第2話 スプリンクラーを浴びて  1974年 夏

 その年の梅雨明け宣言をニュースで知ったのは終業式の前日だった。

 前の週あたりから時折顔を見せていた日差しの濃さや、朝の庭の草いきれに気持ちが擽られていた晃二にとっては待ち焦がれていた知らせであった。梅雨入りが早かった分、明けるのも早いと思っていたところを焦らされていたので嬉しさはなおさらである。ここ数日、晴れ間が覗く時間帯も増え、雰囲気的には明けたも同然だったが気分は全然違う。やはり宣言というものはそれ相応の価値があるのだ。

 しかし翌日、教室に入るなり誰かれ構わず話題を振っても、返ってくるのは気のない返事ばかりだった。

「やっとのこと梅雨が明けたってな」

 黒板に日直の名前を書いていた洋子は振り返りもせず「へぇ、そうなんだ」と小さく応えるのみ。ウメッチにいたっては、「ふーん。それよっかプールの割引券くすねに行こうぜ」なんて吐かすくらい素っ気なかった。

 気分をそがれ、卍堅めでも食らわせてやろうかと思ったが、わざとらしく溜息をつくにとどめた。

 毎年この時期に行われる、横浜開港記念の国際花火大会とプロ野球のオールスター戦。それと並んで梅雨明けの日は夏の入り口の標として重要だと思っていた。それらの順番は毎年違うが、いよいよ夏本番に突入するのだというワクワク感がたまらなかった。特に今日はオールスターの初日も重なり、興奮度は倍増である。

 だが、他の連中は早々と夏休みモードに切り替えていたため、夏の入り口なんてあまり関係ないようだった。

 確かに、最後の難関である、通信簿を親に渡す、という問題が残ってはいたが、それさえ終わればあとはパラダイスなのだ。気が逸るのも分からなくもなかったが、少しはこの特別感を共有して欲しかった。

— ましてや今年は小学校生活最後の夏休みなのだ —

 自分一人だけがこんな感傷に浸っているように思えて少し恥ずかしかったけれど、この夏は特に大切にしなければと思っていたのである。

 数日前に中学で英語の教師をしている叔母さんが家に来た際に「来年、姉さんの私立を受験させようと思っているのよ」と母親が話しているのを聞いてしまったのだ。そうなれば友人たちとは別々になってしまうので、一緒に遊べるのもこれが最後かもしれない、と思っていたのである。まぁ、受かればの話で、今から心配しても仕方ないのではあるけれど。

「私ね、八月に入ったら高知のお爺ちゃんのとこにお盆過ぎまで行ってるんだ」

「そんなに長くなんていいわねぇ。私なんか静岡のお婆ちゃんの家に行くけど四日だけだよ」

 後ろの席の女子の会話が耳に入ってくる。多分今日のクラスの話題はそんな内容で持ちきりになるだろう。ただ一緒に盛り上がりたくても自分には予定がないのだ、適当にあしらうしかなかった。

 母方の祖父母が隣に住んでいて、父方のおばあちゃんが同居、なので晃二にとっては生まれてこの方、田舎という存在がなかった。周りの連中が親の故郷に帰省することを楽しそうに話すのを聞いても実感はもちろん、想像もしにくかった。ここ横浜以外は東京くらいしか行ったことのない晃二には、羨ましくもあり妬ましくもあった。

「晃二さぁ、お前はなんか予定あんの?」

 毎年、一家揃って二、三度キャンプに行っているウメッチが椅子を寄せて問いかけてきた。父親の仕事仲間であるアメリカ人一家との合同らしく、キャンピングカーでの生活をその度に自慢げに語るが、また今回も聞かされるに違いない。「話なんかいいから土産を買ってこいよ」との毎度のセリフを、今年こそは事前に言っておきたいところだ。

「予定ねぇ、…なくもないけどね」

 皆、あれもしたい、これもしたい、と使い切れないほどの大金を目前にしたような顔つきで思い思いのプランを自慢し合っているなか、そうは答えたものの具体的なプランなんてなかった。

「それってなんだよ。どっか行く予定でもあんのかよ」

 気後れするのもしゃくなので、達観するような態度で周りの連中を見渡してから耳元で声を潜めて言った。「あるよ。…教えないけど」

 思いつく場所がなくもない。旅行ではないし、どこという程でもないが、まぁ予定といえば一応予定である。

「なんだよ、それって。ケチケチすんなよ、教えろよ」

 彼の気持ちを操るのは容易かった。勿体ぶるだけで簡単に喰い付いてくる。

「…まぁ、参加したいんなら考えとくよ」

「参加って、何人かと行くのかよ? 誰と行くんだよ。どこ行くのさ」

 前の席で成り行きを聞いていた荒ケンがニヤつきながら振り向いた。

「誘ってもええけど、お前の態度次第やな」

「なんだよ。荒ケンも一緒なのかよ」

 思わせぶりに荒ケンは含み笑いをし「あとはどっちを先にするか、やな」と言って腕を組んだ。

「なに、二つも計画があるにかよ。俺に内緒で作戦練っていたのかよー」

 内緒というわけではなかったが、夏休みの予定がない二人は、どうやって夏を満喫して過ごすか、先週からアイディアを出し合っていたのであった。

 例年よりさらなる壮大な計画。仰々しいがそれをテーマに二人は今年の夏を格別なモノにしようと話していたのである。。

「お願いだから、教えてくれよ。欲しい仮面ライダーカード一枚あげるからさ」

 一枚だけというところがウメッチらしい。せこい提案に思わず顔が崩れたのを了解したと勘違いしたらしい。交渉成立だとばかりに「で、なに?なに?」とせがんでくる。

「聞かない方がいいんやないかぁ。びびっちまうと思うぜ」

 荒ケンの思わせぶりな返答を聞いて眉をしかめて呟いた。「まさか……」

 ウメッチは感づいたようで、二重を見開いて呟いた「まじか…」 

「そうだよ。そのまさかだし、まじだよ」

 二人があっけらかんと言うので疑わしかったが、どうやら本気らしい。ウメッチは聞いてしまったが最後、後に引くことイコールびびっていると思われると勘ぐったのか「仕方ねぇ、俺も付き合ってやるよ」と視線を合わさずに言った。相変わらず本音と建前が分かりやすい奴である。

「よし、じゃぁ放課後に作戦会議でもするか」

 話の流れで思わぬ展開ではあったが、こうやってまんまとウメッチは巻き込まれたのであった。


 どちらを先にするかと言っていたその片方が、ずっと気になっていたくせに今まで誰も口に出さなかった〈砦の1階探険を実行に移す〉という計画であった。

 初めて潜入した四月以来、頻繁に砦には入っていたが、やはりスロープの前に立つとみんな怖じ気づくのだった。

 だが一度だけ、この三人で途中まで行ったことがあった。雨上がりの日曜日。砦で遊んでいる最中に突然荒ケンが提案したのである。 


「ちっとだけ1階に行ってみんか。行けるとこまで」

「まじで? 何にも準備してないじゃん」

「そやから試しに行けるとこまでや」

「今じゃなくたっていいじゃん、今度で」

 乗り気でないウメッチを無視して荒ケンは歩き出し、晃二は何も言わず後に続いた。

「ちっ。しょうがねぇな。一緒に行ってやるよ」

 これは半分肝試しに違いない。そう理解したウメッチはぶっきらぼうに言い放ったが、口調とは裏腹に声は小さかった。

 これまでは自然と足が向かなかった奥側に歩き出した二人の後を追いながら「まったく、突然の思いつきに付き合わされるのもなんだな」とヤジるが、一番の気まぐれは自分だとは思っていないようである。

 やがてスロープの前まで来ると立ち止まり、改めて闇に沈んだ1階を見下ろした。

「ひえー、今日は特に暗いじゃん」

 梅雨空で外光が少ない分、確かにいつもより暗く、不気味さも増して見える。

 思わず弱々しく呟いたウメッチを荒ケンは鼻で笑った。

「けっ、これくらい別に怖かねぇよ」

 ウメッチの吐き捨てた声が反響しながら闇の底に飲み込まれていく。

「やっぱ何も見えなそうだし、とりあえず行ける所までだな」

「ほんじゃあ、並んで行くで」

 三人は「行ける所まで」という言葉を胸に、ゆっくりと足を踏み出した。

 一歩進むたびに色を濃くしていく闇の中、地底から登ってくる苔の臭いを含んだ湿った風が、微かに足元から這い上がって来てはその都度立ち止まらせた。

「なんかちょっと涼しくなってきたな」

 うっすら見える二人の横顔に向かってウメッチは言った。

 一呼吸おいて一歩、また一歩。足を数歩踏み出しては後ろを振り返り、帰るべき世界の明かりを確認しながら下って行く。たまに、空気を微かに震わすゴーっという音が遠くで聴こえたが、一体どこで何が鳴っているのか分からなかった。最初のうち、三人はその音を紛らわせるためにしゃべり続けていたが、十数メートル行くともう完全に姿は見えなくなり、しゃべっていないと相手が確認できなかった。

 たわいもない会話に間があった一瞬。闇で方向感覚を失った耳に、滴が水面を叩くような音が小さく聴こえた。何処で、何が、かは不明だが、二人にも聴こえたことは両隣の息を呑む気配で分かった。まだ半分も行ってないのに、それは引きずり込まれたら最後、二度と戻って来られないかのような錯覚を抱かせた。

 数秒してまた聴こえた。背筋に冷たい雫が垂れたような感じがして晃二は拳を強く握った。

「まぁ、この辺がいいとこやな」

 待ち望んでいた荒ケンの判断に、肩の力を抜いて晃二は肯いたが、もちろん闇で見えない。

「……まぁ、そのようだな」

 やたら低いトーンでウメッチは答えた。緊張が解けるのが空気を伝わって感じられた。

「よし、じゃあ戻るとすっか」と声高に言って、やせ我慢みえみえの足取りで戻って来たのだった。


 その後、梅雨に入ってからは、やれ天気が悪いだとか、気分が乗らないだとか、なんやかや理由をつけては遠去けてきたのであった。

 しかし、夏休みを目の前にして二人が遊びのプランを練っていた際に、真っ先に上がったのが1階探険であった。きっと、休みの開放感と夏に発揮する積極性とがこれまでの不安を払拭してくれると思った、というか願ってのことであろう。

 あとは日程を決めるだけであったが、作戦会議の結果、夏休み幕開けのイベントに相応しいだろうということで、決行日は休みに入って最初の土曜日に決定したのだった。


            


 案の定、いざ夏休みがスタートしても小学校生活最後の夏だと感慨深くなっている奴なんて誰もいない。早朝のラジオ体操を終えて朝飯を済ませれば、ただただ遊ぶだけの長い一日が始まるのである。その日もすべからく終わりなき夏を堪能すべしと、朝から準備万端な陽射しの挑戦を受けていた。

「おっせぇな、まだ来ねぇのかよ」

 ウメッチは退屈しのぎにナイフで削っていた木の棒を地面に突き刺した。

 待ち合わせの九時を回った辺りから、陽射しがさらに一歩前進してくる。棒の影が日時計のように色濃い線になって、乾いた地面で時を刻もうとしているかのようだ。。

「あいつら、何ちんたらしとんや。また変なもん持ってくんじゃねぇか」

 荒ケンは爪を囓りながら晃二のスニーカーを小さく蹴った。

 えっ、あぁ。木陰でウトウトしていた晃二は、おぼつかない返事をして上半身を起こした。

 夏休みに入ってまだ日が浅いが、すでに晃二の宿題の山は残すところ半分になっていた。嫌なことは先に済ませる性分から、例年通り七月中に大方の宿題を済ませようと頑張っていたのである。

 いわば典型的な、美味しい物を最後に取っておくタイプだが、それに対し他の連中は旨いものからというか、目の前にある物に真っ先にかぶりつく無計画派であった。なので一匹の蟻に群がるキリギリスかのごとく、毎年八月最後の二日間は晃二のドリルの奪い合いで争いが絶えなかった。

