第4話 アウトボールを追いかけて  1975年 冬

 サッと、ほんの一瞬だった。

 堅く閉じた瞼の裏側を、オレンジ色の光らしきものが浮かび上がった。それは一度だけだったが、少しの間チカチカした残像がこびり付いていた。怖さと緊張のため、息をするのもはばかれたが、ひとまずは状況が落ち着くまでじっと動かずにいるしかなかった。

 二、三分前、乾いた靴音がすぐそばを通り過ぎたときには心臓が止まるかと思った。うずくまった身体の両側にある冷たい塊からは砂埃っぽい臭いがしていて、それは晃二に小学校の体育準備室の石灰箱を思い起こさせた。これが誰かの悪戯で、体育準備室に閉じこめられたならばまだ良かったが、そうではなかった。

 初めは耳を覆っていた手のひらを通して自分の脈打つ鼓動音しか聴こえていなかったが、しばらくすると、辺りで何人かの声が小さく聞こえた。注意して聞くと、それは日本語と英語が混ざっているようだった。

 今はだいたい何時なんだろう。不安になるが、時計がないのと、辺りに日があまり射し込まないのとで、大体の時間を推測するしかない。

 この部屋に忍び込んでから、かれこれ一時間は経っているはずだ。となると、もう四時を回っているだろう。事態を把握するため、晃二はようやく片目を開けた。

 すると、さっきの光が消防隊の懐中電灯の明かりで、両側にある冷たい塊がセメント袋だというのが解ったが、自分たちに何が起こったのかは一向に解らなかった。ちょっと前の行動が思い出せず、何か別の事件にでも巻き込まれたのでは、とも考えていた。

 晃二は、ここに忍び込んでからのことを順序立てて思い出していった。

 確か、忍び込んで初めのうちは、みんなまとまっていたはずだったよなぁ。

 それで、荒ケンが一番最初にお宝を見つけたんだっけ。

 それから、みんな我先にとバラバラに行動しはじめて、俺も奥へ入って行ったんだ。

 そしてしばらく砂の中のお宝を探し出すのに熱中していた……。

 そこまでは思い出すのだが、それから先はあまり覚えがない。

 急に辺りが騒がしくなり、気が付いたときには周りの仲間はみな姿を消していた。そして、黄色い防護服のようなものを着た人たちが駆け込むのと同時に、目の前の小さな隙間に無理矢理身体をねじ込んだのだった。

 一度も「逃げろ」という声を聞かなかったから、きっと先に気付いた連中は、俺に知らせずに逃げたに違いない。恐らく知らせる余裕がないほど急だったのだろう。

 だが、晃二には自分一人が見捨てられたように思えてきて、だんだん心細さよりも怒りの方がこみ上げてきた。理由がどうであれ納得できなかった。そんな風に状況が見えてきたら、変な体勢をしている両足と右肩の痺れがジワジワと襲ってきた。

︱ ちぇっ、初めっから計画が良くなかったのか ︱

 未だ入ったことのない、砦の一室に忍び込んでお宝を探し出す、という今回の計画は、今までになく慎重に進めてきたつもりだった。ところがこのザマである。

 とんだ厄介ごとになっちまったな。晃二は今更ながら後悔した。  


 話の発端は一昨日、5時間目の社会科の授業中であった。

 コークスのストーブで教室全体がほどよく暖まった午後。激しい睡魔と戦っていた晃二の背中越しに、後ろの席から丸めた紙屑が投げ込まれた。

「…ったく。かったりーなぁ」

 眠気の方が勝り、意に介さない晃二を急かすように、ウメッチが背中を鉛筆でつついてきた。仕方なしに紙屑を開くと、そこには殴り書きで「お宝発見」とだけ書かれていた。この唐突で意味不明な手紙に返事を書くのが億劫だったので、振り返り、小声で尋ねた。

「今度は何だよ?」

「へへっ、後で説明するよ」

「後で説明すんなら最初から手紙なんか出すなよ」

 愚痴を言いつつも、出し惜しみされると却って気になってしまうものである。すぐにでも内容が知りたくなったが、先生がこっちを向きっぱなしなので諦めた。

「じらしやがって、あったまくんなぁ」

 椅子の背もたれに反り返って晃二はぼやいた。

 こちらの反応をウメッチも予測して、わざとこう書いてきたのである。仕方なく何となく自分たちにとって価値のありそうな物を想像してみた。

 その頃、仲間の間で関心があった物と言えば限られていた。スナック菓子に付いてくるヒーロー物や怪獣物のカードからはもう卒業していたし、勝負して奪い取ったメンコやベーゴマに関しても、相手が特に大切にしていた物しか興味がなかった。それ以外では、流行りすたりがあって、先月スパイ手帳が流行ったかと思うと、今月は雑誌「科学と学習」の付録に代わっている、などしょっちゅうである。

 じらされた晃二は、考えを巡らせるべきか、無視してやり過ごすか迷っていた。 

 結局、授業に飽きていたので、残された時間にいくつかの可能性を考えることにした。

「あいつの言うお宝だろ。どうせ大したもんじゃねぇな。貰ってきたエッチな本じゃないだろうし、米屋の裏から拾ってきたプラッシーの景品でもねぇかな」

 黒板の文字の中にヒントでもあるかのように前を凝視し、独り言をつぶやいていた。しかしこれらは、ウメッチがお宝と呼んで以前に見せてくれた物ばかりである。

 三学期が始まって一ヶ月半。残り少ない小学校生活のほとんど毎日を一緒に過ごしていたウメッチが、いつどこでそんな物を見つけてきたのか、そっちの方が気になっているうちにチャイムが鳴ってしまった。

 さほど関心もなさそうに教科書をしまいながら、晃二はゆっくり振り返った。

「で、何だよそのお宝っ…」

「しっ!」人差し指で口を塞ぐ、大げさなアクションもいつもと同じである。

「今度のは本当にすごいぜ」

「この前の女もんのパンツよりか?」

 声を潜めてしゃべるウメッチを、晃二はからかった。

「ホント、ホント! でもちょっとここじゃ話せねぇな」

 さすがにいつもより熱のこもった喋り方なので段々と気になってきた。

「じゃあ便所でも行くか」

 便所と言っても、いつも向かうのは、便所の先の非常階段である。六時間目の図工までは七分程しかない。早くお宝の正体を知りたい晃二は、教室を出ると自然と早歩きになった。

 あとから追いついたウメッチの肘を引っ張り、非常階段の扉に二人は隠れる。

「何だよ、早く言えよ」

 とうとう堪えきれなくなって、晃二はせっついた。

「オヤジがな、昨日酔っぱらってしゃべってたんだけど……」

「だからなんなんだよ!」

 晃二はウメッチのもったいぶる話し方が時々勘にさわった。

「だからさぁ、本物の拳銃の弾があるんだって!」

 けんじゅーのたま? 晃二は喉が詰まったようになり、首を前に出す。実感がわかないのと、想像だにしなかった答えなのとで、どう対応していいものか分からなかった。

「だから、28口径とか44口径とか……本物のピストルの弾だって」

「……なんちゃって、じゃねぇだろうな」

「まじだって!」ウメッチの顔は真剣だった。

「どこにあんだよ……。まさかお前、MPの拳銃盗ったのか?」

 実際に、ウメッチの父親はベースキャンプ内のMPだったので、早まったウメッチが父親の拳銃を盗んできたと、晃二の方こそ早まって想像してしまったのだった。

「そうじゃなくて、いっぱい落ちているとこを知ってるんだよ」

 やっと話の流れが見えてきた晃二は、納得すると同時にわくわくしてきた。

「ほんとかよ、それってどこよ」

 身を前に乗り出したついでに校庭の時計を見る。あと三分しか時間がない。

「オヤジの話じゃ、観覧席の中に射撃訓練してたとこがあったんだってさ」

「まじかよ、大事件じゃん。でも、砦の中にそんなとこあったけ?」

「きっとあそこじゃない?」

「あそこって、……まさか、開かずの門の中か」

 そう言うと、晃二はもう一度首を伸ばして時計を見た。

「やべっ、早く戻んないと」

 午前中、三時間目のチャイムに遅れて怒られていた二人は急いで走って戻った。

「ほんとにあの部屋かぁ?」

「だってよー、あの部屋だけはまだ誰も入ったことがないじゃん」

 興奮していたので、職員室の前でスピードを緩めるのを忘れていた。

「誰だぁ、廊下を走っているのは」磨りガラスの向こうで先生の声がした。

 二人は顔を見合わせて笑うと、スピードを落とし、早歩きしながら計画を練った。

「作戦会議をしよう。まず、メンバー選びだ。でも、まだみんなには秘密だぞ」

 六時間目のチャイムが鳴り終わる直前に、二人は教室に駆け込んだ。          


─ ちゃんと計画したはずだったのに、何でこんなことになったんだ ─

 これまでの状況を少しずつ思い出していると段々と目が慣れてきた。と同時に、いま自分が置かれている状況が最悪であることも理解できた。そんな不安に襲われながらも辺りを見回していた晃二が薄暗い視界の先に見つけたのは、一個の色褪せたボールだった。

 なんでこんなとこに…。不思議だった。普段、アウトボールが入る広い部屋と違い、この部屋はファールゾーンの一番端に位置しているのだ。

 アウトボールがこんな所にもあるのか。晃二は心の中で呟くと、自分の置かれた状況も同様で、何かの手違いで迷い込んでしまっただけだろうと少し安心できた。

 しかし、何故MPと消防隊が来たのかは依然として謎である。解ったのは、このままでは捕まるか閉じこめられるかのどちらかだ、ということだけだ。夕方で気温が下がったためもあるだろうが、急に身体に触れているあらゆるモノから冷たさが伝わる。

 何でばれたんだ。捕まった奴はいないのか。色々と疑問が沸き上がってくるが、それは後まわしにして、今は状況を少しでも改善するのが先決だった。

 取りあえず、周りに気を配りながら、セメント袋の間から四つん這いで出た。

 改めて辺りを見回すと、心なしか紗がかかっている。窓から差し込む淡い光の中、そのくすんだ空気の層は、上下左右にうねりながら窓の向こうに吸い込まれていった。まるで先週見た、ギャング映画のワンシーンにでも入り込んでしまったかのようだった。

 兄貴と一緒に見たテレビ映画の、確かクライマックスだったと思う。主人公がマフィアとの取り引きに失敗し、椅子に縛られたまま倉庫に火をつけられてしまうのだった。主人公は、何とか隠し持っていたナイフでロープを切り、危機一髪で逃げ出したのだが、その部屋の様子と、自分が置かれた状況とが重なって思えた。

 煙か……。映画のシーンと現実との間で、一瞬何かが脳裏をよぎった。

 そうか! わかった。声を上げそうになった晃二は、下唇を噛みながら頷いた。

 煙だ。そうに違いない。


 今回の宝探しに参加したのは全員で八名だが、当初の計画では五人だけのはずだった。それが、ウメッチが口を滑らせたせいで計画が漏れ、八人に増えてしまったのである。

 まず、一昨日の放課後、計画するに当たってメンバーを絞った。いつもの晃二、ウメッチ、荒ケンの三人の他に、今回は信頼できる仲間としてシローと秀夫という精鋭部隊を組んだのだった。モノが厄介な拳銃の弾だと言うことと、絶対に失敗は許されないことから慎重に選んだメンバーだった。だが、ウメッチの普段と違う態度にモレが気付き、そこから口を滑らせてブースケと岸田にばれたのである。ただ、それが当日の昼休みだったので打つ手が無く、計画の邪魔にならないよう行動することを条件に参加を認めたのであった。

 今回は、綿密な計画もさることながら、限られた時間内に弾を探し出す能力と、緊急時にはすぐに脱出できる機敏さが大切だった。MPの巡回時間はだいたい分かっていたから、あとは抜かりなく、緊張感を保って事を運ぶよう五人は肝に銘じていた。その意識が急遽参加することになった三人には上手く伝わらなかったのだろう。初めからモレとブースケははしゃいでいるので、晃二には少し鬱陶しかった。

