第3話 ハロウインを待ちわびて 1974年 秋
「すっげぇ。なんか、映画に出てくるとこみたいじゃねぇ?」
モレは晃二の耳元でそう囁き、WELCOMEと書かれた横断幕を、口を半開きにしたまま見上げた。両側に貼り付けてあった日本とアメリカの国旗がクーラーの風でケラケラと笑うように揺れている。
二階ほどもある高い天井に、車が楽に通れそうな幅広い廊下。壁に一列に飾られた肖像写真。ガラスケースの中でこれ見よがしと整列しているトロフィーやメダル。洋画で観る世界に近いのは確かだが、当たり前である。特にセットで造られている訳でないし、これがごく普通のごく一般的な米国スタイルの学校なのだろう。ポップコーンのような甘い匂いが充満する中、同じような驚嘆の声があちらこちらから聞こえる。
「こういうのを雲泥の差って言うのかぁ」
アメリカンスクールであるバードスクール内の様子は、習ったばかりの慣用句が当てはまるくらい自分たちの校舎とかけ離れていた。
下駄箱ではなく個人用のロッカー。水飲み場ではなくタンク式のウオーターサーバー。それらは全て新しく清潔そうで、近未来の建物に案内されたような感じである。
「でもさぁ、違いがあるにも程があるよねぇ」ブースケは誰にともなく呟いた。
夏休みに暑さしのぎで入った銀行で見かけた足踏み式の水飲み機に感動していたくらいだ。ばかでかいクーラーや見たこともない設備に驚くのも無理はない。
列の流れに押されるように歩きながら生徒たちの視線はあちこちを彷徨っていた。
最後の夏休みが終わり、学校生活が再開した九月の第二土曜日。
晃二たちの通っている小学校では毎年、六年生の二学期初めに近くのアメリカンスクールとの交流会が催されるのであった。アメリカは日本と違い九月に進級するため、その取っ掛かりとして生徒たちの新しい友人作りと、文化交流を兼ねているのだろう。それに対し日本側は、卒業前の想い出づくりと社会見学を兼ねた、この地域ならではの課外授業であった。
ここ数日、空の青味が若干増したようだったが、いまだに残暑は衰えを知らなかった。しつこい残暑と言うより子供たちにとっては、まだ夏休みの延長戦と言う方が相応しい。この日も総勢百三十名は遠足にでも行くように浮き足立ち、整列したはずの二列縦隊がジグザグになったり、途切れたりを繰り返していた。少しでも汗をかく量を減らしたいのだろうか、先生たちは動き回ることはせずに声を張り上げて列の乱れを注意していた。
スクールは晃二の家のすぐ裏の丘に建っているため、列の流れは通学路をただ戻っているだけである。ましてや目的地が常日頃遊んでいるハウス内なのだ。他の連中とは違った余裕綽々な態度で晃二たちはけん玉の技を競いながら最後尾から距離をとってついて行っていた。
やがて正々堂々とベースのゲートを越え、スクールの門をくぐるといつもとは違う様子に段々と気持ちが昂ってきた。時々目を盗んで校庭に忍び込んでいた、夕暮れ時の誰もいない風景とは違い、歓声が窓から溢れ、日差しの照り返しでクリーム色の校舎全体が輝いて見えた。校舎の中に入るのは初めてであり、それに知り合いの連中にも会えるかもしれない。玄関口で整列する頃になってやっといろいろな興味が湧いてきた。
建物に入ると、涼しさと甘い香りと意味不明なざわめき声が混ざり合い、それらが見えない大きな布となって全身を覆ってくるようだった。辺りを見回すと、二階建ての鉄筋造りで、どこか病院に近い印象を受ける。それは、長い一直線の廊下と、その両側に整然と並んだ扉のせいかもしれない。
「アメ公の施設なんてみんなこうだよ。図体がでかいし、見栄っ張りだから、こんな造りになっちゃうんだよ」
さも当たり前といった顔つきで、ウメッチは女子たちにクールに説明していた。いわゆるバタ臭いと言われる雰囲気だったが、晃二はこの匂いや、必要以上に豪快な造りが意外と好きだった。
キュッキュ。リノリウムの床に運動靴のゴム底を擦りつけると軽やかな音が響いた。まるで隅に隠れている小動物が餌を欲しがって鳴いているかのようだ。
教室の前に着くと隊列は三つに分かれ、組ごとに各部屋に入っていった。
入るなり歓声と指笛が鳴り響く。場慣れしていない日本チームは皆たじろいでいたが、ウメッチだけは手を振って応えていた。
歓迎されるとは、こうも気持ちがいいものなのか。段々空気に馴染んできた面々はお辞儀をして応えた。握手文化とお辞儀文化、その習慣の違いは特には気にならず、みんなバラバラに日本古来の挨拶を何度も繰り返して愛想を振りまいていた。
「すごいなぁ。ねぇ晃ちゃん、ちょっと場違いな気がしない?」
手に持った包みに視線を落としてブースケは囁く。その小さな包みは、今日のメインイベントである、プレゼント交換に用意してきたモノだった。
「ん? ちょっとな。でも大丈夫だよ。気に入ってもらえるさ」
ブースケの心配事を察した晃二は、根拠はないが、そう言って励ました。
生徒たちの最大の関心事は、そのプレゼント交換に何をあげて、どんなモノを貰えるか、ということに終始していた。しかし、ついさっきまで自分の品を自慢していたはずの晃二も、雰囲気に圧倒され、自信が揺らぎかけていた。どうやら他の連中も、初っぱなから日米の違いを目の当たりにし、動揺を隠せないようだった。
教室ではすでに、スクールの生徒たちが隣の席を空けて待っていた。むこうは全生徒合わせて、やっとこちらと同人数だったため、全体を三つの組に分けたのだろう。小さな子から、中学生みたいに躰のでかいヤツまでいる。もちろん白人、黒人入り交じってである。
出席簿順に空いた席に座っていく。晃二はおとなしそうな黒人の隣になった。名前はレジーと言い、まあまあ整った顔立ちで、テレビで観るホームドラマのちょい役で出てくるような印象を受けた。主役級ではないがところどころでセリフがある、地味だがポイントとなる役回りが似合いそうな感じである。
全員が座り終わってから周りを見回すと、少し離れたところにボビーの姿が確認できた。他にも数人、ジミーの仲間連中の顔ぶれも見える。ボビーとはある日偶然知り合ったのだが、ハーフで日本語がペラペラだったせいか、すぐにうち解けて仲良くなったのだった。とても明るく剽軽なヤツで、通訳としても日米間で活躍していた。
双方の先生の挨拶後、交流会は通訳を交えての学校紹介から始まった。お互いの学級委員が原稿用紙を手に、いかにも優等生らしい口調で相手国の素晴らしさを語る。赤毛でソバカスの娘は「親の仕事の関係なので、数年しかいられないが、その間に日本をよく知り、友達も増やしたい」と言っていた。今まで何人も、知り合ったヤツが二、三年でいなくなっていた理由が、親の赴任のせいだったことを再認識した。軍関係の仕事なので、異動が多いのは仕方ないのだろう。
そんなかつての連中の顔を思い浮かべていたら、隣から声をかけられた。
「アーユー ウィルズ フレンド?」
……。突然で焦った晃二は、返答に困ってしまった。
簡単な英語だったので意味は解ったのだが、ウィルという名前に心当たりがない。
「ジャスト モーメント プリーズ」
掌を前に出し、たまに使う台詞を言って関係のありそうな筋を片っ端から思い浮かべてみる。
ウィル、ウィル……。誰だそいつは? かつての友人にも最近知り合った友達にも聞き覚えがない名前だ。
もしや…。そのとき、ある男の顔が浮かび、「まさか、ウィリー山脇か」と声に出した。
「イエス、ザッツライト」人差し指をこちらに向け、ゆっくりと頷いた。
そのポーズはテレビドラマで観る役者の決めゼリフのようにカッコ良かった。
なんだか[刑事コロンボ]に尋問されて、ついポロッとアリバイの間違いを口にしてしまった犯人の気分になる。
しかしその後、自分から聞いたくせに、彼は両手の平を上に向けて大袈裟な表情で小さく唸った。
気に障わることでも言ったのかと思い、なんだか今度は[パートリッジファミリー]で母親に叱られて項垂れている子供のような気分にさせられた。
「でも……。ヒーイズ、ノット、トゥディ」
彼は今日欠席している。そう説明したかったのだが、ちゃんと伝わったのかどうか不明である。理解したのかしないのか、彼は眉を上げ、ただ肩をすくめただけで会話は終わってしまった。
普段から遅刻、欠席はあたりまえのウィリーが、学校行事に参加するなんて考えられなかった。クラスメイトだがフレンドではない。そう弁解したかったが諦めた。彼が聞いてきたウィルとは、名字を山脇といい、黒人とのハーフだった。下の日本名は忘れてしまったが、みんなからウィリーと呼ばれ、恐れられていた奴だった。
五年の時、スクールから晃二のクラスに編入してしてきたのだが、どうやら理由は両親の離婚にあるようであった。噂ではウィリーの父親は兄貴だけ連れてアメリカに帰ったらしく、現在は母親と小さなアパートで暮らしている、という話をモレから聞いていた。だが実は、もう一つの説があるのだ。それは彼があまりにも素行が悪いので、スクールを追い出されるような形で日本の学校に転入してきた、というものであった。
そんな噂を耳にしていた晃二は、隣の黒人が表情を曇らせたわけが理解できなくもなかった。
冗談が通じない、気に入らないことがあるとすぐに手が出る、弱い者いじめなどはしないが、年長者との喧嘩は絶えない、などの噂も耳に入っていた。
群れることを嫌うので、晃二たちも避けている訳ではないが、付かず離れずで接していた。
「それでは、待望のプレゼント交換に移ります」
その後も、プログラムは滞りなく進行し、作文や歌があったあと、最後に待ちに待ったプレゼント交換になった。しかし、ここでも文化や習慣の違いを思い知ることとなる。
晃二たちは、自分の宝物の中からそれなりに選んだ物を、自分たちで包装紙に包んで渡したが、誕生日やクリスマスなど、プレゼント慣れしている彼らは、デパートで買い、綺麗にラッピングされた物を用意していたのだ。中身も、晃二の相撲取りの絵のメンコや、貰い物の扇子などは日本らしさがあり、まだましな方である。ウメッチは、向こうが本家だというのにサンダーバード2号の、しかも出来上がったプラモデルを、荒ケンはコレクションのヌンチャクを、モレは聴き古した〝黒猫のタンゴ〟のレコードを用意していたのだ。そんな自分の思い入れ中心な日本側に対して、アメリカ側は実用的な新品の文房具が中心であった。
場違いな気がしない? さっきのブースケの心配顔が思い出される。
果たしてアメリカ人に、彼が渡したカネゴンの古い貯金箱の価値が解るだろうか。晃二は頬杖をつきながら、彼らが包みを開けた時の反応を想像した。
隣の彼もやはり同様で、交換した包みを開封すると中身はUNIの鉛筆セットであった。一ダースの十二本入りで、真新しいエンジ色が筆箱のようなプラスチックのケースの中で輝いて見えた。それに対して彼はメンコを見て、「ワァオー、スモーキング」と大声で言って眉を上げた。喜んでくれたらしいが勘違いしているのかと思い、タバコじゃないと説明しようとしたら、指を差して「スモウ・キング」と今度は間を空けて言った。どうやら横綱のことを言っているのだと理解し、笑いながら大きく頷いた。
やれやれ。大した物でないが、どうやらお気に召していただけたようだった。それにしてもアメリカ人は喜怒哀楽というか、感情の表し方が派手である。メンコも扇子も珍しいのだろうが、そこまで大袈裟にリアクションされるとこっちが照れてしまうほどだ。その[奥様は魔女]のダーリンような身振り手振りは演技のようなスマートさがあり、流石アメリカと感心してしまう。
その後、交流会はこれからも日本とアメリカは協力して世界を動かしていくのだから、皆さんも仲良く協力し合ってください、というような台詞で終了し、子供たちの心にそれぞれ色々な想いを刻んだ。
それはともかく、なにより晃二たちに良かったのは、これがきっかけで、野球をはじめとする各種対抗試合が組まれたことだった。なにせハウス内にある芝生のグランドが使えるのだ。こんな嬉しいことはない。そこはホームグランドであるちびっ子広場とは大違いで、広くてきれいなこともさることながら、バックネットや観客スタンドまで完備されているのである。その上、一応はゲスト扱いだから、MPに咎められることなく大手を振って遊べることも気分良かった。これまでも独立記念日や親善イベントの際に数回グランドを使った時のことを思い出した。
遮るモノのない青空と、青々と広がる芝生。そんな開放感の中で臨んだ試合は、条件の悪いグランドで鍛え上げられた日本チームが勝つことが多かった。呆気にとられるイレギュラーもなければ、建物に阻まれるアウトもないのだ。本来だったらアウトボールになるかもしれない当たりは、面白いように外野の間を抜けていった。きっとこれが本当の野球というか、ベースボールなのだろう。晃二たちの、狭さや制約を気にしなくてもいい、思い切った弾けるようなプレーが結果に結びついたのだと思う。それに対し、負けず嫌いなアメリカチームは、助っ人を呼んできて臨んだ再試合で、何とか面目を保つ程度であった。
野球に飽きるとバスケットボールを、バスケに飽きるとフットボールを、と子供たちの遊びは尽きることなかった。やはり体育の授業でやるポートボールより、本格的なバスケの方が格段に面白いし、さすがはスポーツ大国、ほかにもクリケットやボールホッケーなど、目新しい遊びが次々と繰り出され、みんな夢中になっていたことが思い起こされた。
