじゃない? と言って、目的地は山に決まった。


 どこの山でもよかった。山でなくてもよかった。海でも、田舎でも、都会でも。

 ただ僕らは、たどり着いた先に僕と彼女がいれば、それだけで十分だった。


 都会を抜けて、線路の上を歩いて、海を横目に進んでいく。疲れたら休憩し、お腹が空けばご飯を食べ、眠たくなったら目を瞑って、気ままに進んでいく。


 何も考えずに、今を生きて、世界を冒険した。この旅の終わりにある、死を目指して。


 途中で、彼女が子犬を見つけた。

 ブラウンの毛に、三角形の耳が垂れ下がって、尻尾を短く左右に振る子犬だった。


「ゴールデンレトリバーだね」


 有名な犬種だから、僕も知っていた。何の汚れも知らなそうな瞳が、僕らを見つめていた。

 彼女が子犬を見つめながら、決めたと言った。


「この子も連れていこう」


 彼女を止めようと思った。僕らはもうすぐ死に、だからこの子を飼ってあげることはできないと。

 けれど、彼女の目を見て、何を言うべきか分からなくなった。代わりに、彼女が口を開いた。


「この子も同じだよ」


 その言葉で、もう僕の言うことはなくなった。


……これは僕らの最後の旅だ。気ままに歩いて死に場所を探す、僕らの最後の旅。仲間は多い方がいい。

 試しに撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めた。



 そしてまた、僕らは歩いていく。坂を過ぎ、畦倉道を通って、いよいよ山に入る。


 山道は厳しく、すぐに息が上がった。子犬だけは元気そうに尻尾を振って、「どうしてそんなに辛そうなの?」と目を瞬かせていた。

 僕らは思わず苦笑して、また足を動かす。


 気づけば夜になっていた。周りはすっかり暗くなって、進めそうにない。今晩はここで夜を明かすことにして、二人で地べたに尻をついた。


「うわぁ、綺麗」


 と、彼女が言った。カロリーメイトを右手に持ちながら、空を見上げていた。


 恐る恐る視線を上げていく。

 そして、思わず肩を震わせた。


──星が降って来そうだった。満点の夜空から 一つくらい溢れて降ってきても、おかしくなかった。


「綺麗だね」


 彼女が笑った。

 僕も笑う。

 子犬が小さく、アウっと吠えた。



 僕らは今、生きているんだ。こんな綺麗な星空の下で。

 そしてきっと、もうすぐ死ぬ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

僕と彼女の最後の冒険 沖合なせ @sato13

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