 それと、もう一つの誤算は、砦に潜入する際、偶然ウィリーと出会したことである。砦の裏で彼がタバコを吸っていたところに偶然鉢合わせてしまったのだ。しかも目撃されただけでなく、後から勝手に入ってきてしまったようなのである。何に興味を持ったのか分からぬが、自分たちの目的とは違うことは明白で、物珍しそうに部屋を見渡している彼を気にしないようにして行動することにしたのだった。

 そう言った理由で、中に入ってからもぎくしゃくした雰囲気を引きずっていた。きっとあの辺りから、状況が悪い方へと逸れ始めていったのだろう。

 それでも目的の部屋に着くと、みんな計画通り各々準備を始めた。事前の作戦会議で役目は決めてあったが、ただ一人、ウメッチだけはごねていた。

「なんで初っぱなから見張りなんだよ。オレが持ってきた話じゃねぇかよ」

 半強制的に最初の見張り役に抜擢されたウメッチは納得いかなかった。

「だからじゃねぇかよ。お前、MPのせがれだろ」

 みんな自分勝手で、道理に適っていないことを言い出す。こういう時は情け無用だ。

「ウメッチだったら見つかっても親父の顔で許してもらえるよ」

 岸田が軽々しく言うと、「バカ言うな。親父に知れたらブン殴られるよ」と、顔を真っ赤にして口を尖らせた。

 結局、早めに交代するという条件で、止むなく引き受けたのであった。

 その他にブースケを見張りに立て、残る六人で部屋の入口の鎖を外しにかかる。

 前に二度ほどこの部屋への潜入を試みたが、やはりこの太い鎖が外れず、断念したことがあった。それ以来、開かずの門と呼ばれていたのだが、今回は自信があった。ベースのゲートと同じパイプと金網でできている扉は、真ん中に鎖が巻かれ、開かないようになっている。実際には、この太い鎖を断ち切るのは至難の業なので、外すのではなく、鎖を緩めることにしたのだ。

 おもむろに懐中電灯とペンチを取り出した晃二は、鎖の近くの金網を二カ所切った。そして、切った金網を解くように外すと、張っていた鎖が少しずつ緩んでいく。

 おぉすげぇ。みんなが固唾を飲む中、もう片方の扉も同じようにすると、子供なら充分通れる隙間ができた。みんな手品でも見ているかのように目を丸くした。

「しかも、これなら金網を元のように戻せば、見た目には判らないぜ」

「なんだか刑事ドラマみたいだなぁ」

「そこまで考えているなんてお前偉いよ」

 ふっふっふ。晃二は、みんなの賛辞に鼻を高くした。

 この砦で遊ぶようになってから一番気を配ったことは、いかにMPにばれないようにするかであった。見つかったり、忍び込んだ跡を残したりすれば、建物自体を封鎖され、二度とここへは来られないだろうと思っていたからである。

 我ながら自分の作戦に満足し、晃二は赤茶けた掌を鼻に持っていき、その臭いを嗅いだ。

 錆びた鉄の臭いがした。小さい頃から怪我するたびに舐めていた血の味。それが人間の身体の内側の臭いや味だと思っていた。そしてその臭いを嗅ぐと、いつも体内に秘める何かが身体を揺り動かすのだった。

「よし、入ろうぜ」

 その同じような臭いを認めると、初めて入る砦の未知の核へと足を踏み出した。


「うおぉ、すげぇ。なんだよ、これ」

 真っ先に、幌で覆われた大きな塊の裏側に回り込んだ秀夫が感嘆の声を上げた。

 その声につられて裏に回ると、色褪せた空間に雑然と放置された物たちの姿が目に飛び込んできた。今まで幌が邪魔で中の様子がよく判らなかったが、そこはまるで舞台の大道具倉庫のようだった。古びた応接セットや、車のシートなど、こんな物がと思われる物まで異様な姿で横たわっていた。離れた所には、ルートビアの空ケースが積み上げられ、その後ろには洋式の便器が二十個位転がっている。そして壁の前にはボロボロになったステージと、疲れ果てたサンタクロースの人形が、埃の雪が積もった樅の木の下で眠っていた。入口を塞いでいた大きな塊の幌をめくると、それは古びた小型のフォークリフトだった。

「それにしても……」

 タイムスリップしたような光景に、しばらく呻くような声しか出ず、誰もが呆気に取られていた。

 やがて状況が呑み込めてくると、恐る恐る輪を広げていった。

「何これ。映写機みたいだけど、使えっかな」

「どうだかな。それよっか秀夫、これ見ろよ。昔のレジスターだぜ」

「お金、入ってたりして。シロー開けてみな」

「おーい、ここ来てみぃ。ペプシの自動販売機が倒れているよ」

 今度はいたる所で、各々が発見した物について声が飛び交った。

 すると、その声を聞きつけて見張り役の二人も中に入ってきてしまい、一時は盗掘に入って我を忘れた盗賊のように、指示も忘れて騒然となっていた。

「シーッ。声がでかいぞ。みんな一旦ここに集まれ」

 いち早く冷静さを取り戻した晃二が皆に指示をする。

「とりあえず最初に例の弾を探そう。それでその後、時間があったら周りを探検しよう」

 当初の目的を見失いそうになったみんなをその一言がまとめた。

「じゃあ、見張り役は持ち場に戻って。ウメッチは3階スロープの上。ブースケはスロープの下。交代は二十分経ったら。腕時計持ってるのはシローだけだから、二十分経ったらシローはオレに教えてくれ。それじゃ、まず、弾が落ちていそうな所を探そう」

 そこまで言うと、みんな納得して持ち場に戻り、今度は拳銃の弾が落ちていそうな所を探しに散らばった。

 探し始めて十分ほどしたとき、さっきからステージ横の砂場を掘り返していた荒ケンが何かを見つけた。

「あったぞ! ここや」声を潜めながら荒ケンが叫んだ。

 ウメッチが親父から訊き出した、昔の射撃訓練所というのがここだろうという確信はあったが、こんな倉庫に姿を変えていたので半分諦めかけていたところだった。

 みんなで荒ケンの手のひらに乗った、その小さな茶色い物体を囲んだ。

「何これ、弾じゃないじゃん」

「これは薬莢だよ。だから言ったじゃん。やっぱここだったんだ」

 と、そんな小っぽけなものでもみんな目を輝かせた。よく見たら、砂場の先にうず高く砂袋が積まれていたので、どうやらこの砂場がかつての射撃訓練所だったらしい。

「よし、じゃあここ中心に探そうぜ」

 晃二が言うと、「次は俺が見つけるぞ」と、いきなりみんなのボルテージが上がった。

 宝の在処が絞り込めたので、後は時間との戦いだと思った。

 しかしその後、薬莢はいくつか見つかれど、肝心な弾の方はなかなか見つからなかった。

 ちっ、またかよ。物陰から舌打ちやら落胆の声が多くなっていた。

 だが、そろそろ見張りの交代という時間になって、やっと秀夫が見つけた。今度は先が潰れて変型はしていたが本物の拳銃の弾だった。

「すっげぇ。本物かぁ」顔をつき合わせて驚きの声を上げる。

「これ28口径の弾かな」

 秀夫は見回しながら尋ねたが、みんな首を傾げてている。

「家の兄貴ならモデルガン持っているから分かるかもよ」

 シローがそう言ったのも、28口径とか44口径とか、耳にするのはテレビや映画の中での話で、実際見て判る者は誰もいなかった。

 ちょうど交代の時間だったので、晃二はみんなを一旦呼び寄せ、途中経過を説明した。

 潰れてはいたが、少なくとも三十年前の拳銃の弾が見つかったのだ。きっと薬莢付きのきれいな弾もどこかに埋もれているだろう。ということで、今度は岸田とシローの二人を見張りに立て、すぐに再開した。

 やがて、砂を掘る指先にも力が入ってきた頃、モレとブースケの話し声が小さく聞こえた。

「ちょっと暗いな。何か燃やす物ないか」

 そう訊かれたブースケは、「燃やす物、燃やす物」と、念仏を唱えるように言いながら周りをキョロキョロ見回していた。そしてしばらくして、「これなんかどう?」と、モレに砂袋の切れ端を差し出すのが見えた。

「おー、なかなかいいじゃん」

 そう言うなり、モレはポケットから取り出したマッチでその切れ端に火をつけた。

 注意しようか、どうしようか。一瞬声が出かかった晃二だが、急遽参加した二人は懐中電灯を持っていなかったので、仕方ないか、と思い留まった。

 その後、火のついた切れ端をブースケにも渡し、二人は晃二たちとは反対の窓の方に向かって行ったのだった。


 やっぱり、あのときの煙が原因で消防隊が来たに違いない。

 そう言えば、思い当たる節があった。自分が見つけた薬莢付きの弾をみんなに見せびらかしたとき、なんだか空気が変わったように思えたのは、あの煙のせいだったのだ。

 ギャング映画とオーバーラップしたおかげで大体の状況を理解した晃二は、思わぬ方向にいってしまったこの展開を、映画のように自分一人で打開していかなければならなかった。しかし映画と違うのは、ナイフも武器も何一つ自分は身に付けていないところだ。

 せめて荒ケンに返したペンチさえあれば。そうすれば、誰もいなくなった後で、金網を破って逃げ出せるのだが。晃二は不運な自分の状況を恨んだ。

─ このまま閉じこめられるか、捕まるか、どちらかなのか ─

 想像したら急にぞっとしてきた。

 自首した方がいいのかもしれないが、その後は一体どうなるのだろう。きっと、取り調べを受けることになるだろうが、そうなったら仲間を売らずに黙秘すべきか。それとも全てを自供し、許しを請うべきか。

 いろいろな場面や可能性が頭の中をグルグル駆けめぐる。アメリカ軍のくだす裁きや刑がわからない分、想像力は悪い方悪い方へと向かわざるを得なかった。

 しかし、今さらのこのこ出て行って自供しても、子供の悪戯だと簡単に許してはくれないだろう。結局、裁かれて刑罰を受けることに変わりはないのだ。

︱ うだうだ考えても仕方ない ︱

 次から次へと浮かんでくる懸念を振り払うと、晃二の脳裏に一つだけ道が残った。

︱ 見つからずに脱出する。これにすべてを賭けるしかない ︱

 そう腹をくくると、何だか少しすっきりした。

 晃二はいま一度、自分の置かれた現状や周りの様子をこと細かく調べていった。

 まず、自分が隠れていた場所を見ると、それはブルトーザーのシャベル部分に積まれたセメント袋の隙間だった。騒がしい声に驚き、咄嗟に隠れたにしては上出来である。そのまま左右を見渡したら、似たような隠れ場所が所々にあった。頭の片隅に、上手く移動すればなんとか出入口までたどり着けるかもしれない、という微かな希望が出てきた。泥巡ゴッコでは、いつも最後まで隠れ通したじゃないか。そんな小っぽけな自信を頼りに、晃二は次の隠れ場所に選んだ自動販売機まで這っていった。

 ちょうどその陰からは扉の辺りが見渡せて、消防隊の動きがよく分かった。

 出入口にMPが三人に消防隊員が二人、あとは部屋の窓側で三人の隊員が何かを手にして話をしているのが見て取れる。

 あれは…。隊員の手にしているモノが砂袋の切れ端であるのを認め、やはりあのときの煙が窓から出て通報されたのだと確信した。

︱ やっぱそうか。とんだ騒ぎになっちゃったな ︱

 これではただの不法侵入だけでは済まず、放火の疑いまで被ることになりかねない。事態は思ったより深刻そうである。急に全身が重くなって大きく溜息をついた。

 早く手を打たなければ、とは思ってもショックが大きくて頭が上手く廻らなかった。

 出入口までは二十メートル。しかしあせって行動しても、MPがいる限り強行突破は無理だろう。かといってのんびりはしていられない。このままでは扉を閉められ、一晩中出られなくなってしまうのだ。ジレンマに陥りそうになるが、ここは焦る気持ちを抑え、ありったけの策を考えようとその場に腰を降ろした。