更にはブーメランや花火など、近くの競馬場公園では禁止されている遊びもここではOKであった。それを家に帰って母親に話した時、「あの中は日本とは違うルールだからね」と言う返答で初めて治外法権という言葉を知ったのである。
但し、段ボール橇といって、段ボールを敷いて丘の上から滑り降りる遊びだけは芝生が傷むという理由で日米共に禁止になっていた。しかしそれは、子供たちにとっての治外法権だとこじつけ、目を盗んではよく滑っていた。
そんなこんなで、この年の九月から十月にかけてはキャンプ内を中心に友好的な遊びを繰り広げていたのだった。
ウメッチも、ようやくリサと一緒の時間を持てて喜んでいたが、一つだけ気にくわないことがあるようだ。
「ったく、何でリサは日本人のくせに、いつもアメリカチームばっか応援すんだよ」
試合の展開に係わらずウメッチはよくそうこぼしていた。
「あったりまえだろ。こっちを応援したら、スクールで仲間はずれにされちまうよ」
そう晃二が言っても無駄であった。まぁ、ウメッチも解ってはいるのだが、やはり嫉妬だか、やっかみだかが邪魔するのだろう。一方、ジミーたちとは相変わらず仲が悪く、未だ冷戦状態だった。諍いごとに発展することはなかったが、常に反目し合ってお互いを避けていた。なのでこの頃よく連んで遊んでいたのはボビーとダンである。
思い起こせば彼らとの出会いは唐突だった。
夏のある日、竹薮の第二基地で遊んでいた時である。ガサガサと音がしたかと思ったら、いきなりアメリカンが現れたことがあった。突然の遭遇で驚くも、基地の秘密を守るためにはそいつを捕らえて拘束せざるを得なかった。彼は名前をボビーといい、ハーフで日本語がペラペラだった。だが、いざ尋問してみると意外にいいヤツで、何となく気が合ったのである。
ウメッチは、「見られた以上、生かして返すわけにはいかない」なんて映画のセリフみたいなことを言ってたが、内緒にするという条件で特別に基地内を見せてあげたのだ。
入るなり叫んだ、「ワァオー、グレイト!」という、賞賛の響きが、ちょっと擽ったく感じられたが、まんざらでもなかった晃二たちは、日米の垣根を取り払う役目として、通訳という任務を彼に与えたのだった。そのボビーの親友であるダンと知り合ったのは、毎年行われる日米親善盆踊り大会の時である。
キャンプ内の会場は金髪に浴衣という、ちょっと不似合いな姿でごった返していた。出店の前では、アメリカ人が焼きソバを、日本人がスペアリブを頬張るという逆転した光景の中、ベンチに座っていた晃二とウメッチに片言の日本語で声をかけてきたのはダンの方だった。
「ハーイ、グッドテイスト? オイシイデスカ?」
二人がつまんでいたたこ焼きを指して、ニコニコした赤ら顔で話しかけてきた。
「イエス、グッドグッド」
機嫌の良かった晃二は、臆することなく答えると、楊枝に刺したたこ焼きを差し出した。
彼は自分を指さして驚いたが、受け取ると匂いを嗅いでから食べ始めた。
「オー、グッド。オイシイデス」
ダンは二人の隣に座り、これは何だと訊いてきたが、当然のごとく英語なんてしゃべれない。二人は手をクネクネ動かして、「エイト足、エイト足」と、指で8の字を書きながら蛸のジェスチャーを始めた。子供たちの間に日本語だの英語だの会話の壁なんてない。ちゃんと伝わったかどうだか判らなかったが、大笑いしたダンとはこれでうち解けて、仲良くなったのだ。もちろん未だにダンとのコミュニケーションはジェスチャー中心である。そんなこんなで知り合った二人が、実は親友だったというのも何かの縁なのであろう、お互いのグループ同士連んで遊ぶようになっていった。
「よし、じゃあ手始めに、よっちゃんイカと梅ジャムを試してごらん」
交流が始まるとまず最初に、晃二は日本の誇る駄菓子を紹介した。ダンは言われるまま口にした途端、複雑な顔をして口をすぼめた。
「ははっ。ちょっと酸っぱいけど、慣れれば病みつきになるよ」
そうやって始まったのが日米のお菓子交換であった。言ってしまえば、晃二たちの目論見にまんまと嵌ったのだ。なにせケニーさんの家で禁断の果実を口にしてからというもの、みんなアメリカのお菓子に心を奪われていたのである。
彼らの好物が酢イカとあんずジャムで、我々の好物がアイスクリームとハーシーチョコだった。しかし、毎日そんな豪勢にとはいかない。小遣いを一日十円しか貰っていなかった晃二は、時にはヘチマ工場の脇になっている枇杷や、家にあった煎餅などを持っていってごまかしていた。たまにだが、お金の交換もあり、相場とは関係なく円とドルを交換したりもした。それをみんなは大切に貯金箱に貯めておいたのだ。そして、ケニーさんに一度PX(米軍のショッピングストア)に連れて行ってもらってからは、欲しい時に自分たちで出向き、貯めたドルで好きな物を買ったのである。但し、店には入れないので、買い物客でウメッチの知り合いがいた時にお金を渡して、買ってもらうのであった。もちろんMPに見つかれば、ただでは済まされなかったが、お菓子の魅力には勝てず、強行手段に踏み切っていたのである。
そんな悪ガキ集団に願ってもないイベントがハロウィンであった。
これは毎年十月末に行われる、アメリカの万聖節 (All Saints’ Day) の前夜祭で、” Trick or treat!” (お菓子をくれないと悪戯するぞ)と言って、子供たちが魔女などの仮装をして近所の家を回り、お菓子を貰うお祭りである。各家々でかぼちゃをくり抜いたデコレーションをすることから、別名をかぼちゃ祭りとも呼ばれている。しかし、晃二たちのヒアリングでは、「トリック・オア・トゥリート」が「チカチューリ」と聞こえることから、仲間内ではチカチューリ祭りと呼んでいた。
毎年この日が近づくと、誰とチームを組んで、どのコースをまわるかなど、みんな気もそぞろになってくる。この日は特別に日本人も仮装をすれば参加できるのだが、お菓子目当ての他校の小学生や、地元の中学生、それに不良アメリカ人が、出会す度にお菓子の争奪戦を繰り広げるのだった。
この年のハロウィンでも、案の定、一悶着あった。
日が完全に暮れる六時過ぎから祭りは始まり、九時半頃には大方終了する。大体ピークは七時半頃だったので、夕飯を掻き込んだ晃二は、急いでいつものメンバーが待つゲート前まで走った。
陽が落ちてすぐの宵闇は、まだ優しい温もりを携えて辺りを包み込んでいる。晩秋の空の下方にわずかに残る青と街灯のオレンジ色のコントラストが、家にある写真集で見た外国の街の夜景とよく似ていた。商店街の蛍光灯とは違うそのオレンジ色の灯を見ると、落ち着くのだが、何故かいつも切なくなってしまうのだった。
だが今晩は、遠くから聴こえてくる歓声や周辺の連中の気を揉んだやり取りに、いつもの感傷的な空気感はどこかに押しやられていた。行き交う集団は、はやる気持ちを抑えられずに互いの衣装を自慢し合いながら、すでにハロウインを楽しんでいた。
「まるで銀行強盗か変な宗教団体だな」
骸骨や魔女に仮装し、ドレスアップした子供たちの中で、目の所だけ穴を開けた紙袋を被った集団は、みすぼらしかったが逆に目立っていた。
からかいながら、晃二もその輪に加わると、同じく紙袋を被った。
「なんだよモレ、だっせぇな。もっとちゃんと作れなかったのかよ」
目の前の覆面男に向かって大笑いした。彼は紙袋をデストロイヤーのマスクに似せて切り抜いたようだが、目鼻口の大きさや間隔がバラバラで福笑いの絵に見えた。毎年、スーパーでもらう紙袋を仮面がわりにしているが、そのままでは芸がないので各自で工夫を凝らしていた。ブースケは立体的にしようと思ったのだろう、紙で作った耳や眼鏡をくっつけていたが、剥がれかけてブラブラしているし、ウメッチのは睫毛と口紅を派手にした峰不二子らしき女性が描かれていた。
「まったく……。みんな鏡を見た方がいんじゃねぇの」
晃二がぼやくと、見窄らしい仮装集団は周りの奴を見回し互いに貶し始めた。
検問所の周辺は待ち合わせらしき子供たちで溢れてきた。魔女、ドラキュラ、モンスター。なんだか学芸会で出番を待っているかのようである。
やがてメンバー全員が揃ったので、懐中電灯とお菓子入れの袋を手に、いざ出陣となる。コースは去年と同じで、たくさんくれる家や我関せずの家、怖くて近寄り難い家や仮装の派手な一家など、ほぼ知り尽くしていた。ただ一つ注意する点は、時間とコースを間違えると人気のない道で中学生や不良外人に襲われることにもなりかねないことだった。
さっそく手前の小高い丘を登ると、日中陽射しに彩られた景色とはまた違った光景が広がっていた。普段、出歩くことのない夜のハウス内は、紺色の空と深緑の芝が相まって、海底にでも沈んでいるかのような佇まいである。その中でポーチ(家の玄関口)の明かりが潜水艦のライトのように点在し、そこに至る街灯はブイのような標となって小さな光を湛えて並んでいた。
「よし、じゃあ、あそこら辺からなんてどうよ?」
誘き寄せようと派手に飾り付けしているブロックに目星をつける。
「お化け屋敷っぽくていいじゃん。景気づけにいっちょかますか」
窓からこぼれる青白い明かりに、一団は吸い寄せられていった。
扉の前で決まり文句を言うと、籠一杯のお菓子を持って家の人が出てくる。特に会話はいらないが、パフォーマンスの一つでもやればその分多く貰えることもある。晃二たちにはせいぜい雄叫びを上げるくらいしか芸がなかったが、それも怖がられるよりは笑われることの方が多かった。しかも、至るところで飛び交っている、「トリック・オア・トゥリート」と比べ、謎の紙袋教の集団が発する、「チカチューリ」というセリフは、なんだか別の呪いを唱えているように聞こえた。しかし、その異様な呪文が功を奏したのか、袋の中には例年になくお菓子がたくさん溜まっていったのである。
「今年はすげぇ調子がええなぁ。もうこんなにあるぜ」
ワンブロック回ったところで一旦休憩し、みんな袋を覗き込んで成果を確認した。
「やったぁ。俺んとこにゃ、M&Mが一袋入ってんぞ」
大体は同じ量、同じ物なのだが、家によっては違う種類を適当に配るので、当たりはずれもでてくるのだ。これも運なので仕方ない。見た感じでは、ジェリービーンズやガム、それにヌガーチョコといった物が大半を占めていた。まだ半分も回っていないのにこの量なのだ。気をよくして皆、収穫物をチェックしながら一つずつ口に放り込んでいった。
「ねぇ、ねぇ。あれリサなんかじゃない?」
歯に付いたヌガーをほじりながら言ったモレの言葉で、ウメッチの顔つきが変わった。
「うそっ。どこよ、どこどこ」
辺りを見回したウメッチは、彼女の姿を見つけると、一目散に駈けていく。
「ありゃ、完全に病気だな」
晃二は呆れる一方で、ちょっと羨ましく感じた。
リサの集団は四人の女子と、幼児二人の六人だった。女の子たちはクラスメイトらしく、男児は誰かの兄弟なのだろう。中の一人は、交流会でスピーチをした赤毛の子だった。
誰とでもすぐ仲良くなれるというウメッチの特技は、相手が女の子の場合、最大限に発揮される。
「あっちもほぼ同じコースだから一緒に回っても構わないってさ。いいよね」
ウメッチは戻って来るなり、満面の笑みでそう言った。みんなの意見も聞かず、勝手に段取ってきた上に、有無も言わせず納得させるつもりらしい。
「まぁ、ええけど、お前ほんまに行動力あんな。だったら普段からもっとてきぱき動けや」
「みんなオーケーね。そんじゃ、合流しようぜ」
荒ケンの嫌味もどこ吹く風。ウメッチの大らかさに押し切られた形となる。
みんな渋々了解するが、この展開を歓迎するような面持ちも見てとれた。
「ハーイ」にこやかに迎える彼女らに笑顔で応えるが、ぎこちなさは拭えなかった。
女の子四人は黒装束の魔女に扮し、子供二人はドラキュラの格好をしている。魔法使いが被るような、尖った帽子から垂れたポニーテールが風に揺れている。羽織ったマントを翻すたびに見える、サテンのドレスが大人っぽい。そのピッチリした身体の線や、胸のふくらみにドキドキし、目のやり場に困った。ややきつめに化粧された目元や、真っ赤な唇がやけに色っぽかった。そんな晃二たちを挑発するように彼女らは笑顔を振りまき、早口の英語でじゃれ合っている。スタイルが良いのか、着こなしが上手いのか、四人ともよく似合っていて格好良かった。
片や晃二たちは紙袋の覆面を後ろ手に隠し、ぼーっと突っ立っているだけで、陽気に振る舞う彼女らに戸惑いすら感じていた。
「彼女がサラで、彼女は生徒会長のアイシャ……」
リサが通訳しながら紹介をするが、男性陣は恥ずかしがって下を向きっぱなしだった。
考えてみれば、今までハウス内に男友達はいたが、女の子の知り合いは一人もいなかったのだ。クラスでさえ女子とは相容れぬところが多く、変な意識もあって上手くつき合えなかったのであるから。みんな引け目を感じている上に、身長も向こうの方が高かったので気圧されたのだろう。
「それじゃ、仲良く繰り出すとしましょうか」
唯一、女性に対して物怖じしないウメッチは、張り切って先頭を歩き出した。
「リサ、可愛いねその犬。リサが飼っているの?」
ウメッチはリサの足元をうろついている小型犬の頭を撫でた。
