第3話


 トタン屋根やブルーシートを被った平べったい家屋がひしめく町で、ワンボックスカーが停まった。運転手はハンドルに顎を乗せて、降りてくる気はなさそうだ。

 大通りに面した店は大きく口を開けていて、所狭しと冷蔵庫だのクーラーだのが並べられている。通りにある店の全てが家電店のようで、店構えはどれも同じに見えた。

 そんな目抜き通りごと町を分断するように、大きな川が横たわっている。茶色い水が緩やかに流れる中に、ザルや柄の長いシャベルを抱えた子供たちがひしめき合っていた。どうやら川底をすくっては、ザルでふるっているらしい。あちこちを掘り返しているせいか、川はいやに立体的でぼこぼこしていた。

「こっちよ」とデイジーに呼ばれ、僕らは大通りに並ぶ家電店のひとつに入る。洗濯機と冷蔵庫に圧迫された通路を進むと、小さなカウンターの中に壮年の男が立っていた。黒人ではない。かといってデイジーのような白人でもない。僕の肌とアンヘルのそれとを混ぜ合わせたような不思議な色だった。黒いくせ毛の下から、寝惚けた眼差しが向けられる。両手はカウンターの下に隠れていた。強盗対策の武器を握っているのだろう。

「アッサラーム・アライクム」とデイジーは聞きなれない言葉をかけた。「学校」で学んだどの言語でもない。

 カウンターの男は鼻筋にしわを寄せると「それは」と妙な訛のある英語で答える。

「あんたたち白人連中がヒステリックに叫んで禁じた文化の窃盗じゃあないのかね」

「まさか」デイジーは短く鼻息を漏らした。「離散せざるを得なかったレバノン人へ哀れみと、それでも強く生きるあなたへの敬意よ」

「よく言うよ。自分たちは世界の公正な良心だって面で勝手なルールを敷いておいて。その傲慢さと厚顔さを、まさか自覚していないのか?」

「被害妄想はやめてちょうだい」

「忘れるな、白人ワイティ。世界がどうであれ、この国でのあんたたちは少数派の、憎まれるべき人種だ」

 ふたりの舌戦を聞き流しながら、レバノン人とはどこに住んでいる人を示すのだろう、と考える。僕が生まれたリベリア、「学校」のあるシエラレオネ。デイジーがときおり口にするアメリアやヨーロッパ。「学校」の支援者がいるアジア。言語を学ぶ際に語られたいくつかの国、宗教の授業で耳にした国々。そういうものが実際にどれほど遠くにあるのかと問われると、わからない。漠然と、ワンボックスカーでは行けない距離にあるのだろうと思う程度だ。

「アッサラーム、アライクム」とデイジーをまねて不思議な音階を辿る。

 途端に男が舌打ちをした。彼の国の言葉は舌打ちされるようなものなのだろうか、と少し驚きつつ、素直に「ごめんなさい」と英語で詫びた。

 そんな僕に興味を抱いたのか、男は目を瞬かせてからカウンターの上に身を乗り出した。僕とアンヘルとを見比べてから、「おまえ」と僕に対して白い歯を威嚇的に剥く。

「白人が憎くないか? この国を蹂躙し、先祖を虐殺し、いまだにこの土地のあらゆる資源を吸い上げて醜く肥えている連中を」

 かちん、とカウンターの下から音がした。刹那、項が粟立つ。銃の安全装置を外す音だ。カラシニコフを抱えて勇敢に村を襲っていた過去の自分が、屈強な大佐から降り注ぐ圧倒的な暴力が、潰れた母の顔が、一挙に脳内に押し寄せる。

「殺してやりたいと、思わないか?」

 どうだ? と男に促されて、緩慢にデイジーを振り返る。華奢な体躯、柔らかく膨れた胸と尻、不釣り合いな脇の拳銃。金の髪、首に巻き付いたスカーフと小さな鞄。僕を買い取った、白い女。