︱ どこかに1階か3階に抜けられる道はないかな ︱

 壁を見回すが、階段やドアらしきモノは見当たらない。しかし冷静に考えると、それも得策とは思えなかった。3階はMPの警備室があるし、1階は真っ暗闇で墓場のような所なのである。急に、闇に押し潰されそうになった1階の不気味さが甦り、身体を震わせた。そのとき、ふと微かにすすり泣くような声が聴こえ、ゾッとして鳥肌が立った。

 初めは空耳のように思えたが、耳を澄ましていると、再びどこからか鼻をすするような音が聴こえた。幻聴ではなさそうだ。

 途切れ途切れに聴こえる、その音の方向にゆっくりと移動してみると、古びたステージの下で小さな影が揺れた。

 何だろう。近づいた晃二には聴き覚えのあるすすり声だった。

 そう。今、思い出していた1階に降りたときにも聴いた同じ泣き声。

 もしや。晃二は這ったままで近づき、目を凝らしてその影を見つめた。

 やはり。それはブースケだった。


「ブースケ」

 近くへ寄って声をかけると、その小さな影はブルッと震えた。

 もう一度、小声で呼びかけると、涙でクシャクシャにした顔をこちらに向けた。

 人影を見てブースケは一瞬身構えたが、助けが来たと思ったのだろう、力が抜けたように後ろの柱に寄りかかった。そして涙を拭いながら弱々しい声で答えた。

「晃ちゃん……なの」

「あぁ。俺だよ」複雑な気持ちだった。

「助けに来てくれたの? みんな…逃げちゃって…また置いてけぼりかと思ったよ」

 たどたどしい口調でそう言いながら鼻を啜った。

「いや、そうじゃないんだ。オレも取り残されちゃったんだよ」

 すると驚いたような、困ったような表情で晃二の顔を覗き込んだ。

「他に誰か見なかったか?」

「……誰も……見なかった」

 ブースケの答えに微かな望みを託していたが、やはり他の仲間たちは逃げ出したらしい。もし他に誰かいたとしても、この状況が良くなる訳ではないが、アイディアを出し合ったり偵察に行ったりと、人数が多いに越したことはなかった。それ以上に、今の自分には仲間がいるという安心感と心強さが欲しかった、のだが。

 やれやれ、面倒なことになったぞ。いつも味噌っかすで足手まといになるブースケと一緒なのは、かえって不安と心細さを抱かせた。

「大丈夫だから、もう泣くなよ」

 本当は自分の方こそ誰かに大丈夫と言ってもらいたかったが、ここはそうでも言ってブースケと自分を安心させるしかなかった。

 足手まといとは思ったが、ブースケのおっちょこちょいな性格と、その憎めない人柄が好きだった。入学当時から鈍臭かったので、遊ぶときは味噌っかすになることが多かったが、除け者にせずいつも一緒に遊ぶようにしていたのだ。

 ブースケの家は母子家庭で、一人でフライ屋を切り回している母親と、二つ下の妹との三人で暮らしていた。聞いた話だと、ブースケが小学校に上がって間もなく父親は病気で他界し、その後、家の軒先を改造してフライ屋を始めたらしかった。

 店はちびっ子広場の近くにあるので、夕方になると子供たちの溜まり場になっていた。晃二もしょっちゅう十円玉を握りしめては買いに行き、その度に「ツトムと仲良くしてあげてね」と頼まれていた。そう言っておまけしてくれるおばさんのお願いに応える意味もあり、彼の面倒をよく見ていたのである。

 気は優しいのだが、泣き虫ですっとぼけたところが欠点だった。試合でエラーをしてもグローブのせいにしたり、ローラースケートが滑れないくせに東京ボンバーズに入るのが夢だと言ったり、呆れるのを通り越して苦笑してしまうところが多かった。何かある度に「おかーちゃんが」「おかーちゃんが」と、母親を咎めるように口にするが、実際はおかーちゃんが大好きな甘えん坊だとみんな知っていた。

 最近は、母親の小言やお節介が鬱陶しい晃二には、父親が居なくても楽しくやっているブースケの家族が微笑ましく、また時に羨ましく思えた。

 それとは逆に、荒ケンの家には母親が居なかった。

 近所のおばさん連中の話では、荒ケンの母親は大阪にいた頃、他に男を作って家を出て行ったらしく、それ以降、父親の気性が極端に激しくなったという話だった。

 仲の良い友達の間にも一応プライバシーがあり、こちらから好奇心で探るようなことは暗黙の了解で誰もしなかった。しかし、周りの世間話の好きな大人からは、ことあるごとに噂話や非難が、聞きたくもないのに子供たちの耳に入ってくるのだった。

 荒ケンの父親を見かけたのは二、三度しかなかったが、いつも怒ったような顔をしていたのを覚えている。時々暴力もふるうらしく、先日も、中から大きな音がしたかと思うと引き戸が開き、頬を押さえた荒ケンが俯きながら出てきたのだった。荒ケンは「別に、毎度のことや」と、何でもないかのように答えたが、目は悲しい色を湛えていた。また、兄貴も最近はいないことが多く、家にいるときの荒ケンは別人のようだった。

 以前、ウメッチを交えて三人で、将来について語り合ったことがあったが、そのとき荒ケンは、早く家を出て働きたいと言っていた。

「中学出たらすぐに働こうかなぁ」

「えっ。働くって何すんのさ」

「親父と同じ大工かな。昔は嫌いやったけど、今じゃ大工もええなって思うわ。何か手に職つけて自分に自信を持ちたいんや。十年くらい修行して、自分で工務店を持ちたいんや」

 そこまで言うと、荒ケンは頭の後ろで腕を組み、フーッと大きくタバコの煙を吐いた。

 小学生のくせにクラスのほとんどの男子がタバコを経験していた。放課後、砦に集まったときに吸うことが多かった。ただ晃二は、旨いと思ったことが一度もなかったので、とっくに止めていた。吸うと言っても殆どが吹かす程度で、大人ぶって見せようと味も分からないくせに「やっぱ缶ピーはうめぇな」などと粋がっていたのである。

 でも、そのときの荒ケンはすごく大人に見えた。

 晃二自身、将来について具体的に考えたことなどなく、それどころか、親に言われるまま勉強して、きっと大学まで行くんだろうな、としか思い浮かばなかったのである。だから、現実的に将来を考えている荒ケンが、眩しく、大人に見えたのだろう。

 また、最近はウメッチに対しても自分とは違う世界を感じていた。

 ウメッチのところは両親とも健在だったが、幾つかの問題を抱えていた。その問題の一つが、毎日ある夫婦喧嘩である。

 元々浮気性な父親は、毎晩帰りが遅く、本牧のエリア・ワンやダンスホールでアメリカ人と夜中まで騒いで帰って来ては大喧嘩をするらしかった。そのうち半分は物が飛び交う喧嘩で、関係ない弟たちまで巻き込まれて困っていると言っていた。そして下の弟は登校拒否でよく学校を休んでいた。原因がいじめなのか家庭環境なのか、心配して話しかけても黙ったままで、これにも頭を悩ませているようだった。さらには、母親が極端な教育ママで、必要以上の期待と責任を負い被せて「ああしろ、こうしろ、勉強しろ」と、呪文のように毎日聞かされるのだ、とこぼしていた。それは、「子供に多くを求めるのは止めて欲しいね。できねぇもんはできねぇんだから」と、通信簿を持ち帰る度に聞く、投げ遣りなセリフからしてウメッチの苦労が伝わってきた。

 そんなウメッチの将来の夢は、外交官になることだった。

「大学出たら商社か銀行に入って、それから外交官になるんだ」

「親父みたいにペラペラ英語を話して、アメリカでもヨーロッパでも、どこでもいいから外国に住みてぇなぁ。そんで、ボインの金髪と結婚すんだ。いいだろー」

 外交官というのがどんな職業で、何をするのかよく解らなかったが、外国なんて夢が大きくていいな、と晃二は憧れの眼差しでウメッチを見ていたのだった。

 比較する訳ではないが、自分の家庭はどうなんだろう。時々考えることがある。

 父親はここ最近、仕事が代わったため、ほとんど家にはいなかった。男同士の場合、構ってもらえなくなるとだんだん疎遠になり、照れもあってか段々と距離が離れていくものだ。父親が休みで家にいるときも話すらせず、お互い変な気を遣っているようだった。また、母親は母親で、高校受験の兄にばかり関心があり、晃二のことなんてどうでも良いように見えた。

 一体誰の家がましかなんて考えても仕方ないが、それぞれ家族に対して思うところはあるようだった。

 卒業しても、みんなと一緒にいたかったが、兄とは別の私立を受験した晃二と、教育ママのお眼鏡にかなったところに行かされるウメッチと、地元の中学にそのまま上がる荒ケンたちとが卒業後も一堂に会すとはどうしても思えなかった。実は、二月の頭にあった入試の発表がつい先日あり、無事に合格したのはいいのだが、そのことはまだウメッチ以外の誰にも言っていなかった。同じく横須賀にある私立中学に入ることが決まったウメッチと、近々タイミングをみてみんなに報告しようとは言っていたところである。

 そんな心情もあり、最近の晃二は仲間の行く先々を一人一人想像することが多かった。もちろんブースケのことも。


 ようやく泣き止んで、落ち着いてきたブースケに訊いた。

「ブースケは消防隊が来たとき、どこにいた?」

「ここだよ」思い出すような素振りだったが、答えは単純だった。

「何でこんなとこにいたのさ」

「だって……この下を覗いたら、奥の方にアウトボールがあったんだもん」

 そう答えたブースケの足元には、茶色く汚れたボールが転がっていた。

「さっき、向こうの方にも一個転がっていたぞ」

「へー、どうやって入ったんだろうね」

 ブースケはさっきまで怯えて泣いていたくせに、もうあっけらかんとしている。どうやら事態の深刻さが解っていないようである。

「お前ら、砂袋燃やしただろ」晃二は戒めるように言った。

「……うん。モレが暗いって言うから」

「モレ一人のせいにすんなよ。その煙で消防車が来たんだからな」

 少し強く言うと、俯いて黙ってしまった。

「まぁ、今さら言っても始まらないけど、おかげで俺までこのザマだよ」

「ゴメン。オレのせいなのか……」

「これからここを脱出するからな、つべこべ文句言わずに言うこと聞けよ」

 捕まるかもとか、閉じこめられるかもとかを口にすると、またメソメソすると思ったので要点だけを伝える。

 しかめっ面のまま、晃二はステージの脇から顔を出し、再び出入口の様子を見た。

「どうやって脱出すんの?」

 弱々しい声で尋ねるブースケを振り返り、「これから考えるからちょっと黙ってろよ」と、晃二は焦りと苛立ちを押さえ切れずに声を荒げた。

 先ほどと変わらず、中では二、三人がまだ現場検証みたいなことをやっていたが、出入口にはMPが二人しか残っていなかった。

 これはしめた。一瞬、希望の微光が差し込んだが、それよりも、窓から差し込む光が濃いオレンジに変わってきている方が気になってしまう。

「やっべぇ、日が暮れてきたし、冷えてきたな」

 顔を引っ込めてまた腰を下ろした。意識すると寒さも襲ってくる。

「さっき、煙突が鳴ってたよ」

「さっきって、どんくらい前?」

「んー、十五分くらい前かな」

 ブースケの言った「煙突が鳴る」とは、この辺りで毎日四時四十五分になると聴こえてくる、汽笛のような音のことである。どこで鳴っているのか分からないが、少し離れた所にある、ヘチマ工場の煙突の方から聴こえて来るので、子供たちの間では「煙突が鳴る」と言ってたのだ。