「そうよ。可愛いでしょう」
「ふーん、フサフサして気持ちいいね。なんていう犬なの?」
「ヨークシャテリアよ。まだ二歳なんだから」
それを聞いたブースケは、しゃがんで手を出した。
「へぇ可愛いね。ヨークシャテリアちゃん、お手」
……。一同大爆笑である。
ウメッチはばつの悪そうな顔をして、思いっきりブースケの頭を叩いた。
「馬鹿かお前は。それは犬の種類だろうが。それにそんな長い名前つけるわけねぇだろ。よく考えろよ」
気を利かしたつもりが、いつもの天然ボケを演じてしまったブースケは、頭を掻いて苦笑いした。
「面白いのねブースケ君は。この子はね、ペニーって名前なの。ペニーってね、1セント硬貨のことなんだけれど、茶色くて小さいところが似ているんで、そうつけたのよ」
「へぇ、そうなんだ。素晴らしい名前だね。犬だけにワンダフルだよ」
ウメッチはもう一発頭を小突き、「もう喋んなくていいよ」と言ってそっぽを向いた。
リサの通訳に頼らざるを得なかったが、なんとかコミュニケーションを取りながら一行は収穫物を自慢し合う。好き嫌いがあるのだろう、中には身振りでお菓子の交換を申し込む子も現れ、だんだんとうち解けていった。
やがて中央のメイン通りの教会辺りに差しかかると、大きなカボチャを幾つも並べ、ど派手な飾り付けをした家が見えてきた。
「ブライアンさんのとこは今年も気合い入ってんなぁ」
ポーチには蔦がからまり、窓からは骸骨やらミイラ男の覆面が見え隠れしている。毎年凝った演出をするブライアンさんの家は、一番の盛り上がり場所としてお馴染みであった。
今年はどんな演出か楽しみにしながら近づき、カーテンの隙間から覗くと、大体のカラクリが読めた。
「リサ、扉を入った奥に箱があるから、そこから一掴み取ってきな。一人ずつだから、まず最初にリサね」
晃二は目配せをして、みんなに口止めする。
「いいわ。取ってくるだけでしょ。じゃあ行って来る」
リサは疑いもせず、決まり文句を言いながら部屋の奥へと向かった。刳り抜いたカボチャに蝋燭を灯した行燈が弧を描いて並んでいるテーブルの中央に、宝箱に似せた木箱が蓋を開けて置かれている。中にはスティックチョコやキャンディの銀紙が明かりを反射して、色とりどりの宝石のように輝いていた。
「ワォ。イッツ、ソー、キュート」
驚愕の声が漏れ、思わず手を伸ばした時だった。
箱の裏側からリサの手を掴もうと白塗りの腕が伸びてきた。
キャアー。叫びながら後ずさりした背中に堅い物が触れる。
ギャアー。振り返ってその正体を見たリサは、更に大きい叫び声を上げ、黒いマントの男を突き飛ばした。
「ダレ、ヘル、××」
リサは日本語とも英語とも判らない言葉を叫びながら、血相を変えて出てきた。
「な、なによこれ。知ってたんでしょ」
リサはみんなが腹を抱えて笑っている姿を見て、息巻いた。
「そりゃそうだよ。初めっからネタをばらしちゃ面白くも何ともないじゃん」
「驚いた顔も怒った顔も、やっぱリサは可愛いねぇ」
「よくも嵌めたわね。許さないから」
誉め言葉でごまかすウメッチを引っぱたきながらも、リサは笑っていた。
一度、向こうの手口を見てしまえばあとは簡単である。次は一団となって相手の懐に挑んでいくことにした。恐怖心は薄らいだが、それでも怖がる女子や幼児を男性陣が囲み、罠の待ち伏せる部屋の奥へと進んでいく。
ウォーッ。雄叫びをあげながら姿を現したモンスターと男どもが格闘している隙に、女の子たちがまんまと両手一杯にキャンディをせしめてきた。
「やった、作戦成功! みんなで山分けね」
してやったりという顔で、リサはみんなの袋に銀紙の包みを放り込んでいった。芸が細かく、中には金貨みたいなチョコまでちゃんと混ざっている。
「あと残すは、電波塔の一角だけか」
晃二がそう言うと、ウメッチは少し寂しそうな顔で頷いた。
嬌声の続くブライアン屋敷を後にして、一行は最後に残された地区へ向かう。
この辺りは木々が多く、家も少ないので、急に寂しくなった感じがする。その上、多少肌寒くなった気がした。もうそろそろ九時近いので、実際気温も下がっているのだろう。
「なんだか上手くいきすぎって感じだな」
横に並んだウメッチが、満足げな台詞とは裏腹な表情でボソッと呟いた。ウメッチは、陽気な行動をしている最中に、ふと沈んだ表情を見せることが時々あった。普段の彼からすると、らしくないのだが、楽しみのその先にある〈終わり〉を考えてしまうのかもしれない。
やがて、一通り回ったので戻ろうとした時だった。
「イエー」「ウォー」
いきなりの声に振り向くと、後ろの林から顔中ペイントをした集団が声を上げて襲ってきた。一瞬の出来事だったので何が起きたのか解らなかったが、その集団は派手な衣装に身を包んだ大人の外人たちだった。
「やべっ、逃げろ」
すぐさま紙袋を脱ぎ捨て、女の子を庇うようにして駆け出した。
ここで前から挟み討ちにされたらおしまいだった。
しかし、そんなこともなく、ペイント集団は途中で追うのを諦めた。どうやらただの脅かしだけだったらしく、遠くから小さく彼らの歓声と笑い声が聞こえた。
「なんだ、からかわれただけだったの?」
安心したリサたちも、その場に座り込んで笑いだす。
「人騒がせなヤツらだ。と言うか、それを楽しんでるんだろな」
よほどカーニバル好きなのだろう、酒を呑んではしゃぎ回る連中は毎年必ず出没していた。
「あーっ」
ホッと一息ついたのもつかの間、いきなりブースケが叫び声を上げた。
また何か現れたかと、みんな一瞬身構える。
だが、何かと思ったら、ブースケのお菓子袋に穴が開いていて、中身が減っていたのだ。
「今、逃げる途中で袋が切れちゃたんだ」
半べそで振り向いた視線の先には、点々と道端に落ちているお菓子の包みが街灯に照らし出されていた。恨めしそうにブースケはそれを眺めていたが、また誰かに襲われるかもしれないので、誰も戻って拾おうとは言わない。
「しょうがない。少し分けてやるよ」
晃二の慰めの言葉に、ブースケも諦めて項垂れた。みんなもその場で収穫したお菓子をチェックしだしたところで再び前方に人影が現れた。
「ストップ。ホールドアップ」
突然モンスターマスクの五人組が行く手を塞いだ。
逆光の上、マスクでは相手が何者か分からない。咄嗟に晃二は逃げ出すことも考えたが、女の子たちが一緒なのを思い出し、諦める。荒ケンも隙があったことを後悔している表情で舌打ちした。
相手は無言のままこちらの出方を窺っている。
だが、ふと脳裏に何かが引っかかり、晃二はそれが何なのか頭を働かせた。
五人はゆっくりと近づいてくる。
記憶のページを紐解くように考えていると、それが何かがわかった。
声であった。くぐもってはいたが間違いない。あの時の声だ。
いまやそれが確信となった晃二は、一歩前に進んで言った。
「なにって、ハロウィンに決まってんだろ。ジミー」
五人は立ち止まり、顔を見合わせる。
チェッ。そして真ん中の一人がおもむろにマスクを脱いだ。
「よう、晃二にヒロ、みなさんお揃いで」
ジミーは小さく口元を曲げ、マスクを後ろポケットに突っ込んだ。
─ よりによって、こんなときに ─
晃二は荒ケンを振り返ったが、特に態度を変えるような素振りは見せていなかった。
「何がお揃いで、だ。どうせナイフかなんかちらつかせて、俺たちを脅そうとしたんだろ」
ウメッチは誰かさんがいるせいか、普段よりも果敢に言い寄った。ジミーも正体がばれた以上、変な手出しは避けた方がいいと思っているようだった。こっちとしたってこんなところで揉め事はゴメンだ。晃二は上手くこの場をやり過ごそうと考え、話題の矛先を変えようとした。
「なぁ、ジミーよ。さっき─」
「ちょっと待った! なんでリサたちが一緒にいるんだヨ」
ジミーは晃二の話を手で制し、急にいきり立って突っかかってきた。
「なんでもへったくれもねぇよ。途中で会ったんだよ。そんで危険がないよう俺たちが一緒になって回ってただけじゃねぇか」
ウメッチは謂われのない疑いを掛けられたように感じ、ムッとして言い返した。
「ちょっと待ってろヨ」
ウメッチにそう言うと、ジミーは彼女らに近寄って何か話しだした。
その剣幕からすると、内容は想像できる。恐らく「日本人なんかと一緒にいるな」とか「こいつらといると何されるか分からないぞ」といった類の文句だろう。こっちが英語が分からないのをいいことに、あることないこと言っているのかもしれない。
「素手だったらタイマン張ってもいぜ」興奮したウメッチはそう言った。
内容は分からないが、リサも言い返していた。だが、何か決め手になることを言われたのかもしれない。急にリサの口数が減り、俯いて頷くだけになってしまった。他の面々にしてもそうだ。口をへの字にして相槌を打つだけである。
やがて、一通り話が済んだのか、ジミーが戻ってきた。
「あとはオレたちが送っていくから、もういいぜ」
「何がもういいぜだよ。彼女らに何言ったんだよ!」
ウメッチが掴みかかろうとするのを晃二は止めた。
「別に大したこと言ってないぜ」
「うそだ。でまかせ言ってんじゃねぇよ。変なこと言ったからリサが黙っちゃったんだろ」
「なんだお前、リサに気があるのかヨ。あぁ、それでナンパしたのか?」
「……。うるせぇな。ジミーには関係ねぇだろ」
「関係あるよ。オレとリサは付き合ってるんだから。そっちこそ変な言いがかりすんなヨ。オレはただ、お前たちのクラスメイトのことを言っただけだぜ」
「……付き合ってるって」
ウメッチは顔面蒼白になって黙ってしまった。
「なんだそりゃ。何で俺らのクラスの奴が関係あんだよ」
モレがウメッチを庇うように一歩前に出て、声高に叫んだ。
「ウィリーか……」晃二は状況を察し、そう呟いた。
「そりゃ、おんなじクラスやけど、アイツと俺らは関係ねぇぞ」
荒ケンも混沌とした事態に嫌気がさしたらしく、口を挟んできた。
「関係あるかないかは、それこそ関係ねぇヨ。ただ、彼女たちは係わりたくないってさ」
「……。屁理屈こねやがって、あったまくんな、このヤロー」
濡れ衣を着せられた上、妙な言いがかりを吹っ掛けられたみたいで、みんな憤慨している。まさに一触即発状態だった。
そして臨戦態勢に入ったそのとき。
丘の向こうから、巡回中のポリスカーが赤灯を回しながらゆっくり近づいてくるのが見えた。
「チッ。見つからないうちに退散しないとまずいな」
晃二が言うと、ジミーも仲間に声を掛け、険悪だった輪が解かれていった。
「今日のところは勘弁してやるけど、こん中はアメリカの領土なんだから、あまりでかいツラすんなよ」
捨て台詞を残して立ち去るジミーを、荒ケンは睨んだまま、グッと怒りを堪えていた。
「ごめんね。あなたたちが悪い人じゃないって分かっているけれど……」
帰り際、リサは弁解しながらも、その後に続く言葉を濁した。
「あぁ、気にしないよ。それよっか……近いうちまた会おうよ」
ウメッチは顔を歪ませながら笑顔でそう言った。
「……。あっ、そろそろみんなのところに戻らなきゃ」
リサは「またね」ではなく、「さよなら」と言い残してジミーたちの後を追いかけていった。
立ち竦んでいるウメッチの顔はさらに歪み、それを見た晃二にも、胸の奥をグッと鷲掴みされたような鋭い痛みが走った。
「元気出せよ、ウメッチ。もしかして嘘言ってたのかもしれないぞ、あんま気にすんなよ」
重い空気を振り払いたかったが、他に慰めの言葉が思い当たらず、晃二にはそう言うのが精一杯だった。
「そうや、でまかせやろ。それよっか、こんだけ収穫があったんやし、元気ださにゃ」
荒ケンはウメッチの肩を叩いて歩き出した。
色を濃くした夜の闇が五人に重くのしかかる。いつの間にか人影も見当たらず、ハロウィンは静かに幕を閉じ、ハウスの家々は休息に就きつつあった。他の連中も終演が近づいていることを感じて、口数少なく何か思いつめたように足元だけ見つめて歩いていた。
ちょうど林を抜ける近道に差しかかった時だった。
「おい、ちょっと待てよ」
いつの間にか周りを囲まれているのに誰も気づかなかった。顔を上げた晃二たちが見回した時には、すでに五人の中学生に囲まれていた。相手が小さいと見逃すのだが、高学年や他校の中学生ともなると、彼らは見境なく突っかかってくるのである。
一難去ってまた一難。
「結構持ってんじゃん。少し分けろよ」
太ったリーゼント頭がタバコを吹かしながら近寄ってきた。
「お前ら全員こん中に半分ずつ入れろ」
そう命令すると、後ろにいたノッポが布の袋を広げた。その中を覗き込んだ晃二は、思わず「こんなにあるのに、ずりぃ」と呟いてからシマッタと思った。
「てめぇ生意気なんだよ」
いきなり晃二の腰辺りにリーゼントの蹴りが思いっきり入った。
「お前は中身全部出しな」
ニヤつきながらリーゼントはナイフをちらつかせた。
「早くしろっ。次はチョーパン喰らわすぞ」
唇を噛んで俯いていた晃二が諦めて一歩前に出た時、低く呻くような声が聴こえた。
ぐぅぅ。一体何の音だか解らなかったが、それは動物が喉を鳴らすのに近い音だった。
いぶかしんだ晃二が後ろを振り返って、音の正体を知った瞬間。
「ぐうぁぁ! そんなに欲しけりゃ、全部やるよ」
いきなりウメッチが吠えるように叫びながら突進し、袋の中身をヤツらに向かってぶちまけた。
「馬鹿ヤローッ」そう喚いてウメッチは駈けだした。