「おいおい」と失笑雑じりに呼ばれて、我に返る。男の両手はいつの間にかカウンターの上にあった。武器もない、空っぽの手だ。

「そっちじゃない」男はデイジーではなく、アンヘルを示す。「おまえ、この白人坊主と一緒くたに扱われてるんだぞ?」

 え? と間抜けな声が漏れた。アンヘルとはずっと一緒だった。ふたりともが歌を評価されて買い取られ、同じように去勢され、ともに学んできた。それが当たり前だったのに、この男はまるで僕がアンヘルに殺意を抱いていなければおかしい、という態度だ。

 僕の間抜けな沈黙をどう捉えたのか、男は「ふうん」と曖昧な息を吐いた。

「カストラート特有の仲間意識か?」

「カストラート?」また初めての言葉だった。

「去勢歌手をそう呼ぶんだ。古いラテン語で『潰された者』って意味だ」

 僕はなにもない股間を意識する。外科手術によってきれいに除去された男としての象徴が、僕の体から離れてすり潰されるイメージを描く。

 昔、アンヘルを初めて見たとき、もし彼がアルビノであったならば魔術に用いるために体をバラバラにされて売られていくのだと、仲間の女の子たちが噂していたことを思い出す。彼は魔術のために殺されることはなかったけれど、僕とふたりで天使にされてしまった。

「肌の色が違っても、僕らはずっと仲間だった。永遠の子供の声を持つ天使なんだ」

「天使? 天使だと? 白人が?」

 はっ、と男が鼻を鳴らした。寝惚けていた瞳がいくばくかの感情を宿す。「メヤ川を」と攻撃的な憎悪を感ずる声音で、男は家電に埋め尽くされた壁を指した。町を両断していたあの泥川のことだろう。

「見てきたか? 車が通ることはもちろん、人だってろくに歩けないでこぼこ具合だ。赤土が流れ出て、飲むこともできないくらい濁ってる。大昔に、白人連中がダイヤ欲しさにショベルカーで根こそぎひっくり返したせいだよ。連中はああやって、どこの国でも好き勝手に奪い尽くしてから、俺たちから奪ったもので築き上げた財力を振りかざして人道支援に来るんだ。そんな連中を、どうして俺が、買い取ってやらなきゃならないだ」

 鼻筋にシワを寄せた男から目を逸らし、アンヘルを窺う。金髪と、茶色い瞳を縁取る同じ色の睫毛。乳白色の肌と薄い唇。そのどれもが美しいと感じる。光に形を与えたようだ。

「彼とはリベリアで逢ったんだ。リベリアで、鎖につながれて、歌う家具扱いされてた。あなたが語る白人は、アンヘルとは別の人だよ」

「だが白人には変わりない」男は鋭い眼差しをアンヘルへと向ける。「今だってこうして、庇ってもらってるクセに黙りだ。連中は都合の悪いときは知らん顔で、儲け話のときだけさも善人顔で首を突っ込んでくる」

「それは」アンヘルは自らの喉に触れつつ、足下へと問う。「誰の話? 肌が白ければみんな、敵なの? あなたは誰を憎んでいるの? あなたの人生にボクはどうかかわったの? ボクは、じゃあ」

 ふっ、とアンヘルが唇を緩めた。男の浅慮を嘲笑ったようにも自嘲したようにも見える不思議な表情だった。

「ボクの人生について、誰を恨めばいいの?」

 初めて逢ったときのアンヘルを思い出す。首につながれていた鎖の重たさを、村の子供たちの死を眺めていた無感動さを、武装ゲリラを素直に受け入れた精神状態を、考える。そして「学校」で彼に向けられていた仲間たちの冷たい眼差しを。

 試練を与えて見守るだけの神さまという概念が今、僕らを冷たく見下ろしていた。

「アンヘルは」囁きになった。「もう、じゅうぶんに憎まれたよ。そして僕らは、誰も恨まない。天使はただ、歌うだけだ」

 男は唇を引き結ぶ。目を眇めて僕とアンヘルとの狭間を睨む。どれほど沈黙が続いたのか、男はゆっくりと深い息を吐いた。

「いいだろう。合格だ。ふたりとも、歌を聴こう」

 合格? と首を傾げた僕らの背後で、デイジーが満足そうに笑う気配がした。

「何度テストしても無駄よ。ウチで育てたカストラートはみんな優秀なの。あなたの安い挑発に乗って反抗を企てたりはしないわ。なにしろ、全ての子供たちをダイヤモンドで取引しているのだから」