 というと、もう五時か。そろそろ日が暮れてくる時間である。

 急に六時から塾があるのを思い出し、諦め顔で溜息をついた。

「もう少し様子をみるか」

 とりあえず、中にいる消防隊がいなくなるまでは身動きできないだろう。晃二は支柱に寄り掛かかり、さっき考えていたことをもう一度思い起こした。

「なぁ。ブースケは中学どうすんの?」

 いきなり場違いな質問をされたので、キョトンとした顔で目を瞬かせた。

「……なんで? 山元中学校に決まってんじゃん」

 そうだよなぁ。当たり前の答えが返ってきたことに少しホッとした。

「じゃあ将来何になりたい?」

 しばらく唸っていたブースケは、目を輝かせて「プロ野球の選手」と答えた。

「エラーばっかしてるくせに、よく言うよ」

「あれはグローブが悪いんだよ。けど、中学行ったら野球部に入るから大丈夫さ」

 晃二は笑いながらも、そのあどけなさが羨ましいと思った。

 あと二週間ほどで卒業と中学進学という分岐点がやってくる。

 みんなと違う中学に通うようになれば、新しい友達ができ、自然とその環境に順応していくのだろうが、今の仲間とずっと一緒にいたいとも思っていた。

「何でこんな時に急に夢とかの話すんのさ?」

「えっ、何か最近そう言うことをよく考えるんでさ。ほら、前にオレが漫画家になりたいって言ったじゃん。考えるとそれも、何でなりたいのかとか、よく解んねぇんだよなぁ」

「理由なんか関係ないよ。好きだったらそれでいいじゃん」

「んー、まあ、そうだけど…」

「うちのかーちゃんは『悩んでも無駄。人生楽しく生きなきゃだめだ』って、よく言うよ」

「…そうだなぁ。楽しく生きる、か」

 泣き虫のくせに楽天家の、ブースケの台詞に納得して呟いた。

 気がつくと、辺りが更に日暮れて、オレンジ色よりも青味を帯びていた。二月末の夕方はあっという間に夜にバトンタッチする。寒さは我慢できるが、暗くなったら行動力が劣るので、今のうちに打開策を見つけないとまずいのだ。

「暗くなる前に偵察してくるよ」

 そう言い残し、晃二は周りに気遣いながら、G7と書かれた柱の陰に移動した。

 扉の辺りでは、さっきまで現場検証していた消防隊が金網の外側に移動し、なんとかこっちが行動を開始しても大丈夫そうな雰囲気になってきている。

︱ この間に逃げ道を見つけださなければ ︱

 晃二は目を凝らし、改めて部屋の出入口付近をチェックした。

 左から右へ、そして右から左へと視線を動かす。すると、何かがさっきとは違っていた。きっと些細なことなのだろうが、妙に気になった。

 だがその原因が分からず、ちょっと前の様子を思い起こしていたとき。

 不意に風で壁際の色褪せたボロ布が揺れた。

︱ あんなところに布なんか掛かってたっけなぁ ︱

 よく見ると、それは入口横に積まれた段ボールに入っていた物だった。

 そう思い出したとき、再び風が吹き、めくれた瞬間に布を掴んでいる腕が見えた。

 誰かいる。一瞬しか見えなかったが、確かにそれは仲間の誰かの腕だった。

 また風が吹かないかと待ってみたが、逸る気持ちを押さえられなくなった晃二は、一体誰なのか知りたくなって、危険を承知で近づいていった。

 しかし、こんな近くに隠れていてよく見つからなかったものだ。そいつが隠れている段ボールの陰は、さっきまで消防隊が立っていた所から五メートルと離れていないのである。

︱ 背が高そうだから、シローか、秀夫か ︱

 これ以上近づけない所まで来ると、晃二はなんとか自分のことを気付かせようと思い、何か投げられる物を探した。しかし、目に付いたものは、近くに落ちていた小指の爪ほどの石だけだった。とりあえず、そいつを拾い、布めがけて投げてみた。

 カサッ。タイミング悪く、風でなびいた布の裾に弾かれてしまった。

︱ くそっ。この際しょうがない ︱

 ポケットから戦利品になるはずだった弾を取り出し、その布めがけて投げた。

 今度は上手い具合に布に当たり、ひと呼吸置いて端がめくれた。逆光になって見え難かったが、そこから覗いた顔は晃二を見ると、苦笑いのようにもとれる複雑な表情をした。

「うそ。なんでだよ」

 晃二はそう呟いたが、相手は最初からこっちに気付いていたようだった。

 驚くのも無理はない。そいつはまったく予想もしなかったやつ。

 ウィリーだったのだ。


 晃二とウィリーは五、六メートル程の距離を挟み、厳しい顔つきで見つめ合っていた。

 なんで、奴がいるんだ。いきなりの出来事で思考はうまく働かなかった。 

︱ でも、奴がいればここから脱出できるかもしれない ︱

 苦境の際は普段のことなんて構っていられない。それよりも、助けになる力強さがあればいいのだ。急に晃二は足元の方から力が沸き立つのを感じた。

 とにかく状況を伝えて、なんとかしよう。

 一生懸命、身振り手振りで状況を伝えようとするが、何をどう説明していいのか、上手くまとめることができない。その意味不明な動作に顔をしかめたウィリーは、両手を前に出し、興奮している晃二を押さえ留める格好をした。

 それから出入口のMPを一瞥すると、今度はステージを指さし、戻れというジェスチャーを繰り返した。言いたいことは理解できたが、晃二が戸惑っていると、声を出さずに口を動かした。目を凝らし、口元を凝視する。

「イマ、イクカラマッテロ」

 そう読み取れたので、晃二は頷いてから音を立てないよう気をつけて戻っていった。

 再びステージ下にもぐると、ブースケは驚いて頭を支柱にぶつけた。

「アイテテテ……どうだった、晃ちゃん?」

 頭を押さえながら心配そうに尋ねるブースケを見て、思わず笑いそうになる。

「ああ、消防隊がいなくなったからそろそろ行動開始だ」

「それよっか、もう一人仲間がいたぞ」

 同じ捕らわれの身なのだから、そう呼んでも構わないだろう。晃二はウィリーのことを初めて仲間と認めてそう言った。

「誰だと思う? 驚くなよ。……ウィリーだよ。ウィリーがいたんだよ」

「えーっ、まじで。どこに。なんで。一人で?」

 矢継ぎ早に質問してくるのは、彼の口癖である。

「それが良く解んないけど、窓際の段ボールのとこに隠れてたんだよ」

 そう答えながら、やはり理解に苦しんだ。何故、ウィリーがいるのか、と言うよりも、何故、ヤツがこんなドジを踏んだのか、よくよく考えると変な話である。こっちには無関心で、別行動していたのだ。逃げられなかったはずはない。

 晃二が考え込んでいると、音もなく黒い影がもぐり込んできた。

「ウィリー!」二人は同時に声をあげた。

 シーッ。人差し指を口の前に持っていき、ウィリーは二人の顔をまじまじと見つめた。

「残ったのはお前らだけか」

「多分……。オレもさっきブースケを見つけて合流したんだ」

「それよっか、なんであんなとこに隠れていたのさ」

 ……。答えを探している素振りをしたが、説明できないのか、それとも拒んだのか、「どうだっていいだろ」と、無関心さを装って言った。

「よくあんなとこで見つからなかったな」

「フッ。それより、出口んとこ鍵かけられたぞ」

 晃二はそれを聞いてガックリ肩を落とした。

「やっぱそうか、まずいなぁ。どっか逃げ道探さないと」

 せっかくこれから策を練ろうとしたのに、出鼻を挫かれてしまった。

「協力して、なんとかこっから逃げ出そうぜ」

 言ってから、いまさら協力なんて言葉を使うのは少し変に感じた。考えてみれば、彼の方から合流したのだ。その気がなければ、勝手に自分だけで行動しているだろう。イヤ、もしかしたら、わざわざ助けに来たのかもしれない。

︱ それなら辻褄が合うのだが、まさかなぁ ︱

 彼の横顔を見つめても解る訳ないのだが、真意が気になってついつい見てしまう。

 だが、今はそんなことを考えている場合じゃない。無理矢理知恵を絞って別の策を練ろうと考えた晃二は、突発的に閃いて目を輝かせた。

「ウィリー! ナイフ持ってねぇか?」

「あぁ。……けど、ナイフじゃ金網は無理だ」

 晃二の考えを読んだのか、顔色も変えずに否定する。喜びそうになったのもつかの間。よく考えれば、そうだ。

 またしばらく沈黙が続いた。もう辺りはかなり暗くなってきている。

「よし。だめもとだ」とりあえず晃二は動き出すことにした。

「金網が緩んだとこがあるから、ちょっと見てくるわ」

 そう言って腰を浮かせると、ブースケがズボンの裾を掴み「オレも行く」と言い出した。そのすがるような目は、どうやらウィリーと二人っきりになるのが不安みたいだった。しかし、足手まといになると思い、「すぐ戻るよ」となだめて、晃二は出て行った。

 出入口を見据えながら、忍び足で自動販売機の陰に移動する。MPに近づくよりも、遠ざかる分、気分的に楽だったが、慎重さを欠かしてはいけない。腰を屈めたまま、最初に隠れたブルトーザーの脇をすり抜け、部屋の奥を目指した。

 だが、目的の場所にたどり着いて愕然とした。

「クッソー」金網の前にステンレスのケースが置かれていたのだった。

 晃二は吐き捨てるように言うと、そのケースを動かそうとしてみた。しかし、大人4人でやっと動かせるかどうかの重さだ。ウンともスンとも言わない。

 何とかなんねぇかな。恨めしそうに下を覗いたり、横から見たりしてみる。

 やっぱり動かすのは無理だ、と諦めてステージ下に戻ろうとしたときである。取っ手が目に入ったので、試しに扉を開けてみた。すると、中からひからびた塊が転がり出た。と同時に、ドブをさらったような、鼻を突く臭いがプーンと漂う。

「オエーッ、なんだこりゃ」どぶネズミの死骸だった。

 すぐさま鼻を覆って扉を閉めたが、そのとき、バタンと思いの外大きな音がした。

 しまった、と思ったときには、時すでに遅し。ライトがこちらに向けられた。

 MPが小走りに近づいて来るのが見え、心臓が縮みあがった。

 咄嗟にすぐ横の流し台の下にもぐったが、そこもさっきと負けず劣らず、すさまじい臭いがした。だが、どうしようもない。鼻をつまんだままじっと息を潜めた。

 靴音が止まり、ライトの明かりが嘗めるように辺りを照らしていく。幸い、金網の向こうからは陰になっているが、中に入ってこられたら丸見えだった。

 ライトの黄色い光に照らされ、様々な物が浮かび上がっては消えていく。こうやって見ると、ここも1階と同じ、ガラクタの墓場のように見える。身体を強ばらせ、じっとライトの動きを追っていると、その忘れ去られた亡骸たちの中に、さっき見つけたアウトボールが転がっていた。

 その後、しばらく辺りをさまよった光は、スーっとひとだまのように横に流れると、靴音とともに遠ざかっていった。結局、鍵を開けて中に入ってくる様子もなく、MPはまた元の場所に戻った。

 その様子を見届け、ホッと胸を撫で下ろす。

 しばらく、鼓動がゆっくりになるのを待ってから立ち上がり、薄暗い中、アウトボールを拾うと素早く戻って行った。

「はぁー、やばかった。もうちょっとで見つかるとこだった」

「ヘッ。ドジったかと思ったぜ」

 ナイフの柄を弄びながら、ウィリーは鼻で笑った。

「やっぱだめだ。でっかい冷蔵庫みたいのが置かれてたよ」

 結果を当てにしていなかったのか、ウィリーは落胆することもなく、今度は自分が偵察して来ると言った。

「奥の金網が弛んで見えたんでな」ウィリーは軽い身のこなしで出て行った。

 奥の金網がどうなっていたか思い出していると、ブースケが呟いた。

「人は見かけによらないって本当だなぁ」

 どうやらウィリーのことを言っているらしい。

「晃ちゃんがいない間にちょっと話したけど、凶暴なイメージとは違ってたよ」

 以前から晃二は、噂ほど悪い奴じゃないのでは、と思っていた。ただ、人付き合いが下手なことと、その風貌から、みんなに敬遠され、誤解されているだけなのだろう。

 そう思うと、晃二は少し歯痒くなった。


 本を正せば、根も葉もない噂から誤解が生まれることが多い。

 いつ、どこで、誰が最初に言い出したのか判らないが、自然発生的に湧いた噂は、無責任に面白半分で伝わり、そのうち尾鰭が付いて話だけが一人歩きする。そのくせ、最後は時間が経つと共に忘れ去られ、それに取って換わったように次の噂が湧き上がる。