逆ギレされるとは思ってもみなかったのだろう。ヤツらは呆気にとられていたが、それはこっちも同じである。突然の急展開に驚きながらも、晃二たちはすぐさまウメッチを追いかけた。
ヤツらは状況が解らず、呆然としたままで、追いかけてくる様子はないようだった。
「待てったら、ウメッチ」
そう言っても止まる素振りも見せず、ただがむしゃらに走り続ける。木々の間を抜け、グランドの脇を横切り、工事現場の泥の山を駆け上がっていく。
考えてみればウメッチがキレるのも無理はなかった。せっかく上手くいくと思っていた状況が、反転してどん底に突き落とされたのだから。その上に、この襲撃である。
逃げ足の速さは一、二を争うウメッチだ、追いつかなくとも仕方ない。しかし家路とは違う方角なので心配になり、姿が見える距離を保ちながら追い続けた。
だが、むしゃくしゃした気持ちが落ち着いてきたのか、やがてウメッチはスピードを緩め、スクールバスの停留所に凭れかかった。
近づくと、規則的に荒い息を吐きながら夜空を見上げていた。白い板壁の前で肩だけが上下している。
「まったく、無謀なんだから。ヒヤッとさせやがって」
晃二は一歩近寄ろうとしたが、ウメッチはそれを手で制し、「じゃあ、また明日」と笑って振り返ると、芝の小高い丘をダッシュして登っていった。
「なんや、人騒がせな奴やな。まぁ、気持ちはわかんないでもないけどな」
ホッとした表情で荒ケンは右手を挙げ、みんなに目配せすると踵を返した。汗だくの顔から小さな笑みがこぼれる。奴らからも逃れられたので、却って気分は良かった。
「また見つかったら面倒や。今日はこのまま解散な」
「オッケー。じゃあ明日」集団はそれぞれの帰路に分かれ、モレとブースケは近道の階段を下りていった。
もう九時半を回った頃だろう。晃二と荒ケンは袋を肩に担いで、辺りをコソコソ見回しながら帰り道を辿る。
「なんだか怪しくない? 俺たち」
人気のない道を、明かりを避けて歩いているのだ。確かに挙動不審である。
「そやな。真っ当な小学生なら今頃風呂入ってるか寝てんだろうな」
「そうか? 俺たち、いつも真っ当だと思っているけどね」
真っ当ねぇ…。顔を見合わせ同時に鼻で笑った。
時々、カーテンの隙間から暖かい明かりと共に談笑が漏れてくるほかは、静寂に包まれている。芝の上に捨てられたお菓子の袋が、祭りの余韻を楽しむように風に舞っていた。
「なんだか、いろいろあったけど、面白かったよな」
「あぁ、ウメッチはショックやろうけど、俺らは楽しかったな」
あのときのウメッチの顔を思い出すとやるせなかった。それにしても、である。
「ジミーらとは一戦交えないといかんやろな」荒ケンはボソッと呟く。
一人は悩んでいた秘密を暴露され、一人は恋路を邪魔されたのである。それぞれ内に秘めた想いが痼りとなって残っているのだろう。そのうち何かしらの衝突は避けられない気がした。
「なぁ、荒ケン。誰かこっちに歩いてくんぞ」
「一人みたいやな。別に悪いことしてないんやから、隠れんでもええやろ」
そう言って歩道に出ようとした時。向こうの姿が街灯で浮かび上がり、その瞬間二人は息を呑んだ。
ウィリーだった。
「なんでアイツがこんなとこ歩いてんだ?」
二人は不思議に思いながらも、すぐ近くの物陰に姿を隠した。
「なんか悪さでもしようとしてんやねぇか」
物置の陰から盗み見し、変わった様子がないか目で追う。
ウィリーは急ぐでもなく、ただ黙々と規則的に歩いていた。多少前屈みになり、両手をポケットに突っ込んで、つまらなそうな顔つきで前を通り過ぎる。丸首のセーターの上にエアフォース(米国空軍)の革ジャンを羽織り、両膝がすり切れたジーパンを穿いていた。
「どうや? 尾行してみんか」
荒ケンは少しずつ離れていく背中から目を離すことなく言った。身長が一七〇センチ以上あるので、遠目で見ると後ろ姿は大人に見える。
晃二は躊躇した。後ろめたさはあったが、興味がないと言えば嘘になる。
「そうだな。ちょっと気になるもんな」晃二は、言い訳がましく返答した。
息をひそめ、少し距離をとってあとをつけていく。お互いの足音は闇に吸い込まれたかのように無音で、それが却って緊張感を高める。
家がまばらになり、街灯の頼りない明かりが革ジャンを暗く照らし出していた。アスファルトの路面は雨に濡れたように黒くぬめって見えた。
ウィリーはハーフだが、外見はほとんど黒人である。身体がでかく、無口で強面なため、進んで話しかける奴はほとんどいなかった。本人も自らクラスに馴染もうという気はさらさらないらしく、自然と垣根ができていた。荒ケンだけはいつも、「アイツの自由や」と言って咎めなかったが、人を見下すような彼の態度には、周りの連中の非難が集まっていた。触らぬ神に祟りなし、なのだろう。牙を剥かれるのを恐れて、みんな無関心を装って避けていたのだ。
話によると、中学生でさえもウィリーに手を出す者はいないらしい。かと言って、子分を作って引き連れるわけでもない。そもそも人付き合いが苦手なのだろう、誰かと一緒にいるところなんて見たことがなかった。
晃二は五年生の春、席替えで偶然隣り同士になったことがあった。その際、晃二が自己紹介しても「おぅ」と、ぶっきらぼうに答えただけで、机の穴に鉛筆を突き刺し、誰かが詰めた消しゴムのカスをほじくりだしたのだった。ムッとはしたが、その横顔を見ると、そこには拒絶というよりも、何かを諦めたかのような、寂しげな表情が浮かんでいたのを憶えている。
しかし、一度だけウィリーの方から話しかけてきたことがあった。それは学級会でクラブ活動の決定をしているときだった。騒がしい声の中、自分と同じクラブに入る奴がいるかと周りを見回していた晃二に向かってウィリーが話しかけてきたのである。
「小坂はナニ部入るんだよ」
いきなり訊かれたので、決めていたはずなのにすぐに答えられなかった。
「……オレ? オレは美術部だけど、何で? 山脇君は何に入るの?」
「……別に決めてねぇよ。じゃあオレも美術部にするっかな」
ウィリーはからかっているのか、本気で言っているのか解らなかったが、用紙に〝びじゅつぶ〟と書いていた。
「ほんとに入るの?」
「別になんだっていぃんだよ。どうせ出ねぇんだから」
間延びした声で答え、ウィリーは机に脚をかけて天井を見上げた。
会話はそれが最後だった。と言うのも、翌日、一番後ろの席の女子が黒板が見えにくいと言うので、先生がウィリーの席と入れ替えてしまったからだ。もう少しウィリーという人間を知りたいとは思ったが仕方ない。良かったのか悪かったのか、縁がなかったんだろう。
その後、休み時間などにウィリーに話しかけてみても、元のようにシカトするか、そっけない答えしか返さなかった。そして言ってた通り、美術部の集まりや部活に顔を出すこともなかった。
「この先になんかあったっけ? どこ行くつもりなんやろ」
確かにこのまま行くと、一番外れに位置するブロックに突き当たる。その先は小さな墓地になっていて、境はフェンスで遮られているはずだ。
ウィリーは集会所の扉の前で一旦止まり、辺りを見回した。
二人は気づかれたのかと思い、身体を強ばらせ、息を止めた。
だがそうではなかった。中の様子を窺っているようである。ここが目的地なのか?
いや、それも違うらしい。彼は人気がないことを確認すると、再び歩き出した。忍び込みでもするのか、と一瞬疑ったが違った。何やら人でも捜しているようである。今度は方向を変え、脇の小径を建物と平行する形で進んでいった。
フェンスの向こうには、根岸のコンビナートの明かりがちらついて見える。常備灯の白と点滅ランプの赤、そして煙突から吐き出される炎のオレンジ。巨大な工場が並ぶその一帯の闇の中で、それらの灯が存在を主張するように浮かび上がっている。
やがて、ウィリーの歩くペースは幾分ゆっくりになる。何だか気が進まないような足取りだ。通りすがりに、廃品置き場の雨ざらしになった家具を拳で叩くと、低い音が辺りに鈍く響いた。
すると突然立ち止まり、胸ポケットから何かを取り出した。直後、小さく黄色い炎が一瞬だけ見えた。次に、それに代わってもっと小さな明かりが赤く灯る。タバコを吸っているのだ。
「アイツ、今マッチをゴミ箱に捨てなかったか?」
「うそっ。まさか……」
以前、商店街裏の長屋で小火があり、ウィリーが犯人じゃないかと噂されたことがあった。火の上がる少し前に黒人の少年を見かけたという証言があり、ウィリーが参考人として調書をとられたとかいう話だった。特に信憑性もないのに、何故か信じた奴が結構いたのである。他にも、スーパーマーケットで万引きしたところを見た奴がいるとか、中華学校の奴らを半殺しにしたとか、彼に纏わる噂は数え切れないほどあった。
「そんなことはないだろう」
そうは言ったが、一応念のためドラム缶の中を調べる。
やはり違った。マッチ棒はすぐ横の水溜まりに浮かんでいた。
変な想像や勘ぐりが頭をかすめるのは、一連の行動の意味が解らないからなのだろう。だが、冷静に考えると、自分たちが何故こんなことをしているのかも解らなかった。
フェンスに沿ってツツジの植え込みが長く続いている。その奥は恐らく墓地だろう、ポッカリと空いた闇が広がっていた。以前、夏休みにこの奥で肝試しをやったことを思い出した。気のせいか、どこからともなくお線香の匂いが漂ってきたような気がした。普段なら怖く感じるであろう夜の墓地も、今は何の感応もなく、ただの無表情な空間に過ぎなかった。
そのとき、晃二は彼の動き方に小さな変化が生じたのを見て、荒ケンの腕を掴んで立ち止まった。
「シィッ」人差し指を口にあてる。
ウィリーは歩幅を狭めて立ち止まったり歩き出したりを繰り返していた。立ち止まるたびに人目を憚るように周囲に視線を這わせている。
息を潜ませて状況を見つめていると、彼はクルッと向きを変え、腿の辺りまで雑草の伸びた空き地に戸惑うことなく足を踏み出した。そのまま、二人ですら知らない獣道みたいなところをかき分けていく。
「なんだか、ヤバそうやな。どうする?」
二人は顔を見合わせ、相手の言葉を互いに待った。
ここまで尾行してきたのだ、引き返すのは躊躇われた。
「中途半端だな。もう少し追ってみるか」
二人は冷たい空気を大きく吸い込み、風で波のようにさざめく草むらに足を踏み出した。辺りは月明かりだけだったが、意外と明るく感じる。見上げると、影絵で映したような遠近感のない雲の輪郭が宙に浮かんで見えた。
「この様子じゃ、初めて来る場所じゃなさそうやな」
確かにそうだ。歩くコース、曲がる箇所、辺りを窺う所、すべて決まっているように思える。もしかしたら、タバコを吸う場所もいつも決まっているのでは、とすら思えた。
いったい、この先に何があるのだろう。
考えを整理していたところで、荒ケンが腰を屈めて振り向いた。
「家の裏庭や。誰んちやろ?」
木立が開けた先に、青白く月明かりに照らされた、家の裏口らしきものが見えた。
木陰に隠れて様子を窺う。明かりが漏れた窓に、ウィリーの後ろ姿が重なっている。
「アイツ、中を覗いとるぞ。出歯亀かいな」
「まさか。知り合いに会いに来ただけじゃねぇの?」
「そやけど、全然入ろうとせんで、おかしいやろが」
変と言えば変である。ジッと盗み見るでもなく、ただタバコを燻らせながら、少し離れた場所で佇んでいるのだから。だいいち、尋ねに来たのなら表のポーチの方に廻って、ベルを鳴らすはずである。
そうやって五分ほど経っただろうか。明かりに浮かび上がった横顔が一瞬変な表情をしたあと、タバコを枝に押しつけてもみ消し、裏口のドアに投げつけた。そして振り向きざまに唾を吐き、足早にその場を去った。
「なんや、アイツ。何もせんと、変なヤツやな」
彼の姿が完全に見えなくなるのを待ってから、二人は忍足で窓に近づいていった。
芝生に映っている窓の明かりを避け、横に生えている木の陰から遠目に覗くと、そこはリビングルームのようだった。テレビの光が反射しているのか壁の色が時々変化し、小さくジャズのようなピアノ演奏の音が聴こえる。
「……。なんかまずいんじゃない?」
晃二の目に映ったのは、男女がソファーでくつろいでいる光景だった。
男性は黒人で、Tシャツ短パン姿で足を組み、瓶ビールをラッパ飲みしている。一方、男にもたれかかって座っている女性は日本人らしく、スカートから見える白い脹ら脛が艶かしかった。
年の頃は判らないが、女性は自分の母親くらいの年齢に思えた。男の方が少し年下に見える。どうやら、密会の場面に遭遇してしまったらしい。
二人は特に何をするでもなく、テレビの内容でも語っているのか時々笑っていた。でも、二人はどんな関係なのだろう。変な憶測が頭を掠める。
「覗き屋みたいで、なんか気分悪りぃな」
ほんの一、二分ではあったが、晃二は重い塊が喉元を上がってくるような不快感に襲われた。確かに、見つかったら警察に通報されてもおかしくないのだ。さっきまでの刑事気取りの気分が一変して犯罪者の立場に追い込まれた気がする。
「さぁ、見つからんうちに引き上げるぞ」
後ろめたい気持ちを振り払うように、二人は走ってその場から離れた。
それにしても、何故ウィリーはこんな所まで来たのだ。
「なんやったんやろ、アイツの知り合いか? 理由わからんな」
そのとき、晃二はハッとなった。もしかして、ウィリーの母親なんじゃあるまいか?