 今日もラジオ体操のあと、つい今し方まで面倒くさい謙譲語やら、ややこしい鶴亀算やらと格闘していたため、朝っぱらから多少頭が疲れていたのだ。

「寝とったんか。わりぃわりぃ。待たんで先に行くか」

 今回のメンバーは、晃二、ウメッチ、荒ケンの三人組の他に、モレとブースケである。

 本来は別の精鋭部隊を組んで実行したかったのだが、約二名、泣きのお願いがあったので、仕方なくいつものメンバーで決行することにしたのだ。

 しかし、その約二名が遅刻して、いまだに現れないのである。

「ん。じゃあ、あと五分待って来なかったら置いて行こうぜ」

 晃二はそう言って立ち上がり、水道に向かって歩き出した。

 蛇口を上に向け、生ぬるい水を一口含むと、ほんのり甘かった。きっとさっきまで口にしていたサイコロキャラメルの味だろう。

 すでにTシャツには汗が染みていた。両手で掬った水で顔を洗い、ついでに首回りにもかけてからぞんざいにシャツで拭いた。そして一つ大きく息をついてからベンチに戻った。

「あいつらびびって来ねぇんじゃねぇの。まったくよぉ。…残り時間、二分」

 ウメッチが腕時計を見て、執行時間でも告げるように言う。

 晃二は相槌を打つ素振りをしながら横目で荒ケンを見た。夏休みに入ってからというもの、荒ケンはいまいち冴えない様子だった。普段から寡黙な方だが、ここ数日は時々鬱ぎ込んでいるようにすら見える。数人でいる時はまだいいのだが、二人っきりになると強くそれを感じた。

 昨日プラモデル屋に入ったとき、周りをキョロキョロして落ち着きがなかったのを思い出していたら、突然ウメッチが立ち上がって怒鳴り声を発した。「おせぇぞ、お前ら」

 振り返ると、広場の入口で照れ笑いするモレとブースケの姿が見えた。

「びびってクソ漏らしてたんじゃねぇか?」

「だってこいつがさぁ」

 モレはそう言ってブースケをヘッドロックしたまま走り寄ってきた。

「やめろよ、モレだって『かっぱの三平』観てたくせに」

 やれやれ。相変わらずの登場の仕方である。三人は顔を見合わせ、苦笑いしながら荷物を背負った。

「ほな行くで。お前らちゃんとせんと、1階に置いてくるぞ」

 二人は目を見開いて「そんな、殺生な〜」と声を揃えて身悶えた。

 晃二の脳裏に途中まで行ったときのことが甦り、背筋に何か冷たい物が触れたような感覚がした。

 二人はそれを知らないこともあるが、あまりの能天気さに呆れてしまう。

「戦争中の財宝は魅力だけど、ピラミッドみたいに棺でもあったらどうしよう」

「バッカじゃないの、デブ。そんなもん、あるわきゃねぇだろ」

「わかんないよ。そんで、財宝を守っている霊がいたりして」

 日頃からおめでたい彼らの話題は、もっぱら宝物絡みの話である。

「そんだったら、お前を生け贄に差し出すよ」

「フン。さっきまでかっぱの三平で怖がってた弱虫が、よく言うよ」

「なんだと! お前なんか一話目でチビってギブアップしたくせに」

 いつものブースケとモレの貶し合いが始まる。

「お前ら、ほんまに仲ええな」

 荒ケンは呆れ顔で皮肉り、フェンスを登っていく。いつも決まったところに手をかけるので、その場所の金網が伸びきっている。

「ほんじゃ晃二が上で中継して先にみんなの荷物をこっち寄こせや。で、その後にブースケな」

 荷物を放り投げてから、残った二人は恨めしそうに見合った。未だ一人で金網や崖を登れないブースケは、いつもみんなの手をわずらわせるのだった。

「またかよ、しょうがねぇねぁ。ほら、早く掴まれよ」

 押し上げ、引き上げ、また押し上げ。毎度の事ながら、何故か介助する方が顔が真っ赤になるのである。そうやって次の崖や二階の窓、全てをサポートした二人が砦の中にたどり着いたときには、ひと仕事終えたあとのように額に大粒の汗をかいていた。

「帰りは晃二達が面倒見ろよ」

 笑いをかみ殺していた二人は、聞こえない振りをして道具を点検しだした。

 各々中身が詰まった鞄を開け、用意してきた懐中電灯や軍手などを取り出す。

「オレんち、懐中電灯なんてなかったよ…」

 モレは、探検隊の要である道具が用意できず残念で仕方ないようだった。一方、「オレなんかさ、かーちゃんが何に使うんだってうるせぇから、いらねぇって言って出て来ちゃったぜ」そう宣ったブースケにすぐさまみんなの蹴りが入った。

 全員の持ってきた物を並べる。懐中電灯三個にロープ二本、ペンチ一本。あとは軍手やタオルの他に、何故かモレのヌンチャクと、ブースケが家からくすねてきた竹輪だった。

「ほら見ろ晃二。やっぱ、荒ケンの言った通りだな。まったく、なんに使うんやら」

 晃二はいつも通り無視して今後のプランを確認していった。

 今回一番のポイントは、いつ何が起こってもパニックに陥らないように心掛けることである。特に二人には注意が必要と思われたのできつく言い聞かせた。あとは冷静に行動すれば問題ないのだろうが、何があるか分からないので一応みんなの配置を決めることにする。

「じゃあ、先頭はオレと荒ケンでウメッチがラストな。そんで—」

「ねぇ、あのリアカー乗っていこうよ」説明の途中でモレが口を挟む。

 その言葉でみんなが振り返って見たリアカーは、元々ここに置いてあり、最近よく乗っかって遊んでいたものだった。

「んー、そうだなぁ…」

「いいじゃん、いいじゃん」

 躊躇している晃二に反して、大方はその意見に賛成だった。

「よし! じゃーオレが乗っかってライトを照らすよ」

「ちょい待ち。モレはライト持ってねぇんだから俺が乗るよ」

「ずるいよウメッチ。オレも乗りたいってば」

 やれやれ。またも一悶着起きそうな雰囲気になる。些細なことでの喧嘩は毎度のことだ。特に、せこい、がめつい、ずる賢い、この三点に関しては一歩もひけを取らない連中である。

「その意欲を他に向けて欲しいもんだな」

 晃二はぼそっと呟き、手っ取り早いジャンケンを提案した。

「よっしゃー」最後の勝負、ブースケに勝ったウメッチが雄叫びをあげた。もっとも、いつも最初にパーを出すのを知っているので、勝負は目に見えていた。

 その結果、先頭に晃二と荒ケン、次にリアカーを引っ張るモレ、最後尾にブースケ。この編成で坂を下って行くことになった。

 しかし、いざ闇の淵に立つとなかなか足を踏み出せないものである。互いに顔を見合わせたまま黙ってしまった。いつもの我先にとは逆に、みんながみんな先を譲っている。

「固まって動けば大丈夫だよ。今回は懐中電灯もあることだし」

 確かに不安は隠せないが、装備は万全なのだ。想定外のハプニングさえなければ無事に偵察して来られると晃二は考えていた。

「ちっと不気味やけど、下に着いちまえば何てことねぇよ」

 荒ケンの言葉に頷き、五人は未知の領域に一歩踏み出した。


 ライトの先を向けると、うっすらだが三、四十メートル先に部屋の入口らしき陰が見えた。底無しでなく、ちゃんと部屋に通じていることが分かっただけでも少しは安心した。

 とはいえ、暗黒の深い洞窟を降りていくことには変わりない。噂していた戦時中の危険物や棺桶が見えないだけでも御の字だと思わざるを得ない。

「げっ、なにあれ」

 みんな眉間と鼻に皺を寄せて懐中電灯を陰の周辺に向ける。すると、壁はところどころ崩れ、道は轍状に陥没していて、まるで朽ち果てた遺跡のように映った。

「いちいち気にすんな。行くぞ」

 もう怖じ気づいた約二名に晃二はハッパをかけ、歩き出した。

「そんなことよりあれ見ろよ」「うわーすげっ、臭そー」

 わざとらしい声が反響し、取ってつけたような感想が追いかぶさる。

「わかったから、もうちっと小さく話せや」

 感嘆、驚愕、不満、何でもいいから大きく声に出すのは、恐怖心を紛らわせるには有効な手には違いないが、やかまし過ぎるのも考えものである。

 やがて以前引き返した辺りに差しかかると、同じ様な湿った風が足元から這い上がってきた。声と一緒に車輪の音が止まった。

「なんか、薄気味悪いなぁ。もしさぁ…」

 モレの呟きを聞いて、みんな一旦足を止める。

「もし、戦争中の死体があったりしたら、どう—」

 スッとライトの明かりが目の前を横切ると同時に、カツンと堅い音が響いた。「いてっ」

「ドアホ、そんなのあるわけねぇやろ」

 荒ケンは辺りを素早く照らしてから懐中電灯を前方に戻した。暗闇の中で一筋の光を目で追うと、上下左右がわからなくなる。晃二は一瞬よろけそうになり、振り返って2階を確認した。

 その四角く切り取られた明かりは、ぼんやりはしていたが、ちゃんと現実感と平衡感覚を取り戻してくれた。

「お前さぁ、さっきの注意事項ちゃんと聞いてたのかよ」

 晃二は溜息をついた。できるならこの呆れ顔も見せてやりたいものである。

「んだんだ。ここで一斉にライト消したら、それこそパニックだぜ。やってみるか?」

 何を企んでいるのか、ウメッチはなんだか楽しんでいるようだった。

「やめてよ。ただでさえお化けが出るんじゃないかと心配で……」

 ブースケの言葉尻が小さく消えたとき。

「本当だ、お前の後ろに兵隊さんが—」

 モレが言うが早いか、「ぐぎゃーっ」振り向いたブースケは叫んだ。

 彼の目の前には、懐中電灯を下から照らしたウメッチの顔があった。

「すんげぇ声出すから、こっちの方がびっくりだぜ」

 耳をつんざくような声の反響は、辺り一面の闇を吹き飛ばしたかのように広がっていった。

「今の声で幽霊は逃げ出したんじゃねぇか」

 その場にへたり込んで半べそかいてるブースケを見てみんな大笑いし、それが上手い具合に恐怖心を取り除いてくれた。

 笑いが収まっても「みんなひどいよ」と、めそめそしているブースケを起こし、

「よし! 前進あるのみだ」と晃二は言ってライトを闇の先に向けた。

 単純なものである。ちょっとしたきっかけでみんな緊張が解け、不安なんて忘れている。

 そこからはうって変わって、替え歌なんぞを口ずさみながらみな陽気に下って行った。

「インドの山奥でっぱの禿あたま——」

 十八番であるレインボーマンの替え歌は放送禁止用語のオンパレードで、親によく叱られていたが、一番人気のナンバーだ。今鳴いたカラスのブースケは、もう笑うどころか、誰よりも大きな声を張り上げている。やはり心配しただけ損であった。

「あそこを曲がれば1階の部屋だな」

 ライトを向けた先にそれらしき場所が確認できた。するとウメッチは突然「突撃!」と叫び、モレの背中を思い切り叩いた。

「よっしゃー」雄叫びをあげ、鞭の入った馬車は勢いをつけて駆け下りていった。

 ガガッ、ガガガガァー。リヤカーのスタンドが地面をこすり、火花を散らす。

「イヤッホー」

 ライトに浮かび上がったウメッチは投げ縄を回すポーズをしていた。西部劇好きなので、マックィーンにでもなったつもりなのだろう。

「がはは。最高じゃん。俺も乗っけてくれぇ」

 火花とライトが交差する中、続けとばかりに奇声を発しながらみんなも走り出す。

 そして、興奮にあおられてスピードと騒音が最高潮に達したそのとき。

「やべっ。飛び降りろ!」

 歓声に紛れて叫び声がした直後、鈍く激しい音がした。どうやら勢いがつきすぎてそのまま壁に激突したらしい。突然の出来事に一同息を飲んだ。

 走り寄る懐中電灯の光が大きく揺れ、辺りをサーチライトのように光源を撒き散らす。スロープに下に着くと、喘ぎ声のような息遣いだけが聞こえた。

 近寄ると、引き手を天井に向けて直立したリヤカーの横で二人が仰向けになっていた。

 怪我でもしたかと、全身をひと通りライトで確認したが、特に傷などは見当たらない。どうやら間一髪、二人とも飛び退いて無事だったようである。

「やばかったな。モレ、大丈夫か。漏らしてねぇか」「ウメッチこそちびってんじゃねぇの」

 二人は上半身を起こしながら強がりを言い合う。

「何やってんだよ。まったくしょうがねぇな」

 しかし、下手したら大怪我しててもおかしくないのだ。肝を冷やした程度で済んで助かった。

 恐怖心が無くなった途端にこの様である。変わり身が早い、先行きを考えない、言いつけを守らない、いつものこととは言え、先が思いやられる。

 晃二は呆れつつも我に帰り、部屋らしき方に目をやった。


            