 初めは、晃二たちもクラスの女子がしゃべっている噂を「嘘だ」「本当だ」と、ちゃかして盛り上がっていた。そのほとんどが学校にまつわるオバケ話であった。

 日曜日の夜中十二時になると音楽室からピアノの音が聴こえるとか、宿直の先生が夜中に理科室で女のすすり泣く声を聞いたとか、次から次へと出てくる噂に信憑性なんて関係なく、盛り上がれればそれで良かったのだ。

 しかし、いつの間にか対象が人の噂に変わり、まず最初に槍玉にあがったのは、近所でよく彷徨いていたオトヨばあさんだった。

 オトヨばあさんは少し頭のおかしい人で、いつも顔には白粉をべったり塗りたくって、ボロボロの着物で歩き回っては子供たちをからかっていた。特に危害を与える人ではなかったので、子供たちも相手になり、からかいに乗っていたが、ある噂話を境にしてみんな冷たくあしらったり、虐めたりするようになったのである。

 その噂話とは、オトヨばあさんは戦争中に死んだ人の肉を食べたとか、梅毒だから近くによるとバカになるとお母さんに言われたとか、それこそ根も葉もない噂だった。あるとき晃二は、小さな子がオトヨばあさんに唾を吐きかけて逃げ去ったのを目撃して悲しい気持ちになった。

 そして、その次が近所の豆腐屋の店員だった。刑務所帰りは本当だったが、その後、夜な夜な包丁を持ってどこかに出かけるのを見たとか、国鉄根岸線の線路をフラフラ歩いていたとか、そこまではまだ許せた。しかし、朝鮮人だとか、父親が殺人犯だとか、そんな話を耳にするようになって晃二は馬鹿らしくなり、噂話から卒業したのだった。今でも時々、商店街や公園で耳に入ってくる井戸端会議の内容には、あからさまに嫌な顔をする。

 また、その頃から周りの子供たちの行動に見え隠れし始めたのが差別や偏見であった。

 噂話から発することが多かったが、他にも自分たちの気に入らないモノや、受け入れられないモノに対して、戸惑いを越えて拒絶したり、親の受け売りをそのまま信じて、知らないうちに差別していることが見られるようになった。

 低学年の頃は一緒に遊んでいたのに、親に「あの子と遊んじゃいけません」とか、「駄菓子屋は汚いから行っちゃいけません」と言われ、いつの間にか離れていった子もいた。また、バラックに住んでいる子をバイ菌呼ばわりして、仲間外れにする子もいた。


「ウィリーはみんなに相手にされないんじゃなくて、奴がみんなを相手にしないんだよ」

「何で相手にしないのさ」

 理由が解らず、ブースケはアウトボールを弄びながら訊く。

「きっと大人なんだよ。周りに惑わされずに、いつも一歩引いた目で見てるんだよ。それにさ、前に変な噂が色々あったじゃん。放火魔だとか、ヤクザの下で働いてるとかさ。ああいうくだらない噂を信じる奴らに、何言っても仕方ないと思ってんだよ。だから無視することにしたんじゃないかな。オレだってあれから適当なこと言うヤツは無視してきたもん」

「そういえば、万引きの常習犯だとか、母親がパンパンだったとか、ウィリーのいないとこでヒソヒソ言ってるヤツがいたな。アイツら本人のいる前じゃ言えないくせにさ」

 ブースケがコロッと態度を変えて憤っているのを見て、晃二は苦笑した。

「晃ちゃん……実はオレも、少しは噂を信じたことがあったんだよ。けど、さっき話してみて誤解だったってはっきりわかったよ」

「俺たちも知らず知らずのうちにウィリーのことを差別してたのかなぁ」

 結局はみんな、証拠もないのに噂や誤解を鵜呑みにしてきただけかもしれない。

 それからしばらく、二人とも黙って考え込んでいたところにウィリーが戻って来た。

「どう?」すかさず、ブースケが静寂を払うように明るく訊く。

「だめだ」答えを聞いて、また黙って静寂の中に戻っていった。

「フーッ。八方塞がりか……底冷えしてきやがったな」

 晃二がそう呟き、膝を抱えて溜息をついたときだった。 

「ウィリーって、噂とは違う感じだね」

 場の雰囲気を変えようとブースケは言ったのだろうが、晃二はヒヤッとした。

 案の定、ウィリーは一段低いトーンで聞き返した。

「噂ってどんなんだよ」

 そこでブースケも気付き、しどろもどろになってしまった。

「いやー、そのー……」

 晃二もフォローできず、あたふたして、「人は見かけによらないって話を、ちょっとしてたもんで…」と口を濁した。

「お前らさぁ、人権ってわかるか?」

 突然、苦虫を噛み潰したような顔で見つめられた。

「なんで? 藪から棒に…どうって言われても、よく分かんないけど、人間に与えられた権利のことだろ」

「それって、どんな権利だよ?」

「え、権利って…表現とか、思想の自由、それに…不当な扱いを受けないことかな」

 晃二は入試のテストに出た、基本的人権について思い出していた。

「そもそも、あたりまえのことなんだよ。普通に生きていくのに、守られるべきことなんだよ。なのに嘘ばっかだ。みんな偉そうなこと言うくせに、実際は色眼鏡で見て、差別してる奴らばっかじゃねぇか」

 ウィリーの顔つきが、段々鬼気とした表情になっていくのにも驚いたが、それよりも、こんなに喋る彼を見たのは初めてだったのでビックリした。

「そ、そうかなぁ、俺には詳しいことわかんないよ」

「おめぇらだって、逆の立場になれば嫌でも感じるよ」

 返す言葉がなかった。ただ、今までウィリーが、どれだけ嫌な目にあってきたか、ということだけは、その口調から感じ取れた。

「お前ら、人種差別のことなんか何にも知りもしねぇくせに」

 ……。何にも知らないって言われりゃ、そうかもしれない。昔、アメリカでは黒人は迫害されていたとか、戦争中にドイツ人が別の人種を大勢虐殺したとか、なら父親から聞いたことがあったが、現在の日本に住んでいる限りは縁のない言葉だと思っていた。

「駄菓子屋だって、プラモ屋だってそうだ。こっちは普通にしているのに、何か盗むんじゃネェかって、監視するような目で見やがって。むかつくんだよ」

 そう言われて、思い出した。晃二にも思い当たるふしがあった。


 ある日、駄菓子屋に行ったとき。店のおばちゃんから「ちょっと見張っててくれ」と頼まれて、黒人の二人組を監視したことがあったのだ。言われるまま従っただけで、特別な感情はなかった。ただ、意図はなんとなくわかったので、牽制するような視線を浴びせ続けたのであった。結局、何の問題もなくその場は済み、お礼にガムを貰ったのだが、そのとき、何か複雑な思いがしたのを憶えている。

 あのときの彼らは、ごく普通の少年に見えたが、大人の目は違うのだろう。疑うことや不信感を顕わにすることに、何の後ろめたさも感じていないに違いない。そういった大人の態度には、晃二もたまに不満を感じていたが、露骨さや酷さの点では、ウィリーとは比べ物にならないのだろう。


「理由もないくせに、見た目だけで判断しやがって。それならまだしも、適当なこと並べて、さも本当みたいな噂しやがって」

 彼自身が抱えている切実な問題が堰を切ったように押し流される。

「放火事件だってそうだ。ただ、怪しい奴を見かけたってだけで、なんで黒人って決めつけるんだよ。最初っから犯人扱いしやがってよぉ」

 二人は返す言葉もなく、黙り込む。

「噂ばっか広がって、しかも信じる馬鹿ばっかじゃねぇか」

「弁解すりゃいいじゃん。そうすりゃ、ちゃんと解る人も出てくるよ。なぁ、晃ちゃん」

「なんで、無実の俺が言い訳みたいなこと言わなくちゃいけねぇんだよ。近所のおやじや、ばばぁなんか、最低な奴らだぜ。いっつも見下したような目で俺のこと見やがって。白人相手だとヘイコラしてるくせによ」

 なんだか釈然としなかった。彼はそんな劣等感にずっと縛られて、独りで悩んできたのだろうか。「信じられるのは自分だけだ」みたいに感じられ、晃二は妙に気になった。きっと自分の居場所がどこにも見つからず、今まで周りを疎外してきたのかもしれない。

「まぁ、確かに……。でも、仕方ないけど、世の中そんな奴ばっかなんだろうな。朝鮮人や中国人にしたって、結構差別されてるもんな」

 黒人や東洋人に対しての虐めや、差別を目の当たりにしていた者は多かったが、その理由や背景について考える者は意外と少なかった。

 晃二たちの住む横浜では、山の手には欧米系が、市街地や下町には東洋系の外国人が結構住んでいた。物心ついた時からそんな中で育っていたので、不自然な感じはしなかったが、やはり、対抗意識や偏見などから差別に思える行為が多々あった。

「知ってるか? ベトナムでは先頭に立たされるのは黒人ばかりだったってことを。白人は黒人を楯のように扱ってたんだぞ」

 晃二にはちょっと信じられなかった。被害妄想だとすら思った。

「そんなことが本当にあったのかよ、だって─」

「お前らが知らないだけだ。昔のアメリカじゃ奴隷として扱われていたし、南部じゃ未だに差別がひどいんだぞ。黒人というだけで店にも入れてくれなかったりするんだからな」

 不審がった晃二の言葉をさえぎり、声をひそめながら不満を吐き出す。薄暗い中で目だけがギラギラしていた。

「アジアの奴らは自分の国の仲間がいれば、反対にやり返してくるだろ。でも、俺の場合、同じアメリカ人からも差別されているんだぞ」

 東洋系の外国人の場合、陰湿な苛めに耐えている人は多く見受けられたが、彼の言うように、仲間意識で結束して対抗してくる若者も多かった。やれ眼つけたとか、こっちの縄張りだとか、特に原因もないのに突っかかってくる者も多い。ただ単に民族の誇りを守るという大義名分を掲げ、いたるところでよく諍いごとが起こっていた。

 だが確かに、アメリカ人といえども黒人で、しかもハーフであるウィリーの場合はどうなるんだ。世間ではウィリーは日本人とアメリカ人、どちらに属するのだろう。

 日本? アメリカ? もしくはどちらにも属さないのか……。

 きっとそこには、拭っても拭いきれない世界があり、それは、生まれながらにして彼が背負ってきた運命なのだろう。晃二にはまったく想像できない世界である。

 気のせいかもしれないが、ウィリーが微かに震えているように見えた。

︱ 何か言わなくては。その場を繕う言葉ではなく、正直に思ったことを伝えなければ ︱

「確かに詳しいことは知んないよ。けどな、拘るべきことと、拘んなくてもいいこととがあるような気がすんな。俺はね」

「ふざけんな、おめぇらに何がわかる」

 ウィリーはそこで一旦躊躇したが話を続ける。

「好きでハーフになったわけじゃねぇ。血の半分はオヤジの責任だ。それなのに、そのオヤジは兄貴だけ連れてアメリカに帰ったんだぞ。俺は、オヤジの希望通り海軍学校に入る気で真面目に頑張っていたのによぉ。それなのに……」

 晃二は家庭の事情にまで踏み込むつもりはなく、黙るしかなかったが、急にブースケが口を開いた。

「離婚じゃしょうがないじゃん。うちなんか、とーちゃんは死んじゃっていないんだから」

 今度はウィリーがそれを聞いて黙ってしまった。

「おかあさんがいるんだからいいじゃん。二人で頑張っていけば」

「……お袋は、再婚するって、この前、若い黒人を連れて来やがって。俺のためにもその方がいい、なんて言い訳みてぇなこと言いやがるし。身勝手すぎるぜ……」

 晃二の脳裏に、ハロウィンの夜に偶然見てしまった光景が甦り、複雑な思いが渦を巻く。

 しかし、ウィリーは何に対して苛立っているのだろう。なんだかそれは、二人にでも、大人にでもなく、もしかしたら物事に納得できない自分自身に対して怒っているのかもしれない。