いや、彼の母親に違いない。そう考えるのが自然と言うより、それ以外には考えられなかった。だからあんなに嫌悪を剥き出しにした表情をしたのだろう。
草むらを抜けて道路に出ると、青く染まった坂の途中に街灯に照らし出された長い影が見えた。
「もしかして……アイツのお袋じゃないのかな?」
晃二が立ち止まって言うと、荒ケンは家の明かりを振り返った。
「彼はずいぶん前から知っていて、時々様子を見に来てたのかもしれないな。でも母親はそれを知らなくて…だから黙って引き返したんじゃないか」
しかし彼は、母親の屈託のない笑顔、そしてあの和やかな状況を見て何を感じたのだろう。安心か、憧れか、はたまた妬みや憎しみか? 自分の存在しない家庭を見て何を思ったのか気になって仕方なかった。
「……かもな。ヘッ、母親なんかそんなもんだ」
荒ケンには母親がいないことを思いだし、晃二は口を挟むのを止めた。両親が仲良く、家庭内に特にこれと言った問題もない自分が何を言ってもズレがあるように思えた。
「アイツもムシャクシャしとんや。分からなくもねぇがな」
荒ケンが彼のことを普段から咎めず、一個人として認めるような言動をしてきたのは、人種や家庭という問題の共通点に気づいてのことだろうか。どことなく同じ匂いがすると自分でも感じていたからではないだろうか。
返す言葉を探していたとき、鋭い音が辺りに反響した。
ウィリーがゴミ置き場の一斗缶を蹴り倒した音だった。
「晃二よ、これは二人だけの秘密にしといた方がええな」
ボソッとした声にかぶって、遠くからバイクの派手な排気音が近づいてきた。
小さくなっていくウィリーの姿を見つめて無言で頷くと、坂の向こうからバイクが現れ、ヘッドライトが彼の後ろ姿を一瞬浮かび上がらせた。
十一月に入り、時折木枯らしが吹くようになってきた。気がつくと、校門横の銀杏の木も、砦の崖上の原っぱも、ハウスの基地周辺の森も、色や姿を変えつつあった。季節はそうやってそっと忍び寄っては、皆に気が付かれないように毎日少しずつ景色に細工を加えているのだ。
真冬でも半ズボンで過ごしていた晃二たちでさえも、足の間を音を立てるように木枯らしが吹き抜けると、さすがに身体を縮ませていた。
ハロウィンの事件以来、予想通りジミーたちとの間に漂う険悪な空気が日増しに増大し、燻り続けているわだかまりと不満が爆発寸前であった。ただ、夏に起きた基地襲撃の犯人は彼らでないらしく、代わりに浮上してきた噂が、ウイリー犯人説である。
自分たちは信じなかったが、この事件のあらましを聞いた隣のクラスのヤツらが証拠もないのに耳打ちしてきた。やはりと言うか安直と言うか、見てもないくせに最もらしい仮説を立ててひと時の納得を得ると言うのはいかがなものかと思う。
ここのところいろいろと事件が絡み合い、複雑な心境になる日が多かった。偶然見てしまったウィリーの秘密。それも行き場のない懸案となって晃二の胸に引っ掛かっている。開けてどうなるわけでもないのかもしれないが、開封を禁じられた手紙を目の前にしたかのようであった。
自然とベース内を訪れる回数も減り、再び砦を中心とした行動半径に戻りつつあった。
いま思えば、夏の終わりから秋が深まる一歩手前まで、ボビーやダンたちと戯れていた時期が一番安らいでいたのかもしれない。
楽しい時間はそうそう続くものではないのだろうか?
晃二たちは、日が短くなっていくのと呼応するように、行動力が鈍ってきていた。
そんな、ある日の午後のこと。晃二とモレは、駄菓子屋の裏に積んであったジュースの空き瓶に、小便をひっかけている白人の二人組を見つけた。あまりにもえげつないので、見咎めて注意していたところに、ジミーの仲間が偶然通りかかったのだ。
彼らは因縁でもつけていると思ったのか、間に入って二人を引き離した。
「なんだお前ら。悪いのはそっちの方だぞ」
と言っても日本語が解らないのだ、伝わるわけない。
「あのな、俺たちはただ注意してただけじゃねぇか」
モレは事情を話すが、相手は顔をしかめるだけである。
向こうも何か言い返したが、こっちも解らないのだ、埒があかない。
原因となった二人は、どのようにこの状況を彼らに説明したのだろうか?
きっと誤解されたに違いない。捨てぜりふのような一言を残して、彼らは足早に去っていったのだった。
数日後、その些細な出来事が引き金となり、日米間の抗争がとうとう勃発した。あの日以降、お互いのテリトリー内で出会すと、いがみ合いが始まり、ひどい時には、制裁という形で手が出されるようになっていったのである。
やられたらやり返す、の鉄則に従い、こちらもだんだん過激になっていく。
ヤツらは、人数的に優位だと力を誇示するために囲い込んで脅しをかけてくるようになり、やがては無差別に奇襲するという汚い戦法で下の学年にもちょっかいを出すようになっていった。また、初めは少人数だったはずが、終いには十人近く集まるという大騒動に発展することもあった。時に、ヤツらはでっかい黒人を連れてくることもあり、さほど年は変わらないのだろうがアメリカ人は成長が早く身体もいいので、それだけでみんなびびってしまうのである。
お互いいきなり暴力を振るうことはなかったが、一線を超える日は近いのではと思われた。
そうなってくると、日米とも勢力を増大し、気の荒い連中は武器を隠し持つようになったのである。ただ脅すだけで特に危害を加えはしないが、物騒な会話も耳にするようになっていった。
一度、近所の団地の裏で総勢二十人が睨み合ったときは、酒屋の配達で偶然通りがかった友達の兄貴が、その場の空気を察して一喝したために難を逃れたものの、一歩違えば取っ組み合いになってもおかしくない状況であった。
そして、武器に関しても歴然とした差があった。それは特に、持っていたナイフである。
ヤツらはナイフをちらつかせながら近づいて来るのだが、そのとき握っているナイフが全然違うのだ。晃二たち日本軍の持っていたのは、工作の授業や鉛筆を削る時に使うボンナイフという、一個十円のぺらぺらしたモノだった。しかし彼ら米軍のモノは、飛びだしナイフだったり、刃渡り5インチもある代物だったのである。
さすがに、怪我をさせたら大事件だから斬りつけることはなかったが、これじゃ日本が戦争に負けるのも頷けるな、と思ったものだった。
実は晃二にはその鋭い切っ先を目の前に突きつけられた苦い経験があり、その顛末にも複雑な想いが絡んでいた。
十一月の中旬、放課後に罰則でうさぎ小屋の掃除をさせられた後。校門を出るといつの間にか空一面に鉛色の雲が垂れこめていた日だった。傘を持っていない晃二たち三人が家路を急いでいたときである。
突然、団地の路地から意味不明な英語を叫びながら、大柄の白人二人が血相を変えて走って来るのが見えた。初めは他の誰かを追いかけているのかと思ったが、振り返っても誰もいない。状況も理由も分からないが、良くない展開が頭に浮かぶ。多分待ち伏せしていたのだろう、我々を狙っての襲撃に思われた。
「やべっ。逃げるぞ!」
そう叫ぶと同時にダッシュしたウメッチに続いて、荒ケンと晃二も猛ダッシュした。
振り返ると、さらに加速して追いかけてくる。体格の差から追いつかれるのは時間の問題に思えた。
「よし! 分かれよう」
荒ケンは言うが早いか、狭い横道に逃げ込んでいった。
「おまえ、ハァッ、どっち行く、ハァッ、あそこ、左に行けよ。オレ右に、行くから」
「やだよ、ハァッ、あの先、犬が、ハァッ、いるじゃん」
息を切らしながら振り返ると、二人とも荒ケンの方に行かず、こっちに来てしまった。
「なんだよ。仕方ねぇ、南京墓まで行くか、ハァッ」
「それまでに、ハァッ、追いつかれちゃうよ」
残された手は、何処かの家に逃げ込むか、中国人墓地で墓に紛れて撒くしかない。そう考えていた二人の前に、無情にも工事中の看板が立ちはだかった。
「やべー、引き返すか」
しかし、一度立ち止まってしまったため、再び駆け出す余力はなかった。
「あっちゃー」
その場に屈み込んだ姿を見て、もう観念したと思ったのか、二人はゆっくりと近寄ってくる。片方はニキビ面の小太りで、もう片方は髪がオールバックでノッポだった。武器になるモノを探そうと、辺りに目をやるが、めぼしい物は何一つない。
「ヘイ、ユー」
肩で息しながらも、余裕を持って近づく二人に見覚えはなかった。
もしかすると、この前に泣かしたチビの兄貴かなんかで、仕返しに来たのかもしれない。力じゃ勝てないし、逃げるにも足が動かないしと、恨めしく睨み返している目の前でキラッとナイフが光った。
鈍色の刃を、これ見よがしに動かすたび、不気味な輝きが角度を変えて目を射る。少し前にも、モレが同じような目に遭ったのだが、晃二はそのとき切られたモレのジャンパーの袖を思い出した。
「晃二、わかったぞコイツら。横須賀のハイスクールに通っているジミーの仲間の兄貴だ。一度見かけたことあるぜ」
「ほんとかよ、仕返しを人に頼むなんてきったねぇな」
見せしめだとしたら、脅しだけじゃすまないかもしれない。嫌な予感で身体が強ばり、全身を逆流した血が駆けめぐるようだった。
ニキビ面の方が、何か喋りながらナイフを右手に持ち替えて近寄ってきた。
ガシッ。ナイフに視線を奪われていたところで、膝に蹴りを入れられた。
そのままバランスを崩して、うずくまったところでフックが脇腹に決まる。
くっそぉ。歯を食いしばって見上げると、ヤツはニヤニヤ笑っていやがる。
すぐ横ではウメッチがオールバックに羽交い締めされてもがいていた。目の前の二人はもちろん、卑怯な手を使ったジミーたちにも、怒りが込み上げてきた。しかし、為すすべはなかった。なんとか反撃に転じて、逃がれるチャンスを見つけるしかない。
「気を逸らすから、速攻で逃げるぞ」
小さくそう言って、晃二は上体を起こし、隙を見て相手の急所を蹴り上げた。
上手く入らなかったが、効果はあった。そいつが股間を押さえたところで、ヘッドロックしていたオールバックに体当たりする。
「よし、いまだ!」
そう叫んだ瞬間。ナイフが振りかざされ、晃二のシャツを掠めた。
晃二は息を呑み、一瞬全員の動きが止まった。
スッと冷たい汗がこめかみを伝わったが、どこにも痛みはない。どうやら大丈夫なようだ。
安心したのも束の間。早口の英語でがなり立てながら、今度は胸ぐらを掴んできた。
もうだめか。晃二は観念したが、途中で動きが止まった。
どうしたのだろう? 彼らの視線が自分ではなく、少し上の方を向いている。
不思議に思って振り向くと同時に吸いかけのタバコが投げ込まれた。
「ビートイット(失せろ)」
ドスの効いた低い声とともに南京墓地の崖をゆっくりウィリーが降りてきた。
白人たちは戸惑いを見せ、掴んでいた手を離した。しかめた顔を見合わせて、何か呟く。
内容は分からないが、弱気な声とそれを叱咤する声でのやり取りがあった後、ナイフをポケットに隠した。状況によっては、今度はその刃先が自分たちに向けられるかもしれないと思ったのかもしれない。
彼らは取るべき行動を逡巡しているようだったが、ウィリーが石垣を飛び降りようとするのを見ると、慌てて逃げ出したのである。
二人は突然力が抜けてその場にへたり込んだ。「助かったぁ」
地面に体育座りしたまま顔を上げて、自分の吐いた息でも見ているかのように虚空を眺めた。
混乱していた頭の中が収まってくるに従い、ナイフの恐怖が甦ってくる。
しかし、何はともあれ、お礼くらい言わねばと腰を上げたとき。
「お前ら、大勢じゃないと何もできねぇのかよ」
そう吐き捨てるように言って、ウィリーは苦笑した。
何と言われようと彼のおかげで助かったのである。
近寄りながらお礼を言うが何の返答もなかった。そして何事もなかったかのように振り向くと、サクサクと枯葉を踏み締める音だけを残して崖を上って行った。
普段と変わらぬ態度であったが、今日に関しては不快に思わず、二人はいつもの革ジャンが木々の向こうに隠れるまでその後ろ姿を目で追っていた。