「……」

 そこには全く想像もしていなかった景色が広い空間一杯に広がっていた。

 気味悪くも、恐ろしくもなく、ただ今まで見たこともない時間も場所も超越した異空間で、神々しさすら感じた。

 これまで一階は真っ暗な部屋だと思っていたが、実際は僅かに光が差し込んでいて、闇の中に不思議なシルエットを浮かび上がらせていた。お伽話に出てくるような深い森の奥にある古城の扉を開けたらこんな風景が広がるのでは、と思わせるくらい現実味がなかった。

 錆びて破れたシャッターの穴からは、光が幾筋もの線を描き、柱や壁に突き刺さっている。床のコンクリが陥没した所には水が溜まって池のようになり、その水面に反射した光の照り返しは、久しぶりの来客を出迎えるかのようにキラキラと輝きを放っていた。おそらく水溜まりは深さ数センチ程度なのだろうが、まるで山奥の深い湖のようにひっそりと佇んで見えた。

 みんな呆気にとられ、しばらくその幻想的な風景に見とれていた。

「なにこれ、すっげー」「なんか、違う世界にいるみたいだな」

 声が不思議な反響を伴って返ってくる。白黒写真のような風景は、西洋の映画か舞台のセットの中にでもいるような気にさせられる。

 一同は、やっと思い出したかのように辺りにライトを向けて隅々を探っていった。

 二階と同じ広さに見える空間の各所に積み上げられた木のコンテナや大型の機械、正面からのいく筋もの照明のような光、などが演出になってセットのような雰囲気を醸し出しているのだろう。

 ライトに浮かび上がった品々は、金属製や布の掛けられた塊が多く、何十年も放っておかれた、それこそ戦時中もしくは戦後の遺物に見えた。

 この空間が果たして我々を受け入れてくれるのか、拒絶されるのか、そして、これらの品々が戦利品となるのかガラクタとなるのか。その見当は皆目つかずである。

「あっ、あれ!」

 突然ウメッチが大声をあげ、ライトを当てた先を見ると、薄汚れたボールが水面に浮かんでいた。

「こんなとこにもアウトボールがありやがったか」

「どっから入ったんやろ」

 不思議ではあったが、この異空間と現実を結びつける物があったことに少しホッとする。

 荒ケンは恐る恐る水溜まりに足を踏み入れた。浅いと知りつつも、やはり緊張感が漂う。

 そっとボールを掴み上げ、正体不明の物体でも見るかのように顔を近づけた。

「きっとシャッターの破れた穴からだよ。前にゴロが割れ目から入ったことあったじゃん」

 そう言ってモレが指差した方向には、ボール一個がやっと通るくらいの穴が開いていた。

「あそこがあの割れ目なのかぁ」

 いまいち実感のない晃二たちは水溜まりの横を回り込み、ゆっくり穴に近づいていった。

 いびつな菱形をした割れ目を晃二がしゃがんで覗くと、溢れるような光に襲われ強く目蓋を閉じた。「うわっ」一瞬目がくらみ、床に手をついた。

 一呼吸置いてゆっくり目を開けると、破れたシャッターの向こうには、ホームベースと砂場が蜃気楼のように揺らいで見える。

「おっ、グランドじゃん」当たり前なことなのに、どこか不思議に思えた。

 立ち場や見る位置が違うと、こうも違って見えるものなのか。その、日常が逆転した状況は、なんだか地下牢に投獄された囚人にでもなったような感覚を抱かせた。

「ちょっと見回してみるか」

 多少目が慣れてきたこともあり、三班に別れてやっと辺りを偵察することにする。

「何か変わった物を見っけたら、大声でちゃんと報告しろよ」」

 今回の目的は、部屋の調査と今後の利用計画の準備を進めることであった。実際に使える場所になり得るかどうか、細かく調べる作業が主なのだが、みんなお宝のひとつでもゲットして持ち帰ろうと企んでいるのがみえみえだった。ブースケにいたっては、本気で財宝があるのでは、と目を皿のようにして辺りを窺っていた。

「晃ちゃん、もっと下を照らしてよ。見逃しちゃうじゃん」

「そんなのあとあと。まず部屋の様子を調べなきゃだめだろ」

 晃二は壁の隅々を舐めるようにライトを這わせた。

 ひび割れた壁には英語で大きく何か書かれ、柱には数字が書かれている。奥に並んだ錆びたコンテナには、留め金の上に×印のマークが見えた。天井を照らすと、蛍光灯の残骸が虫の抜け殻のように一列に吊り下がっていた。どうやら部屋の造りは、窓の部分が一面シャッターである以外は二階とほぼ同じようである。見渡す限りセメント袋の山や印刷機のような大型の機械ばかりで、廃業した工場跡地のように見えなくもない。きっと、車を横付けして積み下ろしできるので、重たい機材や大きな木箱ばかりが集められたのだろう。

「これって、拳銃かなんかの部品かな」そう言ってブースケが拾い上げた筒状の金属を見ると、確かにそう見えなくもないが、おそらく車の部品だろう。

「じゃあ、こっちの看板は使えないかな」次に目をつけた木製プレートは、英語で書かれていて格好良かったが、二人の力でも持ち上がらないほどの重さだった。その隣にあった柳行李を期待して開けてみたら軍服のような上下服がはいっていたが、広げるとカビが凄くて持ち帰るどこではなかった。

「惜しいな。変わった物が多いけれど、どれも役には立ちそうもないなぁ」そう晃二が呟くと、

「いや、そのうちに隠してあった財宝がきっと見つかるよ」ブースケは真顔で呟いた。前向きと言うか能天気で信じやすい彼のお目当ての物が見つかるといいのだが、それは難しそうである。

 それでも部屋の角や物陰に何か変わったもの、面白いものがあるかもしれない。そう願ってしばらくは無駄な作業とは思わずに辺りを探っていった。

 だが、これはと思って手にした物は、鋤や金ザルなどの農機具のような類や書類の入ったカバン、鉄パイプの金具などで、持ち帰っても使いようのない物ばかりであった。

「なんだかどこにも宝らしき物の匂いすらしないね」

 ブースケも期待が萎えてきたのだろう、言葉数も減って、置いてある物を手にすることなく、足で転がして確認していた。

 大体一周してみて分かったことは、非常に残念だが、貴重な物、使えそうな物は何もなさそうだということと、部屋の利用価値もさほどなさそうだ、の二点だった。晃二は懐中電灯をブースケに渡して、荒ケンに報告に向かった。

「どうよ。そっちは?」

「ん? 別にっ、て感じやな。残念やけど」

「なんかするにも暗すぎるし、隠し場所ぐらいとしてしか使い道はなさそうだな」

「そやな。他になんか珍しい物とか置いてなかったか?」

「いや、特には見あたらなかったよ。戦時中の遺留品でもありゃ面白いんだけどな」

「こっちはフォークリフトを見っけたけど、覆っている幌が固まっていて外せんかったよ」

 そんな話をしているところにウメッチチームが戻ってきた。二人の表情から結果は予想できた。

「収穫ゼロ。全部が全部、たいした物じゃねぇよ」

「それに、開けられねぇもんばっかだよ。持ち出そうにも重すぎるしさぁ。今度爆薬でもしかけてみようか」

 モレはいつもの過激な思いつきを口にする。

「しゃあねぇな。最後にみんなでもう一回まわってみるとするか」

 四人はブースケの方に向かってトボトボと歩き出した。

 途中にあった箪笥の中は空っぽだし、端に積み上げられた古い布の山は、さわるのも躊躇するほどの異臭を放っていた。

「きっと、邪魔な物をここに集めて、そのままになってるんだろうな」

「なんかさぁ、物の墓場みたいじゃねぇ?」

 文句ばかりが交わされているところで悲鳴が聞こえた。

「な、なんだ? ブースケが何か見つけたのか?」

「大袈裟だからなぁ。でもあの声じゃ宝ではなさそうだな」

 きょう何度目かの人騒がせの予感を感じつつも、走って声の方向へ向かった。

「どうした。なんか見つけたか?」

 駆け寄っていくと、顔面蒼白なブースケが床を指さしている。

「なんやそれ?」

 小さな黒い塊が見えたが、ここからでは何だか分からなかった。ゆっくり近寄っていき、ライトを向けると、その物体はミイラ化した猫の死骸だった。

「うわっ、気持ちわりっ。干からびてんじゃん」

 ウメッチは手にしていた棒で突こうとしたが、それをブースケが止め、「ねぇ、気味悪いからもう戻ろうよ」と半べそで退却を願い出た。

「なんだよ、だらしねぇな」「ったくよぉ」

 みんなの不満が爆発寸前であった。

 ここで揉めても仕方ないので、「このまんま回って出口まで行くぞ」と言って晃二はそそくさと歩き出した。

 みな、それでも最後の望みを賭けてライトを忙しなく動かすが一向に進展はない。しまいには、辺り構わず蹴飛ばしながら歩いていた。

「手ぶらじゃ帰りたかぁねぇけど、これじゃあな」

 意気込んで探検しに来た結果がこれである。納得いかないが仕方ない。

 出口まで来ると、みんな冴えない表情で部屋を振り返った。

 すると、どこからか以前と同じ低い振動音が聴こえてきた。なんだか部屋に仕掛けられた時限装置が回り出したような、その不気味な音で急にまた闇に押しつぶされそうな感覚が襲ってきそうになる。

 そんな不安を隠すために晃二は早く戻ることを提案した。みんなが最初の畏れを思い出さないうちに。

「収穫はアウトボール一個だけだけれど、でも、そろそろ引き上げるか」明るく声にした。

「ほんと、ほんと。仕方ないけど、面白い体験だったしね」

「また来るか分かんないけど、そのうちライトなしの肝試しでもやるか」

「いやいや、俺は御免だね。こんなところに一人でなんて」

 そんな、たわいもない会話をしていた時、不意に破れたシャッターからの光量がスーッと減った。

 恐らく陽が翳っただけだろうが、いまの台詞に反応したようなタイミングだった。

 一同黙って、いぶかしげに互いの顔を見合った。

 迷い込んだ森で偶然見つけたお菓子の家。それが気がつくとすべては幻想で、逆に自分たちを飲み込もうとしている罠であった。ふと、そんな童話のストーリーのような情景が頭に浮かび、晃二は肌寒いモノを感じた。

— 早くここから出た方が良さそうだ —

 急に得体の知れない何かに見つめられているような気がして、鼓動が早くなってくる。若干空気の質が変わったように感じたのは自分だけでなさそうだった。みんな後ずさりするようにゆっくりとスロープに向かう。こういうとき慌てるとパニックになるので、あえて冷静さを装おった。