「ダイヤモンドを支払ったからって、ダイヤモンドと同じ輝きを持つ商品とは限らないだろう。子供たちは原石だからな」

 男はカウンターを回り込み、奥へと続く扉を押し開けた。体を斜めにして、「どうぞ」と僕らを招く。

「合格ってことは、僕らはこれで卒業?」

「まだ、人間としての合格点が出ただけさ。子供兵士だった連中は成長してもちょっとしたことで暴力に走る場合が多い。今のは、ちょっとした侮辱や唆しに対して我慢が利くかのテストだ。おまえたちが人間か獣かの見極めだよ。往々にしてカストラートを買おうなんて連中は、すでにバリトンだのソプラノだのの歌手をいるんだ。忍耐力はなによりも重視されるさ。オークションで競り落とされた先で問題を起こされれば、仲介人の俺の立場もないからな。次はカストラートとしての価値を計らせてもらおうか、天使さま」

 扉の奥は小部屋になっていて、木目調のチェンバロが据えてあった。その前に座る男は、少々窮屈そうだ。

「あなたがマエストロ?」少々意外な組み合わせに思えた。「学校」ではいつも、楽器を奏でるのは白人音楽講師と相場が決まっていたからだ。

 男は悪戯っぽく唇に指先を当てると「内緒だぞ」と薄く笑った。

「俺みたいな男が持つことは禁じられてるんだ。おまえたちカストラートとおんなじだ」

「どうして? 僕たちと楽器は違うのに」

「持ち物が問題なんじゃない。誰が持っているかが問題なんだ」

 僕は黙って首を傾げる。男は笑みを深めて「チェンバロを」と続けた。

「誰が発明したかは定かじゃない。それっぽい記述は残されているが確定はしていない。だが、原型となった楽器がどの地域で生まれたのかはわかるだろう?」

「イタリア」と僕が、「ドイツ」とアンヘルが答える。たぶん、どちらも正解でどちらも不正解だ。イタリアでチェンバロの原型となった楽器が作られたのではないかという記述は音楽事典にあるし、チェンバロを弾く人の姿はドイツの彫刻に残されている。

 男は満足そうに頷くと軽く両手を広げて見せた。空っぽの掌が白々しく示される。

「どのみちヨーロッパで発明された楽器だ。レバノン出身の俺が持つことは、一部の自称人権活動家連中が主張する『世界的な良識』によると、文化の窃盗になるらしい」

 デイジーが彼の邦の言葉で挨拶をしたときに聞いた言葉だった。

「自分の出身や所属するコミュニティの文化や伝統、母語以外を演じてはいけない。真似てはいけない」男は笑みを浮かべたまま、瞳にどす黒い嫌悪を滲ませた。「真似た者は徹底的に糾弾してもいい。俺が子供のころ、そういう暗黙のルールが世界に広まった。一部の『良識的』な連中の主張を、自分は『善良』だと勘違いした連中が認めて、過激な行動を容認した。あるいは異を唱えることなく沈黙した。白人は黒人の歌を歌ってはいけない。歌手は自作の曲に他国語を入れてはいけない。ゲイはバイセクシャルを演じてはいけない。男が女性歌手の歌を歌ってはいけない。仏教徒がムスリムの物語を書いてはいけない。キリスト教徒がユダヤ教徒の言葉を訳してはいけない。カストラートのために作られた曲を、女や男が歌ってはいけない」

 なるほど、と僕はデイジーが歌手を目指して挫折した理由を知る。白人女性であり英語を母語とする彼女は、白人女性が作曲した英語の曲しか歌えないのだ。僕らのようにあらゆる国の歴史や言語を学び、多種多様な発声法を身に着けることはできなかったのだ。