昨年から、同じ黒人とのハーフのプロボクサーであるカシアス内藤に憧れて、ジム通いを始めた話をヤツらも聞いていたのかもしれない。だから、接近戦になる前に退散したのだろう。ファイティングポーズを取ることもなく、何もしていないが、噂通りの存在感と威圧感を目の当たりにした瞬間だった。もちろん、本人は別に助けたくて助けた訳じゃないだろうが。
「ウィリーに借りができちゃったな」
安堵と困惑の入り交じった表情で顔を見合わせていたら枯れ枝の間から雨粒が落ちてきた。夕暮れどき前の静寂さの中にタッタッと小さな音が聴こえ始め、少しずつリズムを早めてきた。
「とにかく、とっとと帰ろうぜ」
二人は傘がないことを思い出し、駆け足でその場を後にしたのだった。
この事件はモレを介して瞬く間にクラス中に伝わり、昼休みにも殺伐とした空気が漂い、ヤツらに対する闘争心剥き出しの罵声が飛び交っていた。いつのまにか他のクラスの耳にも入ったらしく、憤慨した連中が次々と状況を聞きにやってきた。
彼らの多くは、話の最後に「黙って見過ごしたらつけ上がるだけだ」「嘗められたらいかんぜ。復讐しねぇと」というような、慰めの言葉より煽る声を残していった。
最近のヤツらの振る舞いはちょっと見過ごせないことが多いと思っていたことに加え、実害はなかったにしても宣戦布告のような仕打ちを受けたのだ。当然の反応と言えばその通りなのだろう。翌日には「決闘で決着をつけるべきだ」いう声が圧倒的多数となり、にわかに全面戦争の様相を帯びてきていた。
その後も話はひとり歩きして勝手に膨らみ続け、「この際だからこてんぱんにやっつけようぜ」と助太刀を申し出てくる者が後を絶たなかった。ここのエリアは昔ながらの下町なので、血の気の多いヤツが溢れているのだ。このままでは、全員がバットやナイフを持って押しかけるに違いないと思い、やんわりと断った。
そんな大ごとになったらそれこそ一大事である。当事者である自分たちで何とかこの問題を解決しないといけないと考え、晃二らは五人だけで話し合いをすることにした。
「正式な決闘を申し込んでみるか。泥投げ合戦みたいなヤワな戦いじゃなく」
「ヤワじゃなくてもいいけど…痛いのは嫌だな〜」
「武器使っていいんなら鉄パイプとか手に入れようか?」
やはりいつもと変わらぬ個人的見解が先立ち、相談にも議論にもなりゃしない。
喧嘩ではなくあくまでも勝負とする。通報されるような大げさなことでなく、怪我人もなるべく出さないようにする。そして、しこりを残さない。といったポイントを重視して考えていく。
特に、これで終わりなわけでなく今後も顔を合わせることはあるので、できる限り後に遺恨を残したくなかった。それにアメリカン全員を目の敵にしているわけでなく、ちょっかいを出してくるヤツらに対してなのだ。制裁を加えると言うよりはお灸を据える、と言った程度だと自分は思っていたが皆それぞれに考えがあるようだった。
「これが原因でハウスに立入禁止になったら元も子もないわけだし、ボビーやダンとかも疎遠になっちゃうよ」
「それよっか、リサと会えなくなったらどうすんだよ。ジミーたちと俺たちだけの問題なんだから、他のヤツらは巻き込んじゃダメだぜ」
もっともである。他で仲良くしている連中には迷惑をかけたくない。
「じゃあ、誰かに間に入ってもらって仲裁してもらうとか…」
「誰かって、そんなヤツ周りにいるかよ」
「そこまで説得力っていうか、力のあるヤツなんていねぇだろう」
少し考えてみても特に見当たらない。知り合いで思い浮かぶ連中は決闘を主張しそうなヤツばかりである。
「じゃあさ、ウイリーに頼んでみれば?」小声で提案したブースケに冷めた視線が集まった。
「そりゃいい案だ、ってなわけねぇだろ! ヤツが関わるわけないだろうし、だいいち誰が頼みに行くんだよ。お前が行くって言うなら考えてやってもいいがな」
「……そんなぁ…。ただちょっと思いついただけだよ…」
一瞬、適任か、とは思ったが無理に決まっている。「お前らが蒔いた種なんだからお前らでカタつけろよ」と言われるのがオチであろう。相談だけしてみるにしても、これ以上ウイリーに借りを作るのは気が進まない。
「それなら、レジーとかはどう? 真面目だから真剣に考えてくれるかもよ」
「…レジーねぇ。確かに真面目でいいヤツだけど…」
交流会で隣同士になった彼とは、その後も顔を合わせることが度々あり、その都度相撲の話で盛り上がったりしていた。駄菓子屋で会ったりすると、お菓子の説明をしつこく聞いてくることが多く、外見によらず話し出すと止まらないタイプであった。大好物のキャラメルコーンを餌にお願いすることもできるかとは思ったが、やはり巻き込むのはまずいだろう。
「やっぱ、やめといた方がいいかな。彼ら同士の関係もあるだろうし」
最近の彼らの行動を見ていて気がついたことがあった。それは、白人黒人それぞれ別行動をしていることだった。低学年のうちは一緒に遊んでいるのだが、ある年齢を越えると少人数のグループに別れ、遊び方も変わっていくようだった。白人はローラースケートや自転車が多く、黒人はバスケやアメフトが多かった。自然となのか、意識してなのか、はたまた違う理由がそこにはあるのか分からないが、きっと自分たちにはない特殊な見えない何かがあるような気がしていた。
肌の色が同じ日本人でさえ考え方や生活習慣の違いで言い合うことが多いのだから、あって当たり前なのだろう。特に横浜のこの界隈は、丘の上には欧米人が多く、麓や中華街などにはアジア系が多く住んでいたので、他の人種に対する考え方や接し方の違いを多く目にしてきた。差別なのか区別なのか分からないが、それ相応の立場の大人が事も無さげに他の人種を批判するような言動を目の当たりにして驚いたものである。おそらく国民性やら歴史背景やら、経験上でのことがあるのかもしれないが、その根底にある原因だか理由だかは分からないし、これと言って知りたくもなかった。
「レジーだって白人のいざこざに巻き込まれたくないよ、きっと」
晃二の言葉に何となく想像できたのか、みんな納得している様だった。
結局、仲裁はあきらめて勝負を挑むことになった。とは言え、何でどう勝敗をつけるのか、なかなかいいアイディアは浮かんでこなかった。
いくつか提案された中で多くの賛同を得たのが、スポーツの要素を取り入れた競技にして勝負すると言う案であった。
「じゃあ晃ちゃん、やっぱ野球かな?」
「それもありだけど、ただの試合じゃ芸がないかな…」
野球でも構わないとは思ったが、これまでに何度か試合をしているので、今回は別の競技がいいような気がしていた。
「なら、格闘技はどう? 相撲とか柔道とか、プロレスとかさぁ」
「おお、ウメッチ、たまにはいいこと言うじゃん。やったことないけど、面白そうやな」
荒ケンが言う通り確かに面白そうだが、観戦するのは得意であっても、やるにあたっては素人同然だった。
「柔道とかはルールがよく解らないからさ、相撲かプロレスがいいんじゃない?」
「それならすぐ決着する相撲がいいよ」
ブースケは、あまり怪我がなくすぐに勝負がつくことと、自分の体型にあっているとでも思って提案したのだろう。だが、簡単に終わるのもあっけないものである。
「それよっか、プロレスだろうよ。こっちは全日本プロレスで馬場と猪木と鶴田で、あっちがデストロイヤーとファンク兄弟だな」
「それ最高! 荒ケンが猪木で、晃二が鶴田。そんでウメッチが馬場で、俺がミル・マスカラスだな」
「モレ、それじゃオレが抜けているじゃん」
「忘れてた。ブースケは悪役だからブッチャーだな。火でも吹いて場外乱闘してろよ」
爆笑するも、よくよく考えてみれば日米ともに人気があるプロレスならアイツらも承諾するかもしれない。確かに相撲の方が勝負の結果が分かりやすいとは思うが、今回用のルールさえ決めれば、取っ組み合って相手を叩きのめすプロレスの方が適しているだろう。
「相撲より格闘技らしいし、柔道より技の掛け方を知っているからいいかもね」
「お前は、ろくすっぽ四の字固めすら出来ないくせに、よく言うよ」
モレはブースケを詰りながらヘッドロックをかました。
「そうやな。誰かに見つかっても、プロレスごっこをしているって言えば喧嘩とは思われないしな」
「じゃあ荒ケン、その線で試合の進め方を考えてみようか」
一応、決闘の種目が決まり、あとは先方が納得するような内容やルールと、それを承諾させる方法を練るだけである。
「怪我は禁物だから武器はなしだぞ。素手で勝負だからな。モレ」
「なんだよ。せっかくなら金網デスマッチとかでもいいと思っていたのにさ」
「バカかお前は。どうやって金網を周りに張り巡らすんだよ」
今度はモレがウメッチにエルボー・ドロップを食らわされた。
「まぁまぁ、まずは試合形式だな。5対5での全員参加とするか、1対1か2対2だな」
「五人のタッグマッチだと、弱い奴の出番はほとんどないから、2対2の2試合、それと最後は大将戦での1対1ってのはどうよ?」
十人全員が同時にリングに上がるバトル・ロイヤル方式でという案も出たが、結局のところ、2つのタッグマッチとシングルマッチの3試合で、2勝した方に軍配が上がるという形になった。
「おぉ、いいんじゃない。組み合わせ次第でなんとかなるかもな」
「ラストは荒ケンとジミーのメインイベントかぁ。なんだか盛り上がりそうだな」
「アホ抜かすな。ウメッチはテレビの見過ぎや、盛り上げてどうすんだよ。観客もいねぇのに」
「まぁいいじゃん。因縁の対決ってことでさ」
「でも、問題は他の2組をどうするかだな」
本来ならは戦力として期待できないモレとブースケの代わりに誰か腕っ節に自信があるヤツを入れたかったが、今回はこの五人でなければ意味がない。ハンディはあるが仕方ない。
「モレとブースケのタッグだと負けるのは見え見えだから、モレとウメッチ、ブースケと俺って感じかな?」
「いいけど…。オレは自信がないからすぐ晃ちゃんにタッチするんで、よろしくね」
「バカ言うんじゃねぇよ。技なんていいから、しがみついて倒して、そんで上に乗っかれよ」
「ハハハ。お前の唯一の武器は体重なんだから、それしか勝ち目はねぇな」
「うるさいぞモレ。お前なんか逃げ回るだけしか能がないくせに」
二人の得意技、貶し合いが始まりそうになり、晃二はルールの取り決めの相談に移った。
「でも、ロープはどうすんだよ? 無いとプロレスにならねぇぞ」
「そりゃ欲しいけれど、本物みたいのはちょっと無理だろうな」
「そんなら、親父が工事現場で使っているロープと杭で囲ってリングみたいにしよっか?」
荒ケンが内緒で持ち出してくる長めの杭に、黒と黄色の標識ロープを張って囲うことでなんとかなりそうだった。もちろん形だけなので、ロープの反動を使うことは出来ないが、技から逃れるロープブレイクができるだけでも充分である。
最終的に決まったのは、各二十分一本勝負。3カウントかギブアップで終了。決着がつかなければ勝負が着くまでの延長戦。投げ技、絞め技、関節技はいいが、素手で殴る、髪を引っ張る、目潰し、噛みつき、引っ掻きは禁止。もちろん、急所蹴りや凶器使用、タッチなしの乱入はご法度である。
とは言え、誰もが見様見マネのエセ技しかできないので、試合内容は高が知れているだろう。
「それで、勝ったら何が貰えるのさ。それと、負けたらどうなるさ?」
「勝ったって何も賞品はねぇよ。ただし負けたら…」荒ケンは、そう言って晃二の顔を見た。
「そうだな。勝ったら名誉が与えられるだけだけれど、負けたらそれなりの罰がなきゃな」
「じゃあ、一生奴隷になって命令を聞くとか、丸坊主にするとかはどうよ?」
モレの、漫画の世界に浸りきった極端な発想は相変わらずである。もしこちらが負けたら自分たちがそうなるとは考えが及ばないのだろう。勝ち気満々なのはいいが、あさはかである。
「なにもそこまでしなくてもいいよ。土下座して「負けました」と頭を下げるとか、これまでちょっかい出してすみませんでしたって一筆書いてもらうとかで」
「土下座でいいんやねぇの。それだけでも屈辱だしな」
「そうだな。そもそも、奴らの振る舞いが度を越してきていることを正して欲しいだけなんだからさ。それに変な恨みでも持たれたら後々良くないからね」
まぁ、あと腐れなく済むかどうかは、いま考えても無駄であろう。お互いが公平と思える条件で、それに従ってやればいいと考えたまでである。