「ウィリーさ、結局、大人はみんな、自分の都合でしか言わないんだから、ほっとけよ。あるときは『子供なんだから』って言うくせに、別の時にゃ『もう子供じゃないんだから』なんて言うんだぜ。混乱すること言うなって、怒鳴りたくなるよ。まったく」

 自分の主張が済んだのか、納得するしない関係なく晃二の言葉を受け入れていた。

「だからさ、ウィリー。黒人だから、ハーフだからって、何かあるたび引っ張りだされても、シカトしちまえよ。……それにさ、英語じゃハーフって言わずにミックスって言うんだろ? ケニーさんが言ってたぜ」

 ハーフという言葉の響きは、一つのモノを半分にしたイメージが強いが、ミックスだと、幾つかのモノが合わさったプラスのイメージで受け取れるためそう呼ぶんだ、と聞いたことがあった。彼にももっとプラス思考に考えて欲しくて、あえて言ってみたのだ。

「ウィリーは間違ってないと思うよ。ただ、あからさまに態度に出し過ぎるんだと思うな。それに、黒人の血が混じっているからって、少なくとも俺たちはそんなことで差別しないぜ。実際、基地を襲ったのがウィリーだって噂を、俺たちゃ信じなかったぜ」

 以前、夏の基地襲撃犯がウィリーらしい、という噂を聞いた荒ケンが「アイツやないと思うな」と、言ったのを思い出した。晃二も信じなかったが、荒ケンが何故か訳もなく、そう断言したのが印象に残っていた。

 結局、正月に会った知り合いから、横須賀に引っ越したハイスクールの連中の仕業と聞き、事件は解明したのだった。

「じゃあ、なんでクラスのヤツらは目を合わせねぇんだよ」

 ウィリーの目を見たら、薄暗い中で小さく光っていた。しかしそれは、鋭くというよりも、悲しみを秘め、仄かに光っている、と言った方が近いように思えた。

「それがさっき言った、こだわらなくてもいいことをウィリーがこだわってるから、みんな距離を置いちゃうんだよ」

「なんだと……俺は何にもこだわっちゃねぇ」

「しーっ」声が大きくなってきたのをブースケに咎められ、二人とも口を閉ざした。

 辺りは、どこかで小さく鳴っている機械音と、微かに漏れる息の音だけになる。

 先ほどからモヤモヤしていたしていたモノの正体が分かった。去年の暮れにジミーたちと決闘した際に感じたモノと同じだ。争う意味に疑問を感じながら、和解しようとせず、闘争の方を取ってしまったあのとき。相手を理解しようとすら考えていなかったあのときと。

「ウィリーさ。そんなにつっぱんなくていいんだよ、きっと。ウィリーの方こそ、もっと俺たちに接して来いよ。意外にわだかまりなんてないもんだよ」

「そうだよ。オレなんか何でもかんでも相談するんで、みんなに鬱陶しいって言われるよ」

 フッ。ウィリーは鼻で笑ったが、さっきとは若干ニュアンスが違って聞こえた。

「お前らはそうかもしれないが、他の奴らはどうだかな」

 ウィリーのこだわりとは、差別に対抗することもそうだが、それよりも、人に依存せず自立するとか、自分の信念は守り通す、といったことなのかもしれない。

 自分のこだわりとは何だろう。守るべき信念なんてあるんだろうか。今までは、常に楽天的な考えをしていた、というと聞こえはよいが、単に複雑な考えが嫌いなだけだった。

 だが最近は、自分が知らないだけで、物事の裏側には計り知れないことが潜んでいる、と感じることがあった。多くは、テレビのニュースや新聞からだったが、身近な人の意外な面を見たときにも感じていた。きっと、ただ流れに身を任せていても駄目で、もっと身の回りの事柄に対して意見を持つなり、深く考えるなりしないといけないんだろう。

「世の中、そんな上手くいくわきゃねぇだろ」

 とがめるようでも、諦めたようでもない口調で、ウィリーは晃二を見つめた。

「そう簡単にはいかねぇかもしんないけど、試す価値はあるぜ。俺たちはいつでもOKさ」

︱ 卒業間近だけれど、最後くらい一緒の想い出が残るといいな ︱

 晃二はそう強く念じた。そうすれば、ウィリーの肩の荷が少しでも軽くなるんじゃないか、と信じているかのように。

「まっ、困ったことがあったら、いつでも相談に乗るぜ」

 晃二が口元を吊り上げてそう言うと、「ヘッ。何を偉そうに」と顔をしかめた。

 だがその顔付きは、ずっと囚われていた呪縛からようやく解き放たれたように、穏やかに見えた。

「そんなことより、早く何とかしねぇと。このまんまじゃ野垂れ死ぬぞ」

 目は暗闇に慣れていたから気づかなかったが、確実に夜が冷気を伴って忍び寄ってきていた。音もなくこっそりと、すぐそばまで。


 しばらく黙って別の策を練っていたが、これと言った案は浮かばず、時間だけが過ぎていく。

 フーッ。晃二は何に対するものなのか分からない溜息をついた。脱出の糸口さえ見つからず、このまま閉じこめられてしまうのかも。そんな不安がよぎったとき。

 ギュィーン。何処かから壁を伝わって、モーター音のような響きが辺りを包んだ。その継続する音は小さかったが、三人の動作音を掻き消すには充分だった。同時に、鬱血した状態から全身に血が通いだしたようなジーンとした温かみを感じる。

「とにかく、なんか行動を起こそうぜ」

 晃二がそう言ったところで、出口の方からシャーというノイズに混じって声が聞こえた。急いで顔を覗かせると、MPがトランシーバーで話をしながら走って行くのが見えた。

「やった。一人どっかに行ったから、あとMPは一人だけだ」

 顔を引っ込め、二人に報告した晃二は、そろそろ決着をつけなければと、このチャンスに再び力をみなぎらせた。すると、何故だか急に現実的になり、塾のことや、置いてある自転車のことが気になりだした。

「チャリ大丈夫かなぁ」自慢の自転車が無事か気になって呟いた。

 その頃、仲間内ではチョッパーハンドルに改造するのが流行っていて、晃二も先日、やっと貯めたおこづかいで格好良く改造したばかりだったのである。

 こんな状況ではどうしようもなかったが、せめて窓から見えれば安心するんだけど。

 そう思った瞬間。こんがらがった糸がスーッと解けるように閃いた。

「窓だ! ウィリー、窓だよ」

 いきなり叫びそうになった晃二を、二人は驚いて見た。

「窓から降りればいいんだよ。あそこの下は確か花壇になってたじゃん。大丈夫だよ。ロープみたいの垂らすか、そんじゃなきゃ飛び降りたって多分平気だよ」

 まくし立ててそこまでしゃべると、一呼吸おいた。

 確か窓の下は丘の上の民家に続くなだらかな坂の途中だったので、高さは三メートル程しかないはずである。

「えーでも……ほんとに大丈夫? 怪我しない?」

「イヤだったら、お前だけ置いてくぞ」

 晃二はこれが最後の手段だと思ったので、覚悟を決めろと言わんばかりに迫った。

「……わかったよ、言うこと聞くよ」

 ブースケを従わせると、さっそく計画を練った。

「まず、こっから出て、どっか窓の近くに移るぞ。それから、脱出路の下見だ」

「もし飛び降りられそうもなかったら、ウィリーが隠れてた布をロープ代わりにしよう」

 晃二はその場を仕切って話を続ける。

「そんで、MPの気を逸らせて、そのあいだに逃げるぞ」

「ヤツらを遠ざけるのに、なんかいい手ないかなぁ」

「そんなら、遠くに何か投げて音させれば、MPはそっちの方に行っちゃうよ。この前ドラマで刑事がやってんの見たんだ」

 ブースケはそう言って、ちょっとはにかんだ。

「おぉ、ナイスアイディア。じゃその手で、なんか投げてMPが離れたら、速攻で降りるぞ」

 二人は黙って頷き、さっそく行動に移す。

 まず、次の隠れ場所に選んだのが、窓際に置かれた大きな印刷機の陰だった。戦時中、この建物には軍の印刷所もあったとウメッチが言ってたので、きっとその名残なのだろう。

 目標が決まると、物陰に隠れながら一緒に移動していった。

 完全に日が暮れ、外から差し込む青白い光だけが頼りだった。もしそこで蹴躓いて物音でも立てたら一巻の終わりである。三人は息を止めて用心しながら進んだ。その、スローモーションで移動する姿は、まるで海底散歩でもしているかのようだった。

「よーし、ここまでは完璧」

 印刷機の後ろに隠れ、三人は一息つく。

「緊張してシャツもパンツも汗でビショビショだよ」

 行動を起こす度にブースケは文句を言うが、いちいち取り合ってはいられない。

「さて、次は脱出する窓を見つけないと」

 窓を端から眺めていくと、ガラスの破片が残っていないのは二つしかなかった。

「オレはあっち見るから、ウィリーはそっちを調べてくれ」

 二手に分かれて、窓の下の壁に沿いながら、ゆっくり次の目標に近づいて行く。窓の下は真っ暗だったので、ライトで照らされない限りは見つからないだろうと分かっていたが、MPとの間に遮る物がなかったので緊張する。

 目標の窓にたどり着き、そっと顔を出してみる。やはり、それほど高くもない。しかも願ってもないことに真下は何もなく、地面が柔らかそうだった。

 そのまま周りの状況を一つ一つ確認していた晃二が顔を上げると、青いヴェールが掛かった景色の所々に民家の明かりが灯り、幻想的な風景画のように見えた。

 一瞬見知らぬ街並みに思えた風景だったが、どこからかカレーの匂いが漂って来ると、いきなり現実に戻り、思い出したように空腹感が襲ってきた。余裕が出てきた晃二は、腹をさすりながら、一旦印刷機に戻った。

「どうだったウィリー。下、花壇だったろ」

「でも、植木が邪魔だな」

「よし、じゃあ、オレの方は何もなかったから、こっちに決定しよう。それと、ブースケ用に布を結わいておこう」

 ブースケは黙って首を大きく縦に振る。

「あとは囮に投げる物だな」

 晃二が周りに目をやって探していると、ウィリーが黙って手を差し出した。

「何だよ」意味が解らなかったが、目を凝らすと、手のひらに何かのっていた。

「あっ、さっきの」晃二が投げた薬莢付きの弾だった。

「ほらよ。お前らこんなもん拾ってたのかよ、ガキだな」

「フフッ。ガキで悪かったな」

 晃二は手を伸ばさず、含み笑いした。

「まぁ、何かの記念だ。いいから取っとけよ」

 たった一つの戦利品だったが、惜しいとは思わなかった。

「いらねぇよ」またいつものつっけんどんな返事に戻っている。

「だからさっき言ったろ。これからは変なこだわりは捨てろって」

「うるせぇな。そんなに言うんなら貰ってやるよ」

 天の邪鬼らしい喋り方に、晃二が「素直じゃねぇな」と言って笑うと、窓から差し込む薄明かりの中、彼の顔の輪郭が緩んで見えた。

「俺たちはこれがあるから」

 晃二はシャツの首から手を入れ、おもむろにボールを取り出した。

「なんだ晃ちゃんも拾ってたんだ」

 ブースケも取り出し、二人は自慢するように掲げた。

 そのとき、街灯で青白く浮かび上がったボールに、見覚えのあるマークを見つけた。

「あっ、これ!」

 よく見ると、確かにA・Kのイニシャルが書かれている。やはり、誕生日に貰った思い出のボールだった。

「こんな時に見っかるなんて、何かの因縁だね」

 ブースケはボールを覗き込みながら呟いた。

 偶然とはいえ、やっと巡り会えたマイボールを強く握りしめ、晃二は二人に言った。

「よし。脱出してやろうじゃねぇか」

 何かしら見えない力に支えられているような気になり、沸々と勇気がわいてきた。


 結局、投げる物は床をさらって見つけた、大小二つのボルトに決めた。方向は金網と天井の間、二メートルくらいの隙間をめがけ、距離は1階スロープの辺りに届かせるくらいだろう。うまくその隙間を抜けて、遠くまで届かせないと意味はなかった。だが、もし、失敗して金網にぶつかって下に落ちたりでもしたら、中を調べられてしまう畏れがある。責任は重大だった。