ウメッチが傾いたリヤカーの柄を掴んで引っぱるが、さっきの激突で壊れたらしく動かなかった。ライトを当てて見たら、右の車輪が曲がって台座にくっついていた。

「あかんな、これじゃ直らんわ」

 車輪の下を覗いていた荒ケンが首を振る。

 どーする? これ。とは言ったものの、動かない以上その場に置いて行くしかない。顔を見合わせたみんなの表情は、はしゃぎ過ぎをこの場になって後悔しているようだった。

 そのときである。

 誰かがリヤカーを無理に引っ張りでもしたのか、ギギーッと錆びた鉄の扉を開けるような低い音が闇に響き、足下を生温い風が抜けていった

「うわぁーー」

 誰が最初に発したのか分からないが、その恐れおののいた声でひた隠しにしていたみんなの恐怖が一気にピークに達した。

「うおぉーっ」

 いきなりみんな叫び声を出して我先にと走り出した。スロープの先に見える四角い2階の明かりに向かって。見えない何かに怯え、その何かを振り払うかのように。

 後れを取ったら闇の津波に飲み込まれる。そんな気がして晃二も後を追って駆け上っていった。

「気をつけないと—」

 おぼつかない足取りで晃二がそう叫んだ瞬間。バランスを崩し、フッと平衡感覚がなくなった。直後、肩に鈍い痛みを感じた。

「いってぇ」一瞬何が起こったのか解らなかった。

 だが、ひんやりと堅い地面に触れ、どうやら轍にはまって転んだらしいと解った。

「晃二! 大丈夫か」

 ライトが当たり、荒ケンの声がした。

「あ、あぁ。大丈夫。ちょっと転んだだけだよ」

「怪我せんかったか?」

 そう言われ、思わず肩に手をやったが、特に怪我はなさそうだった。だが、立ち上がろうとしたところで足首に痛みが走った。

「平気だけど、ちょっとばかり捻ったみたいだ」

 足首をさすってみたが、腫れたり血が出たりはしてないようである。

 荒ケンは黙って晃二を引き起こし、肩を組んでゆっくりと歩き出した。

 2階までたどり着くと、三人はその場に倒れ込んで大の字になっていた。

「最初に叫んだの誰だよ。鳥肌たったぜ」

「まじビビったけど、スリルあったな」

 そんな会話をしていたが、晃二が足を引きずっている姿を見るなり驚きの声を上げた。

「なに! どうしたのさ晃二」

「どうしたもこうしたもねぇ。誰や、最初に叫んだ奴は」

 荒ケンの強い口調に三人は身を縮こませた。そして顔を見合わせ、曖昧に首を横に振る。

「誰やって言うとんや」

 低く呻るような声に、首をすくめていたウメッチがぼそっと呟いた。

「ごめん。俺だよ」

「…お前よ、さっき慎重に行こうって言うたやろ。なのになんや、ビビって逃げやがって。他の奴はどうなっても構わねぇのかよ」

 ウメッチは唇を噛んだまま俯いている。

「それにお前ら、晃二が転んだのに助けもしねぇで見捨てやがって」

「…だって、そんなの知らなかったよ」

「だってじゃねぇ、仲間だろうが。こういう時こそ他のヤツの様子を気にせんといかんやろ。自分だけ逃げられりゃそれでええんか」

 こんなにも荒げて怒っている荒ケンを見たのは初めてだった。三人とも口を閉ざして項垂れている。

 手の甲で汗を拭った晃二は、一呼吸置いて荒ケンの肩に手を置いた。

「まぁ、そんなに怒るなよ。俺がドジったからいけないんだ。怪我だって大したことなかったし、それにウメッチだって悪気があってやったんじゃないんだからさ」

「そやけど、何かがあってからじゃ駄目やろ」

「そうだけど、これから気をつければいいじゃん」

 荒ケンの苛立った態度はどこか変だった。

「そやけどな、晃二…」

「まぁいいよ。それよっか明るい方に行ってひと休みしようぜ」

「それと、せっかくだから次の計画の、基地建設のプランでも話そうよ」

 晃二が肩を叩くと、やっと強ばっていた表情が少し緩んだ。

「ごめんな晃二。荒ケンの言う通りだ。自分のことしか考えてなかったよ」

「仲間って、トラブった時にこそ協力しないと行けないんだよね」

 顔を伏せていた各々は、反省の弁を口にしながらゆっくりと立ち上がった。

「大したことないって。さっ、みんな行こうぜ」

 服の汚れを払い、皆ゆっくりと歩き出す。

「チッ。期待して損したな」

 モレはぶつくさ文句を言いながら、闇に向かって小石を投げた。だが音はしなかった。

「いいよ、早く行こうぜ」

 静寂を取り戻した闇がまた襲ってくるような気がして、そそくさと五人はその場から離れた。

─まぁ、成功ではなかったが、失敗とも言えないのでは─

 晃二は思った。成果がなくともチャレンジできたことは評価に値するだろうと。結局、あの空間とは縁がなかったが、日常味わえない特別な風景と時間が持てたことは別の意味で価値があったとして考えられなくもないし、それに唯一の戦利品、アウトボールが手に入ったではないかと。

 また、あれだけ畏れて敬遠していた場所であったのだ。回避するのではなく、努力や団結を持ってすれば克服はできるのだと、分かったような気がする。考えようによっては、であるが。

 得難い体験だったし、何か惹きつける力がある空間だった。

 だが、一人で行けと言わたら…。きっと無理だろう。


            


 その翌々日。朝方、ラジオ体操のあとに大粒の雨が降った。辺り一面に充満している草木の匂いを洗い流すように雨はあっという間に広がり、小一時間ほどで止んだ。まるで蛇口でも捻ったかのようにピタッと止まったあと、見る見るうちに天候は回復していった。そしてあとに取り残された雨水は、道端では側溝に流れ込み、トタン屋根では水蒸気となって空に戻り、その形跡を消しつつあった。

 湿度の高い、もやっとした景色とその有り様を窓からじっと眺めていた晃二は、循環を繰り返す自然の仕組みを垣間見た気がした。気まぐれな雨の残り香に紛れて朝飯の匂いが漂ってくる。

— どうやら今日の計画は予定通り行えそうだな —

 晃二は母の呼ぶ声が聞こえる前に台所へ向かった。

 今日は、以前から構想していた第三基地づくりに終日を費やす予定であった。これが、夏休みに決行しようと予定していた二つ目の計画である。

 本来は、暑さが和ぐ八月後半がいいのではと考えていたが、先日の消化不良な結果に対して気分転換を図る意味もあり、急遽繰り上げたのである。

 やはり、美味しいものは後に取って置くのではなく、新鮮なうちに食べた方がいいのだろう。晃二も異論はなく、さっさと昨日から準備に取り掛かっていたのだ。

 朝食をそそくさと終え、部屋で道具を用意していたところで窓の外から荒ケンの声がした。

「なんだ、早ぇじゃん。いま準備してっから、もうちょっと待ってて」

 そう言って窓を開けると、いきなり目の前にノコギリが現れ、晃二は仰け反った。

「うぉっ。なにすんだよ」

「へへっ。親父の仕事道具や。すげぇやろ」

「また黙って持ってきたんだろ。知らねぇぞ、張っ倒されても」

「平気や、今週はずっと横須賀の現場で、帰りが遅いから」

 荒ケンは自慢げに大きな両刃ノコを振った。プルプルンと剽軽な音がする。

 今日の予定は本格的な大工作業だったので、晃二もトンカチやカンナをリュックに詰めている最中だった。

「雨も止んで、天気は大丈夫そうだし、今日中にカタつけようぜ」

「おぉ。昨日のうちに材木は全部運んだし、なんとかなるやろ」

 今年の基地は他のとは違い、木材を使って部屋のような仕上がりにするつもりだった。

 毎年の夏休みに、晃二たちはその年を過ごす隠れ家となる基地を人気のないところに造っていた。

 ただ、基地と言っても、遊び道具などを持ち込んで暇つぶししているだけの場所で、大したものではなかった。晃二以外は両親が共働きだったので、放課後の居場所として作ったにすぎず、自主運営の学童保育と言ったところか。

 今回候補に挙がったのは、米軍住宅の飛地にあるウメッチの家の裏にある林の中であった。

 ただでさえだだっ広い米軍地である。日本人はもちろん、アメリカ人もめったに来ないところが、隠れ家建設にはうってつけであった。

 この基地づくりは、元はと言えば、二年前。その当時仲間だった学が率先して始めたことだった。


 学は四年生の途中からやってきた転校生で、ちょっと変わった奴だった。

 父親が船舶関係の仕事をしているらしく、いいとこのお坊ちゃんという格好が多かった。いつも黄色い縁の眼鏡に半袖の白い綿シャツという出で立ちで、これに蝶ネクタイでもつければ漫画によく出てくる秀才君のようだ、というのが晃二の第一印象であった。

 見た目ほど勉強はできなかったが、動物や昆虫のことをよく知っていた。クラスでも珍しい一人っ子で、そのせいか我が儘で負けず嫌いだった。好き嫌いが多く、給食の時には晃二もよく残飯処理を手伝ったものである。

 垢抜けていて気前のいいところなど周りにいないタイプだったので、クラスの連中には新鮮な感じで受け入れられた。ウマがあったのか何なのか、出会った瞬間から意気投合し、晃二たちグループの一員となったのである。家は商店街地区だったが鍵っ子なので、放課後は家に帰らずそのままウメッチの家がある外人ハウス(米軍住宅地域)で晩御飯の時間まで遊んでいた。


 二年前にできた第一号の基地は、その外人ハウス近くの森の中でGIジョーごっこをしているときに、学が偶然見つけた防空壕を改良したものであった。

 手付かずの自然が多く残り、小さな森や丘が点在する外人ハウス周辺には、戦後三十年近く経つのにまだ小さな防空壕がいくつか残っていたのである。

 その中の一つ、学の見つけた防空壕は、長い間人が侵入した形跡がなく、当時のまま残っているように見受けられた。入口が小さい上、草で覆われていたためおそらく今まで誰も気付かなかったのだろう。キャッチボールをしていた際、暴投したボールを探しているときに偶然見つけたもので、崖下の草をかき分けて覗くと、子供の背丈にも満たない高さの入口から三メートルほど奥が左右に分かれていた。

 そのときは日暮れ間近だったし、防空壕の中にはガスが溜まっていて危険なこともあるので、すぐには入るなと言われていたこともあり、翌日に準備万端な格好で探検することにしたのだった。

 そして明くる日の午後、準備を整えた四人は洞窟探検に挑んだのである。


 重装備までとはいかないが、長袖長ズボンに食料の入ったリュックを担ぎ、スコップと懐中電灯を手にしたメンバーはにこやかな表情で洞窟の前に整列した。この頃から、何故か興味を示す場所は薄暗いところが多く、懐中電灯は必需品になっていた。

 「僕が最初に見つけたんだから、一番に入る権利があるよね」

 さも当然、という態度で有無を言わせず、学はゆっくりと草を掻き分け、中腰で一足踏み出した。

 その後に続き、一列になり慎重に這って進んでいく。中は予想通り狭かったが、窮屈と言うほどではない。

 冷んやりじめっとした空気は土と苔の混ざった臭いで充満し、壁は冷たくヌルッとした手触りで、巨大な生物の体内に侵入したかのようである。ピノキオにでもなった気分だ。

 すぐに突き当たり、学が身体の向きを変え、右側前方にライトを当てるや否や叫んだ。

「なんじゃこりゃ」

 そして左に向きを変えると、また大げさに声を出した。それから学はしかめっ面で振り返り「交代して見てみて」と言って懐中電灯を後ろの晃二に渡した。

 理由も状況も分からない三人だったが、一人ずつ入れ替わると、同じような反応をした。

 なんと、左右とも曲がって1メーターのところで洞窟は終わっていたのである。

 多分、途中で必要なくなったのか、掘っている最中に戦争が終わったのかだろう。理由は不明だが、勝手にこっちが過大な妄想をしていただけだった。

「なぁんだ。ばっかみたい」

 四人は一旦外へ出て再び整列し、互いの重装備を見て吹き出した。

 実に間抜けな結果に終わり残念だったが、自分達の発見した洞窟に違いはない。四人はその狭い穴の中に身体を寄せ合って、持ってきた非常食の駄菓子を貪りながら今後のプランを練った。

「せっかくだから、少し手を加えて僕達の隠れ家にしようよ」

 学の提案にみんなも乗り気になり、道具を持ち寄って翌日から作業を開始したのである。

 そんないわく付きの洞穴を広げて改良したのが第一基地だった。

 その後も手を加えたスペースに充分満足してはいたが、翌年の夏休みに入ると、学は別の場所に基地を造るべきだと言い出したのである。そして、候補地探しに躍起になっていた四人が次に目を付けたのが、晃二の住む地区と外人ハウスとの境にある竹薮の中だった。

 今は外人ハウスへの抜け道にもなっているこの竹薮だが、初めは鬱蒼としていたところを時間をかけて整備していったのである。さらに、毎年竹の子取りのたびに拡張していったため、最終的には竹や笹が入り乱れる迷路のような仕上がりになった。