最終的なこちらの条件は、メンバーは助っ人なしのいつもの五人。取り決めした反則をしたら負けで、その試合は終了。そして、負けたら土下座して地面に頭をこすり付けて負けを認めること。
それら、試合形式やルールを書き入れた書面と、果たし状を彼らに渡して欲しいと、夕方ボビーに連絡した。ついでに、ダンと二人で当日のレフリーをやって欲しいというお願いも一緒に。
そして三日後の日曜日。ちびっこ広場で野球の練習をしているところに、ボビーが返事を伝えに来てくれた。
「ジミーたちはオーケーだってさ。面白そうだから受けて立つって言ってたよ」
ボビーは、なんでそんなことをやるのかは解っていない。ただ遊びの一環で試合するだけだと思っているのだろうが、その程度で構わなかった。かえって、これまでの遺恨を果たす日米の決戦だなんて聞いたら怖気付いてレフリーを辞退したかも知れないので。
「ボビーはプロレスってたまに観たりする?」
晃二が尋ねると、目を大きく見開いて「I Love It(大好きだよ)」と嬉しそうに答えた。
「じゃあ、試合の進め方とかルールとか解るよね」
「普通の3カウントのタッグマッチでしょ、解るよ。でも、ファール(反則)とかは決めておかないといけないよね」
好きなレスラーを訊くと、特に覆面レスラーが好みで、ミル・マスカラスやデストロイヤーのファンだった。最近は本国のスポーツ雑誌で注目されているスタン・ハンセンを応援しているらしく、意外なことに渡米した上田馬之助のファンでもあった。テレビでもよく観ているとのことで、晃二たちよりもレスラーに詳しかった。
性格上、フェアなジャッジをすると思えるので、レフリー役にはおあつらえ向きである。
試合運びや反則を含めたルールを説明すると、細かな質問を投げかけてくる。多くは反則に関してで、この場合は反則負けにするかなど、過去のテレビでの試合を持ち出して興奮気味に訊いてくるところなど、普段では見られない姿に意外さを感じた。
大体の擦り合わせがすんだところで、ボビーが言い忘れた、と言って先方が受け入れるための条件を提示したことを最後に付け加えた。
今回の決闘の承諾条件は、場所をベース内の空き地にすることと、負けたら二度とベース内には立ち入らないこと、ということであった。
試合会場は問題ないとして、負けたらベース内で遊べなくなる、となるとこれは問題であった。そんなことならモレが提案した、丸坊主にする、くらいの罰を提示しておけば良かった、とは思ってももう変更も撤回できないのである。円陣を組んだ五人は、意を決した表情で顔を見合わせると「絶対に負けられないからな」と声に出して必勝を誓い合った。
決闘当日、授業が済んだあとの終わりの会のとき。モレとウメッチは掃除当番を代わってもらう段取りをつけ、日直だったブースケは日誌書きを女子に押しつけ、そそくさと帰りの支度を整えて、今日に限っては真面目に席に着いていた。
先生の説教も特になく、最後に親に見せるように言われて渡された藁半紙には、中学進学に対する意見書と書かれていた。
卒業まであと四ヶ月。まだ先のことに思えたが、きっとあっという間なんだろう。進路なんて自分では決められりゃしない。みんなと同じ中学に行きたくても、叔母の赴任している私立の中学を受験させられるのだろう、と晃二はやるせない思いで用紙を畳んでカバンに放り込んだ。
待ち望んでいた終業のチャイムが鳴ると、五人は周りをキョロキョロ見回しながら下駄箱に向かった。その日は午前中から皆どこか落ち着かなかった。秘密裏でのことなので口外禁止だったことがさらに特別な意識を植え付けていたのだろう。
ちょうど上履きを履き替えているとブースケが追いついてきた。直接ちびっ子広場に集合することにしていたが、逸る気持ちからか、学校を出る前にすでに五人全員が揃っていた。
「さぁ、行くぞ。早いとこ片づけちまおうぜ」
「オレらにしてみりゃ、赤子の手を捻るようなもんだよな、晃ちゃん」
対決を楽しみにしているような台詞だが、ブースケのは明らかに見栄を張った空元気に聞こえた。
ちびっ子広場に着くなり、いつもの町内会の物置裏に荷物を隠す。六年生にもなるとランドセルを背負っている者は少なく、それぞれお気に入りのカバンやブックケースで登校していた。その中で一番多いのがアメリカンフットボールチームのマークが入ったモノで、中でもスーパーボールを2連覇しているマイアミドルフィンズが一番人気であった。
「モレとブースケは腹にこれでも入れとけよ。鎧代わりになるぞ」
ウメッチは教科書を出して二人をからかうが、ブースケは「なるほど」と本気にしていた。
「こっちから言い出したんだから、武器は全部置いてけよ」
そこでモレが顔をしかめてゴソゴソとポケットから出したのは、ボンナイフ、2B弾、爆竹だった。
「お前、一体なんに使うつもりや、そんなもん?」
「えっ、場外乱闘になったら投げつけようかと思ってさ。念のために持ってきただけだよ」
やれやれ。晃二が溜息をつく傍から、ブースケは申し訳なさそうにパチンコ玉を出した。
「しょうがねぇな。みんな、余計なもんはこの袋に入れとけよ」
晃二は物置の隅に積み上げられたカバンの上に給食袋を広げて置いた。
準備が整ったところで、ベースに向かって出発する。
大体の打ち合わせはできていたし、細かな注意は歩きながらすればよい。まぁ、作戦と言ったって、技はヘッドロック程度しかできないのだ、戦略もへったくれもない。それに相手タッグの面子を見てみなければ戦い方は分からないのだし。ただ、モレはまぁいいとしても、ブースケのことが多少気掛かりだった。しかし、気にしてどうなるもんでもない。
「ロープの反動が使えないから、組み合っての戦いになるだろうな。だから息が切れたらすぐタッチして交代しろよ」
そう注意すると、ブースケは「オレはどうすればいいのかな」と弱々しく訊いてきた。
「なにを今さら言ってんだよ、ボケ。この期に及んで怯むなよ。なんでもいいから食らい付け。そんで羽交い締めにして倒して上に乗っかれ。お前の体重なら3カウント取れるかもしれねぇぞ」
「そう言うけどさぁ。じゃあモレはどうやって戦うのさ」
「俺は機敏に動き回って相手を撹乱して、それからバックドロップを決めてそのままフォールだな」
本人はその気でも無理があるのは見え見えである。走り回るのはいいが、ヘトヘトになったら不利だから注意しろ、とだけ晃二は伝えるに留めた。
「みんな本気でやんなきゃダメだぞ。ハロウィンの恨みもあるんだしな」
ウメッチにはウメッチの拘りがあり、荒ケンと晃二もまたしかり、である。
晃二は兄貴に頼んでまで脅しを掛けてきた、彼らの根性が気に入らなかった。
指示された空き地に着くと、約束の三時ぴったりであった。林からジミーたちが現れたのもほぼ同時だった。
「逃げずにちゃんと来たな。まぁそれだけは誉めてやるよ」
ウメッチは吐き捨てるように言って肩を揉みほぐした。すでに戦闘体制に入っているぞという意思表示のつもりらしい。
すぐさま、晃二は品定めするように連中の体格をチェックした。これまでまじまじと見ていなかったが、全体的に身体は自分たちよりもでかく、五人ともお揃いのユニフォームを着ていた。おそらく所属するバスケチームのものだろうが、初っ端からちょっと差をつけられた気がした。
「こんな場所選んで、罠でも仕掛けてあんじゃねぇだろうな」
ウメッチは、自分だってここの住人だから下手な真似したってすぐばれるぞ、という意味も込めて言った。じっくり辺りを窺うが、特に怪しげな様子は見当たらない。さすがに子供じみた手は使ってこないだろう。
教会裏の林の間に小さくぽっかり空いた芝生の中央に、五メートル四方のお手製のリングがドンと構えている。昨日の夕方、晃二と荒ケンが杭を打ってロープを二段に張った自慢のリングである。何に使うかはさて置き、可能ならこのまま残して欲しいと思うほどの出来栄えだった
「反則したらその時点で負けだからな、わかってんだろうな、ジミー」
信用できないので確認すると「お前らこそ汚い手を使うなヨ」と言って唾を吐いた。
レフリー兼通訳として来ていたボビーとダンは、時計と警笛ラッパを手にしてすでにリングサイドに待機している。
三メートル程の距離を取って正面から向き合い、タッグの順番とメンバーを発表する。
1組目はモレとウメッチの組と、相手側は若干小柄な二人、この取り組みとなった。相手の一人は金髪で小太り、もう片方は夏に戦った泥合戦のときに怪我をしたメガネ野郎だった。二人とも身体付きは大したことないため、勝ち目はありそうに思えた。
互いにジャンパーを脱ぎながら両サイドに分かれ、ウォームアップをする。
出番が最初のモレに、テレビで見る大技は出来っこないからタックルか頭突きで攻めろ、と言うと「いや、ブレンバスターならできるかも」との答えが返ってきた。各自、技のかけ方は研究してきたらしいが、素人では持ち上げるだけでも無理であろう。仕方なく好きにさせることにした。
「よっしゃ、じゃあ二十分一本勝負。さぁ始めようぜ」
荒ケンが開始の合図をすると、ボビーは腕を高々とあげてゴング代わりの警笛ラッパを鳴らし、ダンは時計のボタンを押した。
いよいよかと思った矢先、いきなりモレが奇声を上げながら跳び蹴りから入っていった。彼らしい先制攻撃ではあったが、難なくかわされ、勢いそのままロープを越えそうになる。本来なら反動を使って再び飛び蹴りかタックルでもしたいところだが、動きが一旦止まってしまう。
「くっそー、よけやがったな」次はそう叫びながら相手の腕を掴みにかかった。
相手の金髪がそれを受け、組み合いとなる。互いに相手の肩に頭をつけ、首や腰などに腕を移動させて優位な体勢に持ち込もうとしていた。そうやって、しばらくもがいていた状況が続いたが、足をかけられてバランスを失った金髪が倒れ込んだ。
「いいぞ、モレ! そのまま後ろからスリーパーホールドだ!」「いや、逆エビ固めだ!」
リングサイドから様々な指示や歓声や罵声が飛び交う。テレビと違って目の前で、しかも自分たちがやっているのだから盛り上がらない訳がない。両軍とも興奮して声を張り上げていた。
モレの腕が相手の首を捉え、上手く絞め技が決まりそうだったが、かけた場所が悪かった。金髪は腕を解こうともがきながらも少しずつロープに擦り寄り、結局ロープブレイクになってしまった。ボビーは二人を引き離し、リング中央へと移動させた。
「うわぁ、惜しかったなぁ。でもいい感じだぞ」「立ち技よりこっちの方がええな」
モレは大きく息をしながら頷き、再び中央で睨み合った。
次はお互いに距離を取り、エルボーやローキックの振りをしながら牽制し合っている。
するとその隙を突いて金髪がタックルしてきて、今度はモレが後ろに倒れ込んだ。再び歓声が湧き上がる。
「モレ、早く立て!」「ウメッチにタッチだ!」
声を上げるが、金髪は素早く馬乗りになり、チョップを続けざまに繰り出してきた。何発か食らいながらもモレは金髪の両手を掴んだ。それはそれでよかったのだが、両者とも手が使えない状態となってしまう。揉み合いの状態が続くが、下になっている分、モレの方が分が悪かった。
しかし、モレはそのままの姿勢で芝生に背中を擦り付けながらコーナーににじり寄り、なんとかウメッチにタッチできたのだった。
それを見た金髪は、素早く起き上がるとコーナーに駆け寄り、メガネにタッチした。
交代した両者は、睨み合ったまま両手を上げて中央に寄り、ガッチリ指を組み合わせた。プロレスの冒頭でお馴染みのシーンだ。本来は力自慢のレスラー同士がやることだが関係ない。真似だけでもいいから自分もレスラーの気分を味わってみたかったに違いない。
そのまま組んだ手を腰の位置まで下げ、二人とも歯を食いしばって力んでいる。手首を返されると辛いのはみな承知だったので、日本語、英語、混じり合った応援の声が飛び交う。
しばらく持久戦となっていたところで、木陰から三人の白人が現れた。試合に夢中になっていた晃二だったが、ふと疑問を抱いた。偶然だろうか? それとも知っていて見に来たのだろうか?