︱ これが最後のチャンスだ ︱

 晃二は決心を固めると共に運命を天に委ねた。

 ブースケ、ウィリー、晃二の順に脱出することになり、それぞれ配置につく。

 ウィリーは窓枠に布を結わき、しゃがんで待つ。ブースケは合図があるまで印刷機の裏で待機。そして晃二は、狙いやすい所まで這って行くと、近くの柱に身を隠した。

 金網の内側から広間の方を見ると、檻に閉じこめられているような感じが改めてする。この出来事がもう何日も続いているかのようにも思えた。

 一方、慣れ親しんでいたこの空間で過ごす日々もあと数日なのだろうとも思っていた。卒業しても同じように遊びたいと願っていたが、おそらく違う日々に変わっていくような気がしていた。そう思うとこの場所で遊んだきた数々の場面が頭をかすめる。いずれにせよ、ここまで大事になってしまったのだから、今後は閉鎖されたり警備が強化されることは間違いないだろう。

 残念だが仕方ない。きっと次に向けたアクションをするときがきたのかもしれない。

 今の苦境から脱出するためだが、同時にこの砦での日々に別れを告げることにも繋がる一投を今から放つのだ。晃二は握ったボトルをじっと見つめてから立ち上がった。

 とにかく今は目の前の目的を果たすだけである。位置に付き、軽く肩慣らししてから頭上でサインを出した。

 すると逆光になった二人の影から、同じようにOKサインが返ってきた。

 晃二は上方を向いて深呼吸を二回し、汗でベトベトになった手のひらをシャツの裾で何度か拭った。

─ よしっ、準備は整った。あとは運を天に任せるだけだ ─

 晃二は指先のボルトの握り方を確かめてから慎重に振り被り、弓を射るときのように、溜めていた力を一気に放った。

 祈りと共に手元を離れたボルトはすぐ闇に消えたが、感触としては少し低いように思えた。

「やべっ、ミスったか」柱に隠れて頭を抱える。

 どうか金網にぶつかりませんように。そう念じながら耳を澄ます。

 ……カサッ。ボルトは金網の目を上手く抜けたらしく、遠くで微かに音がした。

 ほっとして柱の陰から覗き見る。

 だが、音が小さすぎて気付かなかったのだろう、MPは動き出す素振りも見せない。

 失敗か……。晃二は小さく呟き、二人に向けて頭の上に両手でバツを作った。

 やはり緊張で身体が硬くなっていたようだ。手首と肩を解すように動かし、一呼吸置いてから気合いを入れ直す。

 指先の感触を確かめ、もう一度深呼吸してからゆっくりと振り被った。

 同点で迎えた9回裏、ツーアウト2塁。その場面で打たれたセンター前ヒット。そのバックホームをイメージする。正確な球で刺さなければ負けてしまうのだと。

 再び腕をしならせ、ボルトが指を離れる瞬間、「頼む」と祈りを込めた。

 すると、今度も描く軌跡は見えなかったが、飛んだ角度はバッチリな手応えだった。

 ……。息をのんで待っている時間がものすごく長く感じられる。

 カン‥‥カン。無音で凍りついた闇の彼方から、今度は高い音がはっきりと聴こえた。

 小さくガッツポーズし、柱の陰から出口を覗く。案の定、MPは音に反応してライトを奥に向けた。

 よしっ、成功か。固唾を飲んで見守るが、MPは奥を照らしただけで一向に動かない。

 何やってんだよ。ライトの先とMPを交互に見やる。

 早く偵察しに行けよ。じれったさで、自分でも気付かずに貧乏揺すりしていた。

 作戦変更か。そう落胆しかけたところで、MPがおもむろにスロープの方に歩き出した。

 よし! いいぞ。やっと思惑通りになり、ひと安心した晃二がブースケの方を見ると、丸っこい影が上下に揺れていた。

 この後は、脱出する窓の下に集結だ。ライトの明かりが遠ざかっていくのを確認しながら、晃二は物陰を移動した。

 MPが不審物を確認している間に脱出するには急がなければならない。すぐに集まって窓から飛び降りる段取りだった。

 そのときである。印刷機の辺りで物が落ちるような音がした。

 それを聴いて、晃二の身体は硬直し、汗が引っ込むような寒気を感じた。

 すかさず近くのソファーらしき物陰に隠れる。どうやらブースケがこけたらしい。

 金網の向かうから、タッタッと小走りの足音が近づいてくる。

─ やべっ、見つかっちまう ─

 咄嗟に助けに向かおうとしたが、もう遅かった。

 ジャラジャラ。鎖の音が、無情にも建物内に響き渡る。 

「不審な音がしたんで来てくれ」

 扉の開く耳障りな金属音に被さって、トランシーバーに呼びかける声が聞こえた。

 直後、「誰かいるんなら、出てこい」と野太い声が反響し、エコーが闇の彼方に吸い込まれていった。

 息を飲むなか、ライトの黄色い軌跡がせわしなく辺りに飛び交う。

 ブースケはちゃんと隠れただろうか。彼が捕まったら、すべてが明らかになってしまうに違いない。晃二は自分の身の危険よりも、ブースケが見つかることの方が心配でならなかった。不安はつのるが、動きがとれないので、どうしようもない。

 シャーッ。「ただ今そちらに向かいます」

 ノイズ混じりのトランシーバーの返答を聞いて、焦りは増す一方だ。 

 MPに踏み込まれたら、今度こそ本当に一巻の終わりだろう。いざとなったら不意をついて走り出し、出入りの窓から飛び降りるしかないのかもしれない。追いつかれずに運良く逃げきれればの話だが。

 晃二は片膝をついて身構えた。微かな足音と気配は、どうやら自分の方に近づいてくるようだ。あえてブルトーザーの裏から回り込んだらしい。

 ソファーのレザーの表面をサッと光が通り過ぎる。地面に顔をつけ、ソファーの足の間から覗くと、二本の足の影が3メートルくらいのところまで近づいていた。

 ぎりぎりまで我慢しよう。息を完全に止め、狭い視界に集中した。

 ソファーの真裏で足が止まる。目の前には大きな革靴がこちらを向いていた。

 心臓の音でばれないだろうか? そんな心配をしながら見上げると、ライトの光線は少し離れたところを照らしているようだった。

 このまま回り込んできませんように。そう祈りながら、汗ばんだ掌をぎゅっと握った。あまりの緊張で目眩がし、呼吸が乱れそうになる。

 刻々と流れる時間がやけに長く感じられる。

 もし、この革靴がもう一歩こっちに近づいたら飛び出そう。そう決心した直後だった。

 カタッ。硬質な音を伴って、革靴は後ろを向き、離れていった。

 フーーッ。堅く握った両手の力を少しずつ弱め、口で息をした。気がつくと、シャツは汗でびしょびしょで、手のひらは小さく震えていた。

 一旦は安堵するものの、まだ危険が去った訳じゃない。すかさずソファーの横から覗いてみると、MPは印刷機の方へ向かっていた。

 やべっ、今度こそ見つかっちまう。晃二は、いても立ってもいられず、身を乗り出した。何とかしてMPの注意を他に向けなくては。そう思っても、焦るばかりで頭が働かない。

 晃二が手をこまねいているうちに、MPはもう印刷機のすぐそばまで近づいていた。プレッシャーに弱いブースケが、この緊張感に耐えられるだろうか疑問だった。

 ライトの光が、鈍色の印刷機の側面を舐めるように移動している。裏側に回り込まれたらお終いである。どうすべきなのか。

 闇雲に走り出す手もあるにはあるが、相手は拳銃を持っているのだ。こっちが子供だと知るはずないから銃口を向けることもあり得る。無理はしない方が身のためだろう。

 ブースケの鼓動が呼応しているかのように、自分の心臓もバクバクしてくる。

 そんなとき、「ツトムをよろしくね」と言ったときの、ブースケの母親の顔が浮かんだ。

「やっぱ俺が助けなきゃ」晃二は覚悟を決めた。

 囮になろう。そう頭では決断がしたが、身体が言うことを聞かなかった。ここ一番でビビってしまい、竦んでいる内にMPの影が印刷機のシルエットに重なった。

 もう駄目かぁ。そう諦めたときだった。

 ガチャ。部屋の中央でいきなり緊張した空気を打ち破る大きな音が聴こえた。

「だ、誰だっ」振り向いたMPは驚いて、後ずさった。

「隠れているんなら今すぐ出てこい」そう叫んで奥ににじり寄って行った。

 そこには誰もいないはずなので、もしかしたらウィリーが何か投げたのかもしれない。新たな展開で、すぐにでも行動を起こしたかったが、MPとの距離はまだ近かった。だが、離れたとしてもすぐに応援が駆けつけるだろうから、窮地には違いなかった。

 でき得ることは囮になって出口窓まで走ることだ。そうすれば自分の方にMPは引き付けられて二人は上手く逃げられるかもしれない。そう考えたとき、黒い影が飛び出してゲートの扉を大きく揺らした。