 その一番奥に二メートル弱の崖があり、その上に斜めに生えていた竹を薙ぎ倒して跨っては、「これぞ本当の竹馬だ」と言ってよく遊んでいた。それが功を奏したのか、やがて竹が傾いだまま元に戻らなくなり、気づくと崖との間にうってつけの空間ができていた。そこをベニヤ板で周りを囲ってできたのが第二基地であった。

 居住スペースは四人がやっとだったが、床板を敷き、段ボールでちょっとした棚を造ると少しは格好がついた。そこに、みんな家から使っていない道具やオモチャを持ち込んで遊んでいたのである。特に学は、ほとんどの宝物を運び入れ、以前にも増して基地で遊ぶ時間が多くなっていた。休みの日も晃二を誘っては基地へ行き、仮面ライダーカードで飽きることなく対決したりしていた。

 そんな風にしてしょっちゅう一緒に遊んでいた二人だったが、寒さが身にしみるようになってきた頃に些細なことから喧嘩になってしまった。

 それは、いつものように賭トランプで遊んでいた時である。奪い合いになった怪獣カードを巡って押し問答になり、最終的には取っ組み合いの喧嘩になってしまったのだ。

 初めての喧嘩だったせいもあるのだろう、お互い意地を張ったのがいけなかった。謝るタイミングを逃した上、冬休みに入ってしまい、さらに距離が開いてしまったのである。結局、三学期に入っても仲直りできず、商店街地区の連中と遊ぶことが多くなった学とは自然と離れていった。

 そしてまだそのしこりが残ったままの二月。突然先生から学の転校を聞かされた。親の仕事の都合ということで急であったが、別れの挨拶すらなく、学は去っていってしまったのだった。晃二はあのときの喧嘩もそうだが、それ以上に意地を張って謝らなかったことを今でも悔やんでいた。

 実は当初、今回の基地造りに関しては、「学もいないし、春に陥れた砦があるから必要ないよ」とみんな一様に言っていたのである。それに対し晃二が異議を唱えたのは、「来年も造ろうな」という学との約束があったからに他ならない。結局、一緒にとはいかなくなったが約束だけは守りたかった。いつの日か学が再びこの街に戻ってきたときのためにも実行すべきだと皆を説得したのだった。

 これまで候補になったところは幾つかあったが、どこも決め手に欠け、決行が遅れるのではと危ぶまれていた。そんなある日、ウメッチが提案したのが家の近くにある椚の木の上だった。彼が白状したところ、元々その木の上は自分のお気に入りの場所だったため、仲間たちにも秘密にしていたらしい。開き直って、「自分のとっておきの場所を紹介したんだぞ」と、威張っているウメッチに、感謝の言葉よりも「今まで隠してやがって」と罵声が飛んだのは言うまでもない。

 その椚の木は見るからに立派だった。しかも太い幹が途中で三つ又に分かれているため、今回の木の上に造るという計画には申し分なかった。まず三つ又の部分に角材を渡して固定し、ベニヤ板で床を貼る。それから四方に柱を立て、周りと屋根をトタンで囲っていく。そんな算段で計画は練られていった。

 学がいなくなったいま、基地造りは三人だけの作業である。モレとブースケは出来上がった基地には呼ぶが、作業となると足手まといになりそうなので、材料運び以外は参加させなかった。ぶきっちょな二人にも、その方が気が楽でよかったらしい。


            


「おーい、こっちこっち。ちょっと板運ぶの手伝ってくれぇ」

 二人が椚の下に着くと、裏庭の方からウメッチの声が聞こえた。

「おぉ、もう働いてるぜ。いつもこんな真面目だといいんやけどな」

「今回はあいつの陣地だから張り切ってるんだろ。まぁ、いんじゃない、あいつが今回のリーダーってことで」

 二人は取りあえずウメッチの指示に従うことに決めた。

「グッモーニン、エブリバディ。さっそくこれ運ぶから、はいはい、荷物降ろして」

「お前、朝からご機嫌だなぁ。なんかいいことでもあったのかよ?」

「ふふっ。まぁな。あとで教えてやるよ」

 頭にタオルを海賊巻きしたウメッチは意味深にほくそ笑んだ。

「さぁ、始めるぞ。最初は床の土台造りからやるからな」

 三人で何度か往復して材料を移動し終えると、すでにシャツが汗でグショグショになり肌に貼り付いている。さらに辺りを埋め尽くす蝉の鳴き声や、立ちのぼる芝の草いきれも身体にまとわりつく。服を脱ぎ捨ててプールにでも飛び込んだらさぞ気持ちいいことだう。

 ようやく道具を全て並び終え、その場に寝ころんだ。長く伸びた芝がクッションのように柔らかく、このまま目を閉じればすぐにでも夢の世界に行けそうだった。

「俺と荒ケンで土台を組んでいくから、晃二は寸法通りベニヤを切ってってくれ」

「そんじゃ、荒ケン、そこの角材とロープを持って先に登っててくれ」

 ウメッチは的確な指示を出してから脚立を取りに戻った。

 一号が洞窟の中、二号は竹藪の中、ということもあって、三号はできれば木の上に造りたいと以前から話し合っていた。映画や本の影響なのだろうか、三人は何故か密林の木の上の小屋が正当な隠れ家だというイメージを持っていた。

 作業としては、足場がしっかりしない状況下でバランスと強度をしっかり保たなければならないため、基礎づくりはある程度の困難を予想していた。しかも材料は米軍のダストボックスで拾った物や有り合わせの代用品なので、上手く合わさるかすらも不明だった。

 だが、思いがけないほど作業は順調に進んだ。それは三人の卓越した技術のおかげと言いたいところだが、そんな訳はない。三つ又になった部分がたまたま水平に近かったおかげで、スッポリ嵌るように土台が収まっただけのことである。

「なんだか、まるで測ったように上手くいったな」

「あれ? 綿密に測ったからじゃないの?」

 晃二がニヤニヤしながら問うと、

「えっ。あっ、あぁ。もちろんだよ」

 思い出したように、いつもの勝ち誇った態度に代わった。

「上出来やな」荒ケンもまんざらでもない表情である。 

 三人は再び、地上二メートル辺りにできあがった、ベニヤ二枚、ちょうど一坪の床を見上げた。正方形に組んだ角材を三つの幹に括りつけて固定し、ベニヤを張っただけではあったが、それなりに頑丈そうだ。

「これならブースケが乗ったって平気だな」

 チッチッチ。晃二の言葉を打ち消すように、顔の前で人差し指を振る。

「なに言ってんだよ。象が踏んでも、じゃない、象が乗っても壊れないに決まってんだろ」

 クククッ。ウメッチは独りで受けていた。

「アホぬかせ。どうやって象が乗るんや。それよっか休もうぜ」

 まだ少し早いが、きりがいいので休憩することにする。三人は椚の根に腰を下ろし、来る途中で買った菓子パンをむさぼり、コーヒー牛乳で流し込んだ。

 激しさを増している蝉時雨の中、時折涼しい風が木立を抜けてくる。頭上に青々と繁る葉が陽射しを遮ってくれるからか、暑さはそれほど感じなかった。

「あっちに飛んでったぞ」

 どこからか子供の声が聞こえた。ウメッチの弟たちに違いない。

 中腰のまま木々の隙間を覗くと、陽射しのカーテンの向こうで弟二人が虫取り網を大きく振り回しているのが見えた。二人はじゃれ合いながら駆け回り、なだらかな斜面の起伏に隠れたかと思うとまた現れた。密度を濃くした日向のステージで繰り返される、そんな弟達の無邪気な芝居のような動きが滑稽であると同時になんだか懐かしさを覚えた。

 二、三年前までは今頃晃二達も虫取りに夢中になっていたはずだ。よく、谷間の森の木々に砂糖水を浸した脱脂綿を仕掛け、翌日の日が昇る頃カブトやクワガタを採りに行ったものである。だが、年々遊び方自体が変化していき、最近はスリルや危険が伴わないと物足りなく感じてきていた。

「ふぅーっ。そろそろ始めるとすっか」

 寝っ転がっていたウメッチは立ち上がって大きく伸びをした。

「この分だと、あと三時間ぐらいで終わりそうだな」

 菓子パンの空き袋を丸めてポケットに突っ込み、晃二も同じく伸びをする。

 ここからの作業は脚立と木の上になる。まず床の四隅に柱を立て、それからトタンで周りを囲っていけばよかった。あとは出入口に縄梯子を掛け、窓に葦簀を垂らせば今日の作業は終了である。屋根に関してはペンキを塗っておくだけに留め、明日に取り付ける予定だった。

「ほんじゃ、一本ずつ柱を固定していこう」

 普段から大工仕事が好きだった三人なので、後半も順調なスタートをきった。角材を押さえる者、釘を打つ者、添え木を打つ者、誰に言われずとも各々で役目を理解して作業に没頭していく。

「ウメッチよ、そこは斜め打ちで角度つけなきゃあかんわ。そうすんとな、こうやって力がかかっても抜けにくくなるやんか」

 さすが、父親が大工の荒ケンは的確なを指示し、効率的な流れを作っていた。

「荒ケンさぁ、やっぱお前大工になれよ。そしたら将来俺んち頼めるからさ」

「そうだよ。代々大阪で大工やってたんだろ?」

「そやなぁ。なんや、兄貴も中学卒業したら工務店に就職するらしいし…。けど、晃二んちはまだ新しいやろ」

「いや、だから将来だよ。将来俺が豪邸を建てるときには頼むぜ」

「じゃあ、俺も将来アメリカに建てるから、そんときゃよろしくな」

 作業が順調なときは口の方も調子良い。気がついたら四本の柱は固定し終えていた。

「よっしゃ。ひとまず休憩やな」

 三人は下に降り、屈伸をして身体をほぐす。狭いスペースで、しかも変な体勢で作業していたため節々にちょっと違和感があった。

「なんかさ、こうやって見るとプロレスのリングみたいじゃねぇ?」

 ウメッチの言葉に二人とも吹き出した。

「たしかに。ロープ張ったらリングやな」

 四隅に柱が立っただけの様子は、リングにしては小さかったが、的を射た表現である。

 そんな会話の後、リングサイドに蝉がとまって鳴きだした。

「あの野郎、俺達のリング、じゃない、基地を何だと思っていやがるんだ」

 ウメッチがいきりたって木っ端を投げると、蝉は羽音をさせて枝の間を飛んでいった。

「ははは。早いとこ壁を造って、見栄えだけでも基地らしくしとこうぜ」

 壁になる予定のベニヤとトタンを手にして晃二はそそくさと作業に戻った。

 そこからの作業も早かった。正面と背面に窓をくり抜いたベニヤを張り、両サイドにはトタンを打ち付けていく。色々なところから調達してきた材料なので、継ぎ接ぎだらけで格好悪くとも良しとしなければならない。しかしこうやって組み上がってくると、思ったほど見栄えは悪くなかった。かえってジャングルの掘っ建て小屋のようにおどろおどろしく、風格すら感じた。用意してきた葦簀と縄梯子を取り付け、残るは屋根になる波トタンのペンキ塗りだけとなった。

 荒ケンが家からくすねてきたペンキを伸ばし伸ばし塗っていく。多少のムラはあったが、素人なので仕方ない。

「よし。こんなもんでいいな」

「上出来、上出来。夕方になりゃ乾いてんやろ」

「あーっ。やったぁ。取りあえず終了!」

 ウメッチは叫びながら軍手を高く放り投げた。

 準備に余念がなかったおかげか、特に問題なく作業は予定の一時間も前に終了した。

「やっぱ今までと違って最初っから造ると、やり甲斐あるって言うか、充実するよな」

「なんや愛おしいちゅうか、なんちゅうか、擽ったい感じやな」

 木陰に寝転がって頬杖をつき、遠目で仕上がりを眺めた。三人の身体がまだ火照っているのは、暑さのせいだけではないようである。

「まだ二時半じゃねぇか。どうする?」

「ん? もうちっと休憩しようや。どうせ暇なんやし」

 風が清々しく芝も心地よい。晃二はそのまま仰向けになり目を閉じた。

 だんだん蝉の声が遠ざかり、汗ばんだ皮膚を撫でていく風の音だけになる。

 午後の後半戦。これから夕方までも晃二の好きな時間帯だった。特に夏休みは一日が長い。日が傾くに従い刻々と移り変わる風景の変化を味わうのが好きだった。そしてその先に繋がっている、明日という日を想像するのが好きだった。