そのとき、メガネがウメッチの胸に頭突きを見舞わし、体勢を崩した二人は芝生に倒れ込んでしまった。すぐさま膝立ちになり両肩を掴み合って力任せに押し倒そうとする。もみ合ったままお互い立ちあがろうとしたところで、ウメッチが身体を捻ってヘッドロックを決め、形勢を有利に持っていった。相手は前屈みで踏ん張ることもできずにうめき声を出すだけだった。
「よし、そのまま捻りあげろ。ギブアップさせるんだ」
荒ケンの声にニヤッと笑って親指を立てたウメッチは、リング中央まで移動して反対側の手を相手の脇に入れた。できればそのままコブラツイストに流れて決めたいとでも思っているのだろうか。だが、下手に腕を入れ替えたことで技が解けてしまった。すぐさまかけ直そうと出した腕をすり抜け、顔を真っ赤にしたメガネはコーナーに倒れ込むようにして金髪とタッチをした。
「なにやってんだよバカヤロー。せっかくのチャンスだったのに」
無理な大技は狙わず、きっちり決めて欲しかったので、味方の罵声はごもっともである。
交代した金髪が腕を大きく回すと、見物に来たらしい白人たちが早口の英語で声援を送った。盛り上げ方が板についてカッコいいなと感心するが、何となく不利になった感もある。
金髪がリング中央に寄り、威嚇するようなポーズを取ると再び歓声が上がった。それに応じるように、ウメッチは軽いフットワークで蹴りとパンチを繰り出した。さながら漫画のキックの鬼のごとく、といったところか。
今度は接近戦を避け、ローキックの応酬となる。軽い蹴りが互いの腿に入り、小気味良い音がした。
両者牽制し合っているところで、今度は黒人四人が現れ、リングサイドの奴らとハイタッチをしている。我々だけの秘密で、とは言っていたが、奴らは守らずに周りに声をかけたのかもしれない。これ以上増えたらかなり戦い難くなることは間違いない。なんだか予想外のことが起きそうで晃二は心配になってきていた。
リングではキックや空手チョップの力が増し、当たったときの音も派手になってくる。ウメッチは延髄蹴りでもかまそうとしているのか、ハイキックを連発していた。その後は組み合うも、技をかけるまでには至らず、掴み合いが続いた。
開始して十五分。疲れが見え始め、なかなか攻撃に転じられない状況を変えるためにウメッチはモレとタッチをした。それを見て向こうも選手交代をする。
またも英語の罵声や指笛が鳴り響いているなか、突然後ろの林から「こっちだぞ」という声が聞こえた。晃二たちが振り返ると、小走りに数人が駆け寄ってくるのが見えた。目を凝らすと、それは知った顔だった。
隣のクラス、1組の番長の秀夫と子分の岸田、それに3組の番長のシローと仲間の二人。見物に現れたのは当初助太刀しようかと声をかけてきた奴らばかりである。港湾で荷揚げをしている、気性の激しい親父譲りなのか、短気で喧嘩っ早く腕っ節には自信があると豪語している連中だった。
「誰か他の奴に教えたか?」と訊くも、みな首を振って目をしかめている。
まぁ、誰が漏らしたのかは想像できた。きっと教えるというよりかは、性格上黙っていられなかったのに違いない。
リングサイドに来た五人が水臭せぇなと言うのに対して、晃二はこれは喧嘩でなく試合なのだと説明するも、果たしてちゃんと理解したかは判らなかった。
観客が増えたことで俄然盛り上がってきたリングに目を戻すと、モレは軽く跳ねながらエルボー・ドロップやラリアートのポーズを取っていた。
「そんなのいいから、さっきみたいに倒せよ」
荒ケンの指示に混ざって「いや、パイル・ドライバーだ」「ジャーマン・スープレックスだ」などの声が飛ぶ。その新規観客が囃子立てる煽てに乗ったモレは、調子づいて叫び声を上げながらメガネの両腕を抑え込んだ。そして柔道の組み手のように肘を掴んだまま左右に身体を捩るが、相手の方が体重があるので思うように倒れてくれない。体格が劣る分、不利に感じられた。
周りの歓声が高まってくるなか、ちょっと油断した隙に足を払われ、モレは背中から倒れ込んだ。一瞬呼吸が詰まったのか、苦痛の表情をするが掴んだ手は離さなかった。しかし背中を押しつけられたまま、膝げりを三発続けて腿に入れられる。上半身が動かせないのでやられる一方だ。これでは攻撃もできないが、相手も抑えた手は離せず、しばらく膠着状態で睨み合いが続く。
このままだと体力が消耗したところでフォールされてしまう。だが、形勢を逆転しようにも、モレは焦って足をバタバタ動かしているだけだった。
やがてメガネは抑え込んだ腕を首にずらし、締め上げながらモレの両肩を地面に押し付けた。
そこでボビーが膝まづいてカウントを取った。
「ワン、ツー…」一緒になってアメリカチームは声を上げる。
もうダメか…。晃二たちが諦めかけたとき。モレは力を振り絞ってブリッジをした。
両サイドから大きな歓声とため息が上がる。本物のプロレスのような展開だった。
そこで落胆したのか、メガネの押さえ込みが弱まったところで、モレはここぞとばかりに踏ん張って足を上げ、首をカニ挟みしようとした。
「よしゃ!」日本チームが一斉に大声を上げた。
その応援が後押ししたのか、両足は上手く相手の顎に引っ掛かってくれた。
反動をつけて後ろに半転させ、すかさず腹の上に跨り今度はモレが相手の動きを封じた。
そのまま膝蹴りをお返しに数発、横っ腹に食らわす。俄然有利な体勢に思われた。
だが、相手も黙ってはいない。モレの両襟を掴んで引き寄せながら起きあがろうともがいていた。引っぱる力と離そうとする力が均衡していたが、段々と歯を食いしばった二人の顔がにじり寄ってきた。それを見た観客はさらに興奮度が高まり、誰もが大声で叫んでいた。
その力勝負に勝ったメガネは、上半身を起こした瞬間、右手を大きく払うようにしてモレを薙ぎ倒した。しかしモレは掴んだ手を離さなかったため、両者は転げるようにしてロープを越えて場外に出てしまった。
「アウトサイド!」ボビーは大声で警告して中断すると、両者を引き離した。
歓声とブーイングが入り混じるなか、二人は喘ぎながらもリングに戻るために立ち上がった。そろそろ二十分になるから延長戦に入るのだろうと誰もが思っていたそのときであった。
フラフラな足取りでロープに近づいてきたモレを、横にいた黒人がワザと足を引っ掛けて転ばせたのだった。
それを見て笑いながらはしゃいでいる連中に日本軍一同が切れた。
「なにしやがんだ、この野郎」
最初に黒人に駆け寄って胸ぐらを掴んだのは観客だったシローだった。
いきなり殴ることはなかったが、興奮しながら首元を締め上げて「謝れっ」と詰め寄っていた。モレとシローは同じアパートに住んでいる幼馴染だったので、おそらく彼への侮辱が許せなかったのだろう。
そこで止めに入ろうと、ジミーが後ろからシローを羽交締めしたのがさらに火に油を注いでしまった。それを見た秀夫がそのジミーの髪の毛を掴んで引き離そうとし、周りの連中も加わって仲裁が制裁に変わっていった。
「goddamn(ガッデム・畜生)」
ことの発端となった黒人が、血走った目で大声を上げたところで、両軍入り乱れての場外乱闘が始まってしまったのである。
思わぬ展開であった。どうやら、やっている側以上に観戦側が興奮していたらしく、ウズウズしていた気分をやっと発散できると思っているようだった。
ここまでルールに乗っ取り反則もしないで進めてきたのに、多くの連中は髪を引っ張ったり素手で殴ったり、お構いなしだった。皆、誰それ関係なく近くにいる奴に怒鳴り声を上げながら襲いかかった。その居丈高な台詞の内容は様々だが、単なるいちゃもんに過ぎず、戦闘意欲を煽るために叫んでいるだけのようだった。
すぐに乱闘はいくつかの固まりとなり、晃二は秀夫と共に観客の白人二人を相手することになった。隣ではジミーと荒ケンが取っ組み合っている。
突然の喧嘩となったが、格闘技の研究をしてきたためか、晃二たち五人の動きにはプロレスに近い組み技が多く見られた。
モレはジミーの手下に、先ほど決まりかけたスリーパーホールドをかけていて、ブースケは言われた通り、寝転がったまま黒人のチビを羽交締めにしていた。傍目には抱きついているだけにも見えるが、このまま寝技のように締め付ければ効果はあると思えた。
さすが、喧嘩慣れしている秀夫は次から次へと蹴りやパンチを繰り出し、倒れた一人に馬乗りになって、頭を抱え込んだ手の上から肘鉄を見舞わせていた。一方、人を拳で殴るのに抵抗がある晃二は、相手の両耳を掴み、引っ張りながら頭をガンガン地面に打ち付けた。この耳引っ張りは、続けざまにやられると想像以上に痛いものなのである。
その勢いと威圧感にたじろいだ白人二人は、早々に戦意喪失してその場を離れた。これで人数的には五分と五分である。他の集団を加勢しようと周りに目をやる。
荒ケンがジミーにヘッドロックをかけ、肘打ちをしていたが、この二人は一対一なので放っておくことにして、手こずっていそうなウメッチとシローたちの集団に飛び込んでいった。
割って入るように一人の背中に飛び膝蹴りを食らわし、羽交い締めされていたモレから引き離す。
顔に引っ掻き傷をつけた岸田は、助っ人を歓迎するようにニヤッと笑って余裕をみせた。シローも片目を充血させて、相手の顔面を両手で鷲掴みしている。すぐ後ろでは、ウメッチが足を取って技のかけ合いをしていた。この期に及んで、四の字固めでも決めようとしているのかもしれない。
やがて、大所帯となった乱闘はバトルロイヤルのような様相に変わってきていた。途中で相手がコロコロ変わったり、組み合っているところに横から蹴りが入ったり、身近な敵に誰それ構わず暴力を撒き散らしていた。
フォール負けも判定もないが、力尽きた者、身体を痛めた者は自ら戦いの場を離れ、芝生に転がり天を仰いでいるか、うずくまっていた。そうやって徐々に人数が減り、残っているのは、体力に自信がある者やダメージの少ない者だった。
しばらくすると、最後の力を振り絞って頭突きや腿蹴りを繰り出していた連中の息が上がって動きが鈍ってきていた。ひと休みしたいところだが、そうも言っていられない。残る人数はこちらが六人に対して米軍は四人。
そこで荒ケンはジミーを突き放して「まだ続ける気かよ」と吐き捨てるように言った。
とは言え、この場で決着しない限りは、暴走した抗争にピリオドを打つことはできないだろう。 そんな、降参を促すようなセリフに対し、ジミーは「Kìss my áss !(クソ喰らえ)」と叫んで立ち上がり、唾を吐いた。その唾には赤いモノが混じっていた。
その一言で決闘は後半戦に入った。再び一団となって取っ組み合う。
躊躇っている暇はない。晃二は組み合ってすぐ、頭突きを喰らってしまい、身体を仰け反らせた。鼻の辺りがツーンとして、生温かいものが伝わり落ちるのを感じた。
「くっそぉ、ぶっ殺してやる」
手の甲についた血を見た晃二が、いきり立って相手の髪の毛をひっ掴んだところで背中から大きな声が鳴り響いた。
「ストップ。お前ら何やっている。止めろ」
肩を思い切り掴まれ、振り向いて声の主を見上げた。ケニーさんだった。
全員動きを止め、固唾を呑んでいる。我に返った晃二は、袖で鼻血を拭った。
「まさかとは思ったが、来てみたらこの有様だ。何が原因だ。言ってみろ」
こんなに激怒しているケニーさんを見たのはみんな初めてだったので、一気に興奮から冷め、押し黙ってしまった。
後ろの方にリサたちの姿も見えたので、きっと話を聞いた彼女が心配になって知らせたのだろう。
「……最近ちょっと彼らと揉めてたんで、決着をつけようとしたんです」
晃二はことの成り行きを簡単に伝え、この状況も、ルールを決めた格闘技の試合が予想外の出来事で乱闘になってしまった、とも説明した。
「何が試合だ、何が決着だ。争うことで解決できると思っているのか? 力でねじ伏せれば気が済むのか? 憎しみ合う前に、なぜちゃんと話し合わなかったんだ」
ケニーさんは英語と日本語を使い分けて、その場の全員に語りかけていた。
「君たちが遊んだり、寝ている間にも、ある場所では本当の争いがおこっているんだ。毎日人間同士が憎しみ合い、殺し合いをしているんだヨ。知っているかい?」
ケニーさんの表情は悲しそうであり、また苦しそうでもあった。
殺し合いと聞いてたじろぎ、急に現実に戻った。確かに自分たちは、縄張りを荒らされたからとか、ちょっかい出されたからという理由で争っているだけである。そんなことに拘って喧嘩している自分たちが、なんだか小っぽけに思えた。
「私の弟もベトナムで戦ったんだ。……戦争が終わって、帰って来るには帰ってきたけれど、身体も心もボロボロだったヨ。今でも精神的には回復していないけれど……まだ生きて帰れたからいい方だ。多くの、それこそ何十万という若者が命を落としたんだから。……学校じゃ教えてくれないかもしれないが、今現在も戦う意味に疑問を持ちながら、それでも戦わざるを得ない若者がたくさんいるんだ」
暗澹たる気分だった。自分たちが何も知らず、のほほんと暮らしている一方で、今でも暴力や悲しみが溢れている場所があるのだ。ケニーさんの台詞一つ一つが鋭い刃物のように、晃二たちの胸を突き刺し、小さなわだかまりをえぐり出す。
「この前の交流会でも言われただろ? 日本人とアメリカ人は協力し合って、世界を支える努力をしていくべきだって。だから、お互い理解し合わなければいけないんだ」
考えてみれば、互いのエゴをぶつけ合うだけで、理解もへったくれもなかった。話し合おうとか、収めようとかの努力もせず、逆に被害者意識を煽ってきただけだったのである。仲裁案が出たとき、ケニーさんに頼むという考えに及ばなかったことが、今になって思えば不可解であった。
皆それぞれ考えを巡らせている様子を見て、ケニーさんは優しく言った。
「どうだ、何か言いたいことはあるかい? 学校には報告しないし、ここだけの話にするから」
そう言って、日米両方の面々を見回した。
晃二はもちろん、誰も何も言わなかった。というか、互いに虚勢を張って相手を突っぱねていたこれまでを振り返り、主張も反論もできなかった。
項垂れているみんなの顔を見てケニーさんはポンと手を叩いて提案した。
「じゃあどうだ、握手してみないか? それで、これからはもっと相手を理解するよう頑張ってみないか?」
みんな顔を見合わせ、逡巡しているようだ。自分は良くても、他の連中がどう答えるのか気になって探りを入れているのだろう。
だが、晃二の口からは自然と返事が出た。「僕はオーケーです」
それを見て、頷く者、返事する者、みんな表情を弛めて各々自分の意志を口に出した。
きっとお互いのことをちゃんと知れば、意外と仲良くなるんじゃないか?
みんなの言葉を聞くと、だんだんそんな風に思えてくる。文化の違いやら性格の違いやら、人は皆違うのである。相手を責めてばかりでなく、理解しようとすることが大切なのだ。
当たり前のことになぜ今まで気づかなかったんだろう。
そこで両者は横一列に並び、端から順番に握手をしていった。テレビで見た、大リーグの試合後にチームがやっている光景と似ていて、なんだか晃二は照れ臭かったが嬉しかった。
考え方によっては、同じ横浜の、同じ地域の住民なんだからチームと呼べなくもないだろう。これからは一緒に遊んだり行動することがあっても不思議でなく思えた。
「一応は握手するけど、リサのことは別だからな」
ウメッチが力を込めたのに対抗して、ジミーも負けずと力を入れ返す。
「あいたたたっ。ちょっとタンマ」
顔を歪めるウメッチを見て、みんな表情をさらに崩した。
事情を察したのだろう、一緒に微笑んでいるケニーさんを見てウメッチは「いずれ恋愛での決闘があるときは、ケニーさんにレフリーお願いするからね」と言って笑った。
「あぁ分かったよ。そのときは任せてくれ」ケニーさんはいつもの口調に戻って笑顔を返した。
「じゃあみんな。これからはお互いに良き仲間であり、良きライバルとして、この横浜でいい思い出を作ってくれよな」
締めとも思えるケニーさんの言葉にみんな大きく頷いていた。
気がつくと、芝の上から木々の間に至るまで夕日のオレンジ色に覆いつくされていた。
あと一週間も経てば、一年で最も陽が短い日を迎える。
もうすぐだ。その日を通過すれば、また太陽と長くつき合える日がやってくるのだ。心の片隅に引っ掛かっていた、モヤモヤとした塊が溶けだし、少しずつ霧が薄れていくようだった。
燦々と陽射しが降り注いだ、緑溢れるグランドが目に浮かんだ。
冬枯れしたこの場所が、いずれその光景に変わっていくことを想像すると、晃二の顔に晴れやかな笑顔が浮かんだ。
第三章「ハロウインを待ちわびて」 完 第四章に続く
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