「おらっ、こっちだ」

 黒い影はウィリーだった。ヤツはそう叫んで、出口窓に向かって走っていった。

「止まれ! 止まるんだ」

 一瞬後れを取ったが、MPは腰に手をやり、追いかけていった。

─ バカ、何やってんだ ─

 急な展開に動転した。

 ちょうど駆けつけたMPも、叫びながら後を追っていく。

 ちらちらとウィリーの後ろ姿がライトに浮かび上がる。いきなり慌ただしい喧噪で辺りは埋め尽くされた。制止の声を振り切って逃げる、ウィリーの後ろ姿を見て思った。

─ ヤツが囮になってくれたんだ ─

「よし、ブースケ今だ、急げ」

 晃二が叫ぶと、印刷機の陰から屈みながら、ヨタヨタとブースケが駆け寄って来た。

「ウィリーが囮になってくれたから、今のうちに飛び降りるぞ」

 有無を言わせず、晃二はブースケの手を掴み、窓の下まで引っ張っていく。外からの光でうっすら浮かび上がった表情は、青白く怯えきっていた。

「やっぱ無理だよ」

「バカやろぅ! ウィリーの努力を無駄にする気か」

 そう怒鳴り、多少手荒だがブースケを持ち上げ、窓枠に乗せた。

「恐いよぉ、ちゃんと押さえててね」

 ブースケは今にも泣きそうな顔で布を掴み、鈍い動作で足から這い出る。

 が、そこで窓枠に掴まったままブースケは動けなくなった。

「やだよぉ。落ちちゃうよ」

「早くしねぇと捕まっちまうぞ」

 縋るような目でこっちを凝視するブースケを一喝する。

 観念してロープを伝わり降りていったが、半分あたりで重い体重がたたったのか、滑るように落ちた。

 一瞬息を呑む。だがその直後、「あせったぁ」と、素っ頓狂な声が聞こえたので安心した。

 見下ろしたら、尻餅をついたまま目を丸くしているだけで、別に怪我はなさそうだ。

「まったく、相変わらず世話の焼けるヤツ」

 晃二はこぼすように呟き、鉄棒でもするかのように窓枠を掴んだ。

 それから壁に足をかけ、避難訓練の脱出スロープでもあるかのごとく、下半身を外に出す。そして、そのままスルっと反転し、間髪入れずに外側にぶら下がった。

 やっと脱出できる喜びの方が強いからか、三メートルの高さに全く怖さは感じない。

 飛び降りる前にもう一度、中を覗くと、眠るように横たわっている、忘れ去られたガラクタの上を、ひとだまの様なライトの光がさまよっているのが見えた。

「あばよ」最後にひと言吐き捨て、晃二は手を離した。    


 花壇に降り立つと、壁にもたれかかったまま空を見上げ、澄んだ空気を大きく吸い込んだ。まだ火照ったままの身体を撫でていく風の冷たさが気持ちよかった。

「なんとかなったなぁ」その呟きも風がどこかに運んでいった。

 隣ではブースケがまだ呆気に取られていた。何が起こったのか思い出しているのだろう。

「ここは危険だから、あっちに隠れよう」

 手についた鉄錆の臭いを嗅ぎながら、ブースケをせっついた。脱出してもまだ安心は出来ないのだ。二人は身体を屈めながら壁沿いを移動して行った。

「ねぇ、ウィリーはどうなっちゃったの?」

 ブースケに聞かれても黙っていた。自分もそればかり気になっていたが、分からないのだから仕方ない。

 上手く逃げられていればいいのだが、と祈るだけである。

 逃げるとしたら入った際の窓からしかないはずなので、二人は三河屋裏の倉庫に向かった。

 境の金網まで来ると、2階からサーチライトのように、懐中電灯の光が草むらの上を行き交っていた。二人は壁に張り付いたままじっとしていた。

「まだ騒がしいな。このまんま少し様子を見よう」

 ウィリーの安否を確認するまでは、その場を離れるつもりはなかった。

 五分ほど経った頃だろうか、「ウィリー……なんで突然逃げ出したりしたんだろぅ」と、ずっと黙っていたブースケがポツリと呟いた。

「だから言っただろ。囮になったんだよ。俺たちを助けるためにな」

 晃二はいたたまれない想いで拳を強く握った。

─ アイツは無関係だ。なのに……。なんで俺はビビっちまったんだ ─

 壁にもたれたまま、星空を見上げて溜息をついた。

 もし捕まっても、彼のことだから自分たちのことは口にしないだろう。でも今は、そんなことよりも、本心からウィリーの無事を祈っていた。

 同じ釜の飯を食った仲。映画だったかドラマだったかで、そんなセリフを聞いたことがあった。それはきっと、同じ緊迫した状況を経験した者同士にしかわからない結びつきのことを言うんだろうなと、ふと思った。

 しばらくして、黙り込んでいた二人の近くで草が揺れ、人の気配がした。

 ウィリーか? 緊張して一瞬身構えたが、そこに現れたのは荒ケン、ウメッチ、モレの三人だった。

「おぉ、お前ら、無事だったか」

 泥だらけの顔で荒ケンは表情を崩した。

「あぁ、俺たちは民家の方の窓から飛び降りて逃げたけど、ウィリーがまだわかんねぇんだ」

 三人は顔を見合わせ、躊躇うように口を開いた。

「…ヤツは捕まったよ」

「俺たち、見たんだ。窓のとこで羽交い締めにされてるのをさ」

 話を聞くと、脱出してからみんな窓の下でずっと様子を窺っていたのだと言う。突然のことで慌てて逃げ出したが、二人がいないことに気付き、隙を見て助けに戻るつもりだったらしい。

「けどな、いつまでもMPがおるんで、どうしようもなかったんや。悪かったな」

 申し訳なさそうに言う荒ケンの右腕には、ミミズ腫れの痕が痛々しく残っていた。

「ほんと、アッという間の出来事だったんだよ。見張りの秀夫が伝えに来たときには、もうMPが走ってくるのが見えたんで速攻で逃げたんだけど、奥の奴らには伝える時間がなかったんだよ」

「逃げろって叫んだんだけど…ごめんな」

 みな申し訳なさそうに言うが、仮に伝えに来ていたら一緒に捕まっていた可能性が高いと思う。もう済んだことであり、結果オーライだったので、今となってはあまり問題でなかった。ただひとつ、ウィリーのことだけは除いて。

「他の奴らも心配して、さっきまで一緒にいたんだぜ。……それにしても、なんでウィリーが捕まったんだ? ヤツらしくもねぇ」

「それなんだけどさ、俺が想像するに、もしかしたら助けに来たんじゃないかと思うんだ」

「アイツがかぁ? まさか」

 ウメッチは驚いて疑ったが、荒ケンは黙って口を真一文字にした。

「ウィリーはなんも言わないけれど、そんな感じがしたよ。最後だって囮になってくれたんだ」

「囮って、犠牲になったのかよ」

 モレは口を開けたままみんなの顔を見回した。

「あぁ、俺たちが隠れていたところにわざわざやって来て、一緒に逃げ出すはずだったんだ」

「そっか」荒ケンは弱々しく言って、爪を噛んだ。

「ずっと隠れていて、最後の手段で窓から飛び降りるはずが、ちょっとヘマしてね」

「ごめん、オレがドジったからなんだ。それに元はと言えば、明かりにすんのに火をつけたからいけなかったんだ」ブースケはうつむいて小さい声で謝った。

「逃げ出す間際にMPに気づかれて、もう絶体絶命かというところでさ、ウィリーは走り出して囮になってくれたんだ」

 晃二は上を向いて続けた「元は俺たちのせいで、ウィリーは関係ないのにね」

 みんな唇を噛んで黙ったまま何かを考えていた。

「オレ、初めてウィリーとちゃんと話したけど…いいヤツだよ。今まで怖いとかシカトばかりする嫌なヤツと思っていたけど、見かけで判断しちゃだめだね。話とかしてみないとさ」

 ポツポツと話すブースケの言葉を晃二は引き継いだ。 

「あの風貌からみんなに敬遠されて誤解されているけれど、ただ単に人付き合いが下手なだけで、本当は寂しがり屋なんだと思うよ」

「でも、ウィリーは……どうなっちゃうんだろぅ」

 ブースケは泣きそうな顔で晃二を見た。

 おそらく年齢的に牢屋に入れられることはないだろう。だが事情聴取されて悪意がないことが判ったにしても何らかの罰が下されるに違いない。

「こればっかは仕方ないよ。便所掃除一ヶ月ってとこじゃねぇか」

 巷での話ではウメッチの言うことに近いのだろうが、その程度で済めば御の字である。せめて罪が少しでも軽くなることを祈るしかできない自分が歯痒かった。

 だからと言って、共犯だと名乗り出ても、彼の行為を無にするだけだろう。

「今度会ったら、お礼言わなきゃね」

「けど、ブースケよ。お礼言ったところで、『別に助けるつもりなんか無かったぜ』とか何とか言われるのがオチだよ。それよっか、俺たちのこと喋んねぇかな?」

 モレが心配そうに言うと、「喋んねぇよ」と荒ケンは言い切って目を閉じた。

「…でも、この事件で砦は封鎖されちゃうだろうな」

 荒ケンの心配事は、全員が同じく気がかりになっていたことである。

「それと、窓から逃げるときに、俺たちの後ろ姿は見られたから、多分明日にでも学校に連絡はいくと思うぜ…」

 そのウメッチの心配事は、学校からさらに家庭にまで伝わることも意味していて、どちらかと言うと、親父に知られて怒られることの方を案じているようだった。

「それにしても、厄介な事件だったな。自分たちの不注意というか、甘さが招いた結果かな?」

 晃二はいろいろと思い返しながらぼやいた。

「もういいよ。とにかく、無事に脱出できたんだから」

 そうなのだが……。何だか複雑だった。自分の不甲斐なさが、今になって頭をもたげる。

 確かに、一時は諦めかけたあの状況から逃げ切ることができたことは奇跡に近いと思う。だが、おそらくウィリーがいなければ無理だったであろう。

「ヘマしなければ、卒業までの残りの二週間、思い残す事なくここで遊べたのになぁ」

 ウメッチの呟きは晃二の想いと同じだった。別の道を歩む二人にとって、その残された日々は大切に思えた。春になって進学するまでのカウントダウンが早まり、急に間近に迫ってきたように感じた。

 晃二は今日の脱出劇を思い返しながらも、二度と砦で遊ぶことができないという意味に考えを巡らせていた。それは、この場所からの卒業であり、このチームの解散を仄めかすことのようにも思えた。

「いつまでも考えていたってしかたないよ。話の続きは明日にしよう」

 そう言ってブースケは、黙ってうつむいている晃二の肘を揺さぶった。

「そやな。見つかったらやばいから、とっとと帰ろうぜ」

 荒ケンに肩を叩かれ、晃二はトボトボと歩き出した。

 もうライトの光は見えない。安堵したのか、疲れ果てたのか、みんな言葉が少なく足取りも重かった。


 公園の出口で五人は立ち止まり、振り返って老いて古びた建物を見上げた。

 街灯に照らし出されたその全貌を改めて眺めると、壁のヒビや窓を覆うツタ、錆びたシャッターなどがやけに目についた。今更ながらこの歴史ある廃墟が愛おしく感じられる。

 アウトボールの奪還計画から始まって、恐怖の1階探検、窓から眺めた盆踊り、週末の昼キャンプなど。去年の春、忍び込むことに成功してから自分たちだけの砦として君臨してきた、この建物での様々な出来事が思い起こされた。夢中になっていたときはあまり振り返ることはなかったが、急に堰を切ったようによみがえってくる。 

「そう言えばさ」と言って、晃二はポケットに入れっぱなしだったボールを取り出し、A・Kと書かれたイニシャルをみんなに見せた。

「今日の唯一の戦利品だよ。探していたアウトボールにやっと巡り会えたんだ」

「おぉ、すげぇタイミング。偶然と言うか、奇跡的だな」

 ウメッチは大袈裟に言うが、考えればその通りである。実に、思いがけないことであり、これを見つけることができただけで満足だった。

「それにしても、この事件の最中に見つかるなんて、なんか意味があるのかもよ」

 そう言われるとそうかもと思える。父親が「偶然ってのは、本当はなるべくしてなっているんだ」と言っていたのを思い出した。

 多分、その意味は後になって分かるのかもしれないが、なんだか少し嬉しくなった。

 晃二は、いつかその意味が判明する日を楽しみにしながらポケットにボールを入れた。

 そして、いつもの別れ際の台詞、「じゃあ、また明日」を言って手を挙げた。

 四人もそれに答えて手を挙げ、振り返って各々の家路に向かって歩き出した。

 そこで急に現実に戻った晃二は駆け出し、心配顔で柵から身を乗り出した。

 すると、薄暗い街灯の下、自転車はちゃんと主を待っていてくれた。

 サドルに跨っても、少しの間そのままの体勢でじっと考えていた。

─ 長かったような、短かったような。なんか、いろんなことあったなぁ ─

 そんな緊急事態での場面を思い返すと、友の表情や言葉が頭の中を駆けめぐる。

 それぞれの想い。それぞれのこだわり。そして自分自身。

 フーッ。長い溜息をしてからやっとペダルを漕ぎ出し、少しずつ日常に戻っていった。

「あーあ、遅刻か。今さら塾行ったってしょうがねえしな」

 段々といつもの風景に馴染んでくるに従い、現実を嘆いた。

「よし! まっいいか。今日ぐらい」

 誰に言うともなくそう声にして、ペダルに重心を乗せた。

 ハンドルを手繰り寄せ、下半身に力を入れる。

 そのまま現実を振り払うかのようにスピードを上げた。とりあえず、どこへ行こうとか、何をしようとか考えずに。

 研ぎ澄まされた風が頬や耳にあたり痛かった。

 だが、頭の中を空っぽにし、ひたすら漕いでいると、だんだん感覚は遠退いていった。

 ちょうどそのとき、後ろからサイレンの消えた消防車が近づいてきて、横を抜き去る際、小さく渦を巻いた空気の塊に邪魔されて一瞬バランスを崩しそうになる。

 すると急に晃二はむきになり、歯を食いしばって消防車を全力で追いかけて行った。

 まるで何かに食らいつこうとするかのように。

 理由などなかった。前傾姿勢で息を荒げて、必死に追いかけた。

 正面からの風を全身で受け、ただ無心でペダルを漕ぎ続けていると、額の汗が伝わり落ちてきて、何だか気持ちよかった。

 やがて消防車は見えなくなり、そこでやっと全身の力を抜くと、晃二は自分の体内に昨日とは違う何かが渦巻いているのを感じた。



                        アウトボールを追いかけて 完

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アウトボールを追いかけて カサハラ ショージ @pfsho2

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