 虚ろだった意識が踵から這い上がってきた蟻によって呼び起こされた。

「あぁ、寝ちゃいそうだよ。でもやっぱあちぃな」

 気がつくと太陽はからかうように位置をずらしていた。木漏れ日と戯れていたはずの晃二は、いつの間にか照りつける陽射しの餌食になっていたのである。

「なんだよ、暑いはずだ。ふうっ、プールにでも飛び込みてぇな」

 突然ウメッチの目が大きくなった。

「そうだ、シャワー浴びに行こうぜ」そう言って、飛び起きた。

「もうすぐ三時か。ちょうどええな」

 三人は道具もそのまま、我先にと駆けだした。シャワーとは、夏場、頻繁に行われるスプリンクラーのことで、午後の一時と三時に米軍のグランドで水まきがされるはずだった。

 木立を抜けると芝生の緑と空の青さがどんどんと色を増していく

「おぉ、やってるやってる」シュッシュッと小気味よい音が遠くに聴こえた。

 三人は道路を横切り、さらに加速した。先頭のウメッチに倣って歩道の黄色い消火栓を跳び箱のように両手をついて飛び越える。

「このまんま突入しようぜ」

 そう叫んでウメッチは銀色に光る水に向かって飛び込んでいった。

「イヤッホー。サイコー」

 晃二もTシャツを脱ぎ、頭から浴びた。直撃した水が音を立てて弾ける。

 頭から肩、肩から背中と、当たるポイントをずらして全身から汗と汚れを流し落としていった。日焼けした肌から一気に熱が奪われていく。毎度ながら、最高に気持ちいいと感じる瞬間である。

 晃二は目を瞬かせながら中心の放水口まで行き、振り向いた。

 勢いよく放たれた水が、輝きながら斜めに放物線の軌道を描いている。

 どこまでも続く青い空と立体的な入道雲。そして目の前に広がる、活き活きと輝く芝生。それらは、これぞアメリカと言わんばかりの映画のワンシーンのように映った。

「ムシャクシャしとったのが、すっきりしたわ」

 荒ケンはそう言ってTシャツで頭をぞんざいに拭いた。そのとき背中越しに声が聞こえた。目を凝らすと、それはケニーさんで、どうやら三人を手招きして呼んでいるようである。

「やった。なんかくれるかもしんないな」ウメッチは顔を綻ばせた。

 案の定、近づいたらケニーさんの手にアイスクリームが握られているのが見えた。

「暑いネェ。これでも食べなヨ」

 にこやかに言って三人をポーチに座らせた。

 ケニーさんはハーフで、アメリカンスクールの先生をしていた。ウメッチの父親とも仲が良く、晃二達も懐いていて、以前からよく遊んでもらっていた。

 黒い髪と鼻は日本人に近いが、目や輪郭ははっきりして西洋人特有の濃さをもっている。歳はまだ二十代後半で、奥さんと産まれたばかりの子供の三人家族だった。元海軍だったらしく、今でも厚い胸板や筋肉隆々の腕が当時の面影を残している。日本語が上手く愛想も良いので、商店街の人からも慕われていた。

「さすが、ケニーさん。俺達が来んの分かってたの?」

「マァネ。なんてウソ。本読んでいたらユー達が見えたんでネ。それにこの前、これ好きだって言ってたじゃない」

「サンキューサンキュー。ケニーさんってほんと気が利くねぇ」

 三人はお礼もそこそこ、大好物のチョコアイスにかぶりつく。日本のアイスと違い、アメリカのハーシーのアイスクリームは独特なコクと甘さで子供達を魅了していた。

「そう言えば、ヒロは昨日、リサと一緒に歩いていたけど、知り合い?」

 ケニーさんはウメッチのことをヒロと呼んでいた。

「いんや。昨日偶然会ったんで、知り合ったばっかりだよ」

 そう言って鼻をすすったウメッチの表情は、嬉しさと照れがない交ぜになっている。

「誰だよ、その娘。俺達の知ってる娘かよ?」

 晃二は眉間に皺を寄せ、低くい声で尋問した。

「えっ。違うけどさぁ。…だからあとで教えるって言ってたじゃん」

 晃二は今朝、作業に取りかかる前ににやついていたウメッチの顔を思い出した。

「リサは帰国子女で、九月からうちのスクールに入るんでよろしくネ」

 ケニーさん曰く、その娘は両親とも日本人だが長年シカゴにいたので、こっちに戻ってきてもアメリカンスクールに通うらしかった。

「日本語は普通に喋れるから心配いらないヨ。なんなら、私が英語教えてあげようか?」

 ケニーさんは三人の戸惑いをもてあそぶようにそう言って笑った。

「なに、かわいいの? その娘って」

「めちゃめちゃ可愛いよ。俺なんか一目惚れしちまったもんな」

 ウメッチがこんなに顔を赤らめて恥ずかしがるなんて、あまり見たことがなかった。

「紹介しろよな」二人は友情の証であるヘッドロックを両側からかましてあげた。

 そんな談笑がしばらく続いたあと、ケニーさんに別れを告げて三人は基地に戻った。

「多分、明日の午後もこっちに来るって言ってたから会えると思うよ」

 ウメッチは道具を片づけながらにこやかに言った。

「じゃぁさ、明日の午前中に屋根つけて、それから会いに行こうよ。どうよ、ウメッチ。そんでさ、ここの最初のゲストってことで、完成記念に招待したらいいじゃん」

「おぉ、ナイスアイデア」ウメッチは立ち上がり、この夏最高と言わんばかりのガッツポーズをきめて叫んだ。「やったるでー」

 いつの間にかオレンジ色が強まった日差しが彼の笑顔をより一層輝かせていた。


 だが、プランはそう簡単にはいってくれなかった。

 翌朝、待ち合わせ時間に晃二と荒ケンが基地に着くと、辺りの様子が変だった。

「なんやこりゃ。壁のトタンが取れてるじゃん。それに屋根がなくなってるで」

 見上げると何かで叩かれたらしく、壁のトタンはへこみ、一部は剥がれ落ちていた。

「誰の仕業や。こないしたのは」

 憤りながらも、半ば呆然としていた二人の後ろから声がした。

「やられたぜ。きっと不良外人の仕業に違いないよ」

 首に巻いたタオルで顔を拭いながらウメッチが歩いてきた。弱々しい声だったが表情は険しく、あまり見ない姿だった。

「いつや。気がついたのは」

「ついさっきだよ、十五分くらい前かな。電話しようと思ったけど…」

「それにしても、ひでぇことしやがんな」

 晃二は跪いてトタンを拾ったままの姿勢でしばらく動かなかった。

「あそこに見えるの、屋根じゃねぇ?」

 荒ケンが草むらを指差す。葉っぱの隙間から白い物体がちらっと見えていた。

「これじゃ、役にたたんぜよ」

 引っ張り上げられた波トタンは、折り曲げられた上、踏み潰され、原型を留めていなかった。白いペンキは汚され、残った足跡で痛々しく見える。晃二は顔を歪めた。

「ここんとこ見てみぃ。まだペンキが乾いてないうちに蹴られたんや。そやから、俺達が帰ってすぐにやられたんやな」

「そんじゃ、やっぱあいつらに違ぇねぇ」

「なんや、犯人の目星がつくんか?」

「あぁ。最近この辺をうろちょろしてる奴がいるんだけど、きっとそいつらだよ」

「誰や、そいつは。アメ公か?」

「うん。五人組だけど、リーダー格の奴がジミーっていうんだ。同い年で、日本語ペラペラでさ、そこのバードスクールに通ってるよ。多分見たことあるよ」

「ほな、そいつらを捜し出して、仕返ししてやろうぜ」

 荒ケンはそう息巻いたが、晃二は努めて冷静さを保った。

「でもさ、そいつらだっていう証拠はないじゃん。まだ決めつけられないよ」

「…確かにな。でもな晃二。証拠はないけど、確率は高いと思うぜ」

「だったら、犯人捜ししようや。怪しい奴見っけてきて、俺が尋問したるわ」

「おぉ、いいじゃん。それなら晃二もオーケーだろ?」

「えっ。まぁいいけどさぁ。張本人に尋問したってしらばっくれるに決まってんじゃん。だから何でもいいから証拠を掴まなきゃ」

「証拠って言ったって、どんなのだよ」

「たとえば靴に白いペンキが付いてる奴を捜すとか、誰かに喋っているかもしれないから聞き込みをするとかさ」

「おぉいいねぇ。じゃあ刑事みたいに捜査して追いつめていこうぜ」

「よっしゃ、決定やな。とっかかりに一番怪しいそいつらからあたっていこか」

 みんな犯人捜しの方に興味が移り、基地の修復は後回しにすることになった。


            


 ジリジリ。二の腕の表面からそんな音が聞こえてきそうなくらい陽射しはきつくなっている。

 手始めにジミー達を捜すといっても、居場所なんてわかるはずない。仕方なくゲートの近くで張っているが、かれこれ一時間は経つというのに一向に現れなかった。キャンプ内でも居住地域なら問題ないのだが、施設内となると警備がうるさく、ウメッチでさえも入れなかった。奴らがハウスの方にいないとなれば、あとは映画館やプールのある施設内でたむろしているに違いない。そう踏んで入口の横で張り込んでいるのだが、もしかしたら商店街や公園にいるのかもしれない。

 ここ最近、彼らも堂々と日本の敷地内を闊歩し、駄菓子屋にも入り浸るようになっていた。別に構わないのだが、その件で晃二達は外人ハウスの連中と対立していた。といっても、子供同士のよくある縄張り争いである。テリトリー内で鉢合わせしても争いはどちらとも避けていたので、いちゃもんつけられる前に侵犯した方が場所を譲っていた。その際、威嚇する程度のことはあっても、取っ組み合いの喧嘩にまで発展することはない。向こうも、こっちもお互いの主張をするだけである。

 晃二達の領土、つまりこっちの遊び場なり陣地を彼らが侵すと、「ここは日本なんだからでかいツラすんな」と言い放つが、逆にこっちがベース内で遊んでいると、「ここはアメリカ領なんだから出て行け」と言い返された。現実的に「お前達は戦争に負けたんだ」と言う奴はいなかったが、晃二たちは実際戦争に負けた結果でこうなったことや、戦時中や戦後の様子を親から聞いていたので、子供なりに大体のことは理解していた。

 晃二は叔父さんから、終戦後間もない頃の体験談をよく聞かされた。印象に残っているのが外人ハウスに忍び込んだときの話で、干してあったGパンを盗もうとしたところ見つかってしまい、ライフルで脅され小便ちびって逃げ帰ったというものだった。

「ヤンキーは威嚇しただけだろうけど、あのときのガチャっていう撃鉄の音は今でも忘れられないよ」

 叔父さんは酔っぱらうと、よく当時の本牧や根岸の話をした。もちろん話は嘘ではないだろうが、平安な現在ではちょっと想像しづらかった。

「なんだよ、ぜんぜん現れねぇじゃんか」

 苛立たしげにウメッチはフェンスを蹴った。寄り掛かっていた晃二の身体が反動で大きくうねる。

「そうカッカすんなよ。まだ昼じゃねぇか」

「そうだけどよ。昼飯食いに帰んないとこみると、いねぇんじゃねえ?」

「かもな。じゃあ、俺らもメシ食いにけぇって出直すか」

 腹が減ってくれば無意識に気も荒くなってくるものだ。荒ケンの意見に賛成し、戻りかけたときである。

「ちょっと待った!」

 そうウメッチが叫んだのと同時にクラクションが短く2回鳴った。

 ゲートを通過した車が三人に近づき、停車した。

「ヤア。こんなところで何やっているんだい」

 開け放したウインドウからサングラスをしたケニーさんの笑顔が現れた。

「ん、ちょっとね。別に大した用じゃないけど、あ、あれ?」

「こんにちは。昨日はありがとう」

 ケニーさんの大きな身体に邪魔されて見えなかったが、助手席に女の子が座っていた。

「どうもどうも。いやぁ、またお逢いできて光栄です」

 急にかしこまったウメッチは、背筋を伸ばすと同時に言葉遣いまで変えた。

 この変わり身の早さったら。晃二と荒ケンは呆れながらも笑いを堪えて顔を見合わせた。

「入学の手続きをしに来ていてネ。これからリサをスクールに案内するところなんだ。ヒロは昨日色々とこの辺りの説明してくれたそうで、サンキューね。あ、そうそう、二人は初めてだっけ。彼女、昨日話してた高岡リサさん。よろしくネ」