「いや、そもそもカストラート自体が人道的見地から遙か昔に禁止されてたわけだが……」

「ひょっとしてレバノンっていうのはあらゆる音楽の発祥の地なの?」

「は?」と瞠目した男は、すぐに噴き出した。「なにを言い出すのかと思えば」と呆れ口調が、けれど低くひそめられた。「レバノンってのは内戦があった国の名だよ。ヘルモンっていう、堕天使が下り立ったとされる山がある国でな。堕天使たちは人間の女を娶り、善からぬ知恵を授け、神が大洪水で地上を洗う原因を作ったんだ」

「つまり、あなたは堕天使の末裔?」

 だから彼は自分の祖国の言葉を嫌ったのだろうか。

「そう」男はチェンバロの鍵盤に指を乗せる。「堕天使も天使の端くれだ。だから天使の歌声といわれるカストラートの声の良し悪しくらいはわかるさ」

 冗談にしては真剣な顔で、男は嘯く。僕も、彼の表情に相応しい重厚さで頷いた。

 ふぁん、とチェンバロがラを歌う。440Hz、多くの交響楽団が基準とする音だ。きちんと調音されていた。

「それで?」男がチェンバロの鍵盤に指を這わせながら僕を仰ぐ。「なにを歌ってくれるんだい、天使さま?」

「ヘンデルの」と答えたのは、アンヘルだった。「アリオーソアリアを。歌劇『セルセ』の『Ombra mai fu優しい木陰』」

 去勢歌手天使のために作られた名曲だ。僕も異存はない。男の指がゆっくりとチェンバロの鍵盤を泳ぐ。譜面を探すこともせず、滲んだ音で歌い出しの音程を示す。

 アンヘルの、すすり泣きに似た声が緩やかに流れだす。ふくよかな赤土の大地を彷彿とさせる安定したイタリア語だ。豊かな声量と繊細な技巧が、たった一声でも伝わる。

「やめろ」唐突に男の鋭い制止が割り込んだ。「じゅうぶんだ。もういい」

 意味がわからず、僕は瞠目する。アンヘルはまだ二声しか発していない。カストラートが誇るソプラノの音域にすら達していない。それなのに男は、乱暴に手を振って遮った。

 どうして? と口を開きかけた僕は、呼吸を止める。男を問い質す呼吸を詰める。

アンヘルの頬が、白い肌がタイルのように剥がれ落ちてしまいそうなくらい、蒼褪めて震えていた。半開きになった唇が戦慄いている。

「おまえ」男の冷ややかな抑揚がアンヘルへと向けられた。無遠慮に伸ばされた手がアンヘルの白い喉を鷲掴み、うごめく。当のアンヘルは身動ぎひとつしない。

 ややあって、男は目を眇めて舌打ちをした。

「なにが天使の歌声だ。なにがカストラートだ。おまえ、偽物じゃないか」

「今までは、誰にも気づかれなかったのに……」

「俺は堕天使の末裔だぞ」はっ、と男は鼻を鳴らして唇の端を吊り上げる。「本物の天使の歌声かどうかなんて、聞けばわかる」

「偽物って」割り込んだ僕の声は上擦っていた。「どういう意味? 僕と彼はずっと一緒に練習してきたんだ。彼の技術は本物だよ」

「人工声帯だ」男は指先で自分の喉を叩いてみせた。「喉の筋肉に電極を埋め込んで、歳不相応な歌声を出させる。金持ちが即席歌手を作る方法だ」

「でも、だからって……」

 僕らが「学校」で重ねてきた年月が無に帰すわけではない。

「彼の歌声は訓練で培ったホンモノだよ」

「問題は歌唱技術じゃない」

 男は僕にともアンヘルにともつかない抑揚で答えつつ、チェンバロの鍵盤に指先を遊ばせる。奏でられるのはたどたどしい宗教声楽曲モテトだ。

「そもそも長く使われることを想定していないんだ。人工声帯は使用限界を迎えると硬