 自己紹介する際になってちゃんと見たが、ウメッチの言った通り可愛かった。黄色いワンピースがよく似合い、清楚な雰囲気を漂わせている。大きな白い家で血統書付きの犬を飼っている、そんなイメージを抱かせる。まさに良家のお嬢さんタイプだった。

 二人がどう返答すべきか迷っていたところで、ウメッチは精悍さを表すような口調で尋ねた。

「あっ、そうだ。ケニーさんさ、カールさんとこのジミー見かけなかった?」

 ちょっと考える素振りをしてからケニーさんは答えた。

「きっと、横須賀ネ。今日はバスケットの試合があるはずだから」

「あっそう、じゃあいいや」

 理由を尋ねられないうちにウメッチは話題をうち切った。

「それじゃあまた。そうだリサさん、今度とっておきの場所にご案内しますよ」

 さすがウメッチ。伊達男はこういったところもぬかりない。

「ぜひ近いうちにお時間いただければ、もし良ければお迎えに伺いますよ」

 そんな歯の浮くような台詞に彼女は会釈で応えた。きっと生まれつきの上品さなんだろう。普段我々にはお目にかからない仕草に、ウメッチはノックアウトされたようだった。

 クラクションを鳴らして去っていく車に三人はにやけ顔のまま手を振った。

 どうやら張り込みは無駄足だったようなので、午後は予定変更した方が良さそうである。

「ほんじゃ、メシ食ってから基地で作戦会議やな」

 結局、空振りに終わったものの、ウメッチの足取りだけは軽やかだった。 


            


 ピーン。FENのラジオが軽やかに一時を告げる。

 蝉の大合唱は今日の午後も盛大だった。

 先日の授業で先生は、「うるさい」は漢字で書くと五月の蠅と書くと言っていたが、八月の蝉の方がよっぽど合っているんじゃないか、なんて思ってしまう。

「で、どうする?」 

 このあとも犯人捜しをすべきか、三人は椚の根に腰掛け話し合っていた。状況から考えてもヤツらが戻ってくるのは夕方になりそうだ。

「取りあえずさ、できるとこから直そうぜ」

「あぁ。俺もウメッチの意見に賛成だよ。それに、また襲撃されないとも限んないしさ。今のうちに補強するなり、なんなりしといた方がいいと思うな」

「でもな、あんなことしたヤツら、のさばらせていたらあかんぞ」

「わかってるさ。でも、やっぱ出来ることからやっていこうぜ」

 そやけどなぁ。荒ケンは不服そうだったが、今日のところは基地の修復をすることになった。おそらく棒か何かで叩かれた程度だったのだろう。土台や柱には大きな損傷は見えなかった。

「まぁ、屋根はしょうがねぇな。取りあえず余ったベニヤで塞いどこうか」

「いいよ。とっととやっちまおうぜ。どうせならもっとジャングルっぽくするか」」

 思い描いていた仕上がりとかけ離れてしまったが仕方ない。リサとの計画が延期され、ウメッチは投げやりになっているようだ。

 なんとか夕方までには修復と補強を終え、一応完成の運びとなった。

「まぁ、トラブルはあったけど、それなりに格好いいじゃん」

 辺りの色合いに青味が混じり、街灯にオレンジ色の灯がついた頃。非常用のランタンを持ち込んだ基地の中で、三人は満足げにくつろいでいた。

 もちろん犯人は許せなかったが、憤りは随分と和らいでいた。

「あとは壁をきれいに飾って、リサちゃんを招待しようぜ」

「はいはい、そうですか。それよっか、このあとも気をつけないとな」

「一応、帰るときは縄梯子を上げとかんとな。今度手出したら俺は絶対に許さねぇぞ」

 荒ケンの台詞に二人とも強く頷いた。


 しかし、その後も犯人捜しは難航し、依然として手掛かりすら得られなかった。その上、入学手続きを終えたリサは九月の始業式までこっちに来ることはなく、招待する計画まで立ち消えたままだった。襲撃事件は荒ケンにはまだ強くしこりとなって残っているようだったが、晃二の中では時間が経つに連れ頭の片隅に追いやられつつあった。

 そんな八月の二週目。休みも中盤戦に差しかかった頃だった。相変わらず、毎日のように砦や基地に入り浸っていた、そんなある日のこと。偶然ハウス内でジミー達と出くわしたのである。

 世間ではお盆休みを間近に控え、帰省の話題で持ちきりだったが、晃二達にはあまり関係なかった。田舎に帰る者は一人もおらず、その日も朝から五人でハウス内をぶらついてめぼしい物を漁っていた。ハウス内の集会所裏や道端のドラム缶のゴミ箱には気をそそられる物が結構捨ててあるのだ。古レコードや雑誌なども意外と捨てられていて、中には際どいヌード雑誌もあった。それらはもちろん、お宝として基地に持ち帰っていた。

 今回拾ったのはファッション誌だったが、水着姿に「おっ勃つ、おっ勃たない」で言い合いになっていたときに林の奥から奇声が聞こえたのである。

「なんだなんだ、行ってみようぜ」

 走り寄ってみると、切り崩された工事中の現場でジミー達が泥の塊を投げ合って遊んでいた。

「おい、ヤツらだよ。どうする? 話してみるか?」

 ウメッチが戸惑いがちに荒ケンの顔色を窺っていたら、向こうから声を掛けてきた。

「ヨゥ、ヒロ。何か用かよ」

 我々に気づいた他の連中も動きを止め、訝しげに様子を窺っている。

「よし、話だけでも聞いてみようぜ」

 晃二は荒ケンにそう言って近づいていった。

「ちょっと聞きたいことがあんだけどさ。俺達がよくたむろしているとこ知ってる?」

「ナニ、たむろしてるって、お前らの縄張りのこと? 知らネェよ、そんなとこ」

「ほんとに? じゃあ小屋みたいなもの見たことある?」

 そこでジミーは早口の英語で仲間に尋ねた。

「知らねぇってサ。それがどう俺達と関係あんだヨ」

「いや、知らないんならいいや。ちょっと聞いてみただけだから」

「ハウスの中か? ここは俺達の縄張りだぜ、勝手なことすんなよな」

 どうやら本当に知らなそうだった。晃二達のそんな逡巡している表情を見て、向こうは強い態度に出てきた。

「ナニ疑ぐってんだかわかんねぇけど、用が済んだら出ていけヨ。それともちょうどいい。俺達と勝負するか?」

 ジミー達は、今さっきまでやっていた続きを日本軍相手にやってやると言ってきた。

 晃二達は、薄笑いを浮かべるヤツらの挑戦を受け入れるか迷っていた。

「売られた喧嘩を買わずにどうすんや。泥投げの戦争やろ。やってやろうやないか」

 みな無言で頷いている。なにやら面白いことが始まりそうな前兆に笑みさえ浮かべていた。

「いいぜ。暇つぶしに相手になってやるよ」

 ウメッチの返答をジミーが仲間に告げると、大きな歓声が上がった。ここ数ヶ月、日米野球は行なっていなかったので、久しぶりの対決である。同学年でも体つきが格別な黒人は混ざっていなかったので、勝ち目はありそうだった。

「よし、じゃあウォーミングアップしたら始めようぜ」

 話は決まった。その場で左右に分かれ、準備に取りかかる。

 ルールは簡単だった。合図と共に弾を投げながら攻めて、相手陣地にある樫の木に触るか、全滅させるまでだ。その弾となるのが泥の塊で、現場の隅に掘り起こしたまま山盛りになっているのを使えばよかった。そして、その弾に二回被弾すると戦死したことになるのだった。

 まずはいつものように作戦会議をする。スポーツも戦いも作戦が勝敗を分けることを熟知しているので、フィールドの状況や相手の面子を観察して効果的に思える策を練る。

「俺が真ん中の窪みに速攻で隠れるから、そしたらモレとウメッチは左右から分かれて攻撃してくれ」

 荒ケンは木の枝で地面に配置図を描くと、みんなの顔を覗き込んだ。

「そんでや、晃二は後ろから指示出しながら、陣地の周りを守ってくれ。もし俺ら三人の前線が破られたら、なんとしてでも防いでくれ。あと、ブースケは弾の補充を頼むぜ」

 おそらく相手側戦力の中心となるだろう二人は中央に位置していたので、分散させて配置し、背後からの指示で陣営を崩すポイントを見つけ、そこを狙っていく作戦である。

「分かったけど、どうすりゃいいのさ」

「どうすりゃって、ブースケはこの辺りに泥をどんどん溜めながらみんなの補充をすればいんだよ。そんで、俺達はとにかく片っ端から弾を投げりゃいいんだよな。荒ケン」

「おぉそうや、でも、めくら滅法やなく、ちゃんと狙えよ。それと弾が切れそうになる前に取りに戻れよ。無くなってからじゃ遅いで」

 最初の弾、五十個を用意し終えたところで戦闘態勢に入る。アメリカ人は成長が早いので、同い年といえども五人とも体格は我々よりでかかった。

 イエーッ。合図と同時に相手は声高に叫び、散らばっていった。

 前線がこっちは三人に対して向こうは四人だったので、攻め込もうにも壁が厚く、初めの一、二分は睨み合いが続いた。思ったより苦戦を強いられそうだ。

「援護頼むぞ」

 そう叫んで飛び出した荒ケンめがけビュンビュン弾が飛んでくる。しかし、そこは手慣れたものだ。荒ケンは腰を屈めて反復横飛びでもするかのように俊敏に動きながら前進していった。その姿を見ていたら、いきなり晃二の耳元でシュッと音がした。

 ガガーン。直後、後ろにあった工事の看板が大きな音をたてた。

 驚いて振り返ると直撃した泥がこびり付いている。意外とスピードと威力があるので、当たると結構痛そうだった。

「晃ちゃんもどんどん投げなきゃだめだよ」

 ブースケはそう言って泥の大きな塊を手頃な大きさに砕いて弾を補充していく。

「ブースケ、弾くれっ」

 さっそくブースケは両手一杯に弾を抱えて荒ケンの近くまで走って行く。モレも身を屈めて走りながらがむしゃらに投げ込んでいた。みんな楽しみながらも真剣だった。

 攻め込もうとすると集中砲火を浴び、なかなか接近できない。それでも相手が弾を取りに戻っている隙に指示を出し、じりじりと詰め寄っていく。だが、今度はこっちが弾切れしたところを一斉射撃され、モレが当てられてしまった。

 やってみて解ったが思いの外難しい。ちゃんと計算して投げなければ駄目だった。こつは、一つ投げたあと、すぐ微妙にずらして二投目を投げるのが効果的らしい。続けざまにきた弾には反応も遅れがちになるものだ。

「ほれ、当たったぞ。一回目な」

 どうやら荒ケンが敵の一人に当てたらしく、被弾したヤツは悔しそうに天を仰いでいた。かと思うと左の方では、「くっそー」と叫びながら顔を歪めてウメッチが戻ってきた。

「しまった! 晃二」

 その隙をぬって敵が前線を突破してこっちに向かって来た。

 いきなり敵の砲撃が増える。晃二はその弾を避けながらたて続けに三発放ったが、どれも外してしまった。しかも焦って足元の弾を拾い損ねた。

 やばいと思った直後、「ガッデム!」と叫んでそいつは腿を押さえたまま泥に突っ込んでいった。荒ケンが後ろから放った弾が直撃したらしい。

 だが安心していられない。少しでも隙を見せると五、六個まとまって飛んでくる。

 あっ、と息をのんだ瞬間。ブースケの頭に直撃し、泥の破片が辺りにはじけ飛んだ。

 大丈夫か。晃二が駆け寄ったとき、ガシッという音と共に臑に痛みが走った。ブースケに気を取られているうちに晃二も被弾してしまったのだ。

「イェーッ。ザマアミロ。」

 はしゃいでいるジミーを見て、一気に頭に血がのぼった。

「くっそぉ。やりやがったな」

 晃二が弾を抱え込んでいると、「援護射撃頼む!」と声が聞こえた。

 仇を取ろうと、荒ケンが盛んに攻撃しながらにじり寄っていた。だが四対一では無理がある。敵の一斉攻撃に遭ってしまい、逆に一発被弾してしまった。これでこっちは全員が一発ずつ喰らってしまったので、形勢は逆転されつつあった。

 ここは冷静になって耐えるしかない。そう判断した晃二は「一旦、少しバックしろ」と前線三人に指示を出した。

 そこからしばらくは一進一退が続く。

 その後、集中して一人に的を絞る作戦に切り替えたのが功を奏して、なんとか三人にまで減らしたが、こちらも生き残りは荒ケン、モレ、晃二の三人だけだった。

 戦況がにわかに変化したのは、相手が弾を抱えて総攻撃に出ようとした矢先である。

「俺が囮になるから、総攻撃しろ!」

 業を煮やした荒ケンは弾を抱えて突進していった。

「当てられるもんなら当ててみやがれ」そう叫びながら、砲撃を躱して走って行く。

 行く手で泥の塊がパンパン爆ぜる様は見ていてハラハラしたが、反面カッコよかった。荒野の七人の映画で、敵の銃弾が足下で土煙を上げる場面のようである。

「行くぞ、モレ!」

 全員の照準が中央に向けられたタイミングを見計らって、二人はサイドから攻め上がった。だがそのとき、ふっと荒ケンの身体が視界から消えた。窪みに足を取られ転んだらしい。

 まずいな。晃二は舌打ちした。だが、戻るわけにはいかない。目標物を失い、すぐさま敵の矛先が変わった。逡巡して足が止まった晃二めがけて弾が容赦なく飛んできた。

「よっしゃ」そこで荒ケンが立ち上がった。

 隙をついて投じた弾が一人に当たり、叫び声と同時に眼鏡が吹っ飛ぶのが見えた。

「今だっ。総攻撃だ!」

 そう叫んで荒ケンとモレが突進すると同時にジミーが大声で叫んだ。

「ストップ!」

 反射的に身体が止まったのは、ただ事ではない様子が見て取れたからだった。

 頭を抱えてうずくまった少年に米軍はみんな駆け寄っていく。晃二達も遅ればせながら近づき、様子を窺った。

「ヘイ、ユー! オマエ、石投げただろ」

 すごい剣幕でジミーは荒ケンの胸ぐらを掴んだ。

「なんやと、そんな卑怯な真似すんかよ」

 荒ケンも負けていない。そのジミーの腕を締め上げた。

「待て待て、興奮すんなよ。その前に怪我はどうなんだよ。」

 晃二が屈んで見ると、こめかみの辺りが青紫色になっていた。彼の足元に落ちていた泥の塊を見つけ、拾い上げる。

「アオタンになるくらいで、大丈夫だよ。目に当たんなくて良かったじゃん」

「原因はこれだよ。ほら、中に石が入ってるだろ」

 晃二の差し出した、半分に割れた塊からは石の欠片がのぞいていた。

「ほらみろ、オマエ知ってて投げたんだろ」

「そんなの知るわけねぇやろ。濡れ衣や、あほんだれが」

 ジミーはまた掴みかかろうとした。

「オマエらジャップは、いっつもきたねぇことするじゃネェか」

「なんでや。お前らヤンキーの方がよっぽどきったねぇやろ」

 先にキレて、パンチを出したのはジミーの方だった。

「やりやがったな。ここは元々日本や、てめぇら、でけぇツラすんじゃねぇ」

「うるせぇナ。こん中はアメリカ領だぞ」

「日本の中のアメリカだろが。胸くそわりぃな」」

 そこからは取っ組み合いになってしまい、全員で止めに入る。二人ともシャツが伸び、肩が露わになっているが、掴んだ手は絶対に離さなかった。

「ニホンニホンってうるせぇな。お前の言うセリフじゃねぇだろ」

「なんやと、このボケ。てめえもアイツらの仲間か」

 晃二達には叫んでいる内容も、アイツらとは誰のことを言っているのかも見当がつかなかった。だが、金髪を掴んで引き寄せた荒ケンの顔がもの凄い形相に変貌していたので、きっとただ事ではないのだと察した。

「この前、プラモ屋で噂してたゾ」

 それを聞いた荒ケンは、顔を顰めて唾を吐くと、膝蹴りを立て続けに入れた。

「貴様ら、よってたかって——ぶっ殺してやる」

 ジミーは防戦一方で、身をかわすのが精一杯だ。流れは荒ケンのペースで、他の連中も加勢できずに見ているだけだった。

 それでもジミーは英語で暴言らしき言葉を吐いていた。

 やがて完全にヘッドロックが決まったところで振り絞った悲鳴のような声が響いた。

「放せヨ。放せったら、チョーセンのくせに」

 その一言で一瞬荒ケンの動きが止まった。

 急に止まったせいでバランスを崩した二人を見て、晃二は今の言葉の意味を探った。ウメッチもわけが分からないといった表情である。

「…だったらなんや! みんなしてアホぬかしよって」

 今度は本気で荒ケンはぶち切れ、顔を真っ赤にして殴りかかった。

 このままではまずいと思い、羽交い締めして止めようとするが、どこにこんな力があるんだと思わせるほどで、三人がかりでも引きずられてしまう。

「いいから早くジミーを連れてけ!」

 声を嗄らして叫び、二人の距離を力ずくで離していった。

「オマエのオヤジ、大阪で問題起こして、こっちに逃げて来たって有名だゾ」

 遠離りながらジミーが最後に発したその台詞で、荒ケンの身体から力が抜けた。そして、抱きかかえられるような姿勢から、崩れ落ちるようにその場に座り込んだ。

 その姿を見て、ようやく晃二にも事情が呑み込めた。彼が否定もせず、反対に非難したということは、本当のことだからであろう。

 項垂れた荒ケンの肩は小刻みに震えていた。

 しばらく、誰も、何もできなかった。時が止まったようだった。ただ我関せず鳴き続けている蝉だけを除いては。

 ジミーたちが離れ去った後も誰も口を閉ざしたまま泥まみれの姿で腰を下ろしていた。何をどう切り出していいのか分からないこともあったが、今はただ荒ケンの様子を見守るしか出来なかった。

 生ぬるい風が辺りの泥の臭いを運び去っていく。見上げるとさっきまでの入道雲が遠く小さくなっていた。

「あのな…」

 どれくらい時間が過ぎたのか分からなかったが、荒ケンはやっと顔を上げた。

 膝を抱え、黙って周りを囲むように座っていた四人は一斉に顔を上げる。

「俺さ、今まで黙ってたけど……在日なんよ。ほんまはな」

「それにな、親父が総連の活動で問題起こして、そんでこっち来た、ちゅうのもほんまや」

 すり切れたジーパンをさすりながら、独り言のように訥々と話を続ける。

「別に悪いことしたわけやないんやけど、ちっと近所と揉めてな」

「…でも、それだけが原因やなくて、ある日な、家が火事になってしもぉたんや。まぁ幸いボヤで済んだけど、大家からは出ていってくれって言われてな…」

 そこで鼻を啜り、一息ついた。

 誰も何も言わない。いや、言えなかった。

「その前から窓ガラス割られたり、嫌がらせが多かったから、放火やと思うわ。非道いことしよるぜ」

 三年生で転校してきて以来の仲だが、こんな悲しそうな荒ケンを見たのは初めてだった。何か声を掛けてあげたかったが、晃二は何と言っていいのか言葉が浮かばなかった。

「いつかはお前らに言わないと、と思っていたんだが、なかなか言い出せなくてな」

「…それが、どっから聞いたのか、噂しだした奴がおるらしくてな」

 それがさっき言っていたアイツらなのだろう。

「在日だけならまだしも、面倒起こして逃げてきた、なんて噂されてみい、一発でみんな態度変わるで」

 口さがない連中は何処にもいるものだ。ここ横浜では外国人が多いため、よくある話ではあったが、自分の友人が対象になっているなんて思いもしなかった。しかし、そんな大人達の蔑んだ視線に、荒ケンは一人で耐えてきたかと思うと、晃二は憤りを感じると同時に切なくなってきた。

 声をかけようとしたとき、ブースケが顔を上げた。

「ねぇ。そんな悲しい顔しないでよ、荒ケン」

 こんなときいつもなのだが、彼の口調は天然であるが故か、意外と場を和ませるのだ。 

「…大丈夫やブースケ」荒ケンは肯いて言った。「俺にとっては、もうどうでもええことなんや」

 急に声の感じが軽くなる。そしてもう一度鼻を啜って、さらに柔らかい口調で言った。

「大事なのはこれからだと思っとるよ」

 ようやく目線を上げた荒ケンはみんなの顔を見回した。頬の辺りにぼやけた白い線が浮かんでいた。

「そうだよ、これからだよ。それに荒ケンが在日だって俺達には全然問題じゃないよ」

 晃二は本気でそう思っていた。同じ意見なのだろう、みんなも強く肯いた。

「荒ケンは荒ケン。それでいいじゃんか」

 ウメッチは鼻を啜ってから、勢いよく立ち上がった。

「おぅ、ありがとな。そう言ってもらえて、ほんと嬉しいわ」

 小さく笑った荒ケンの顔にはいつもの細い目と皺が戻っていた。

「なんだかんだ言われても気にすんなよ。俺たちがついてるからさ」

 モレは言ってから照れたのか、「たいして役に立たないかもしんないけどね」と付け加えた。

「よく分かってんじゃん」

 ブースケの突っ込みに反論せず、モレは「まぁな」と笑った。

 なんだかみんな嬉しそうだった。雨降ってなんとかだ。逆に結束が固まったような気さえする。

「あぁ、なんだかすっきりしたわ」

 そう言って荒ケンは立ち上がり、大きく伸びをした。

 ようやく晃二は、荒ケンが休みに入ってから様子が変だったり、犯人捜しに拘った理由がわかった。最近、関西弁のイントネーションが薄れてきているのは、早く過去を忘れてこっちに馴染もうと努力している顕れなのかもしれない。

「さて、日が暮れるまでまだ時間はあるから、なんかしようぜ」

 そう言って晃二も立ち上がり、大げさに埃を払った。

「そやな、気分転換でもするか」

 そこで「そうだ!」と、凄い名案が閃いたかのような顔つきで、ウメッチはみんなの顔を見回した。

「あのさ、基地に戻って、さっきのビキニでも見ようぜ」

「何を言い出すかと思えば、まったく」

「じゃあ、晃二は見たくねぇのかよ」

「えっ、別に。嫌とは言ってないだろ」

「なんだよ。むっつりスケベが」

 ついさっきまでの展開や、この場の雰囲気を変えるにはいい提案かもしれない。と言うか、普通に日常に戻ることが。

「よし、そうしようぜ。でも、やっぱ俺はあんなもんじゃ勃たねぇな」

「よく言うよ、エロねずみ男が。この前、鼻血出したくせに」

「うるせぇよ、デブ。お前みたいなガキには十年早いんだって」

 いつもと変わりない、たわいない貶し合いが、何だか心地よく感じる。

 場を和ませようとする者、安堵から上機嫌に転じる者、照れ隠しで話に乗ずる者、そして本気で言い合っている者。それぞれの想いや不器用さが滲み出ていて思わず笑みが溢れる。

 そんな場面を教会の屋根に隠れようとしている太陽が照らし出している。その赤味を帯びた日射しは、五人の影を地面に色濃く焼き付けていた。

「またかよ。お前ら、ほんとに仲いいな」

 荒ケンは以前と変わらぬ笑み浮かべ、それから上方に向かって声を放った。

「じゃ、みんな行くぜ」


第二章 「スプリンクラーを浴びて」完    第三章に続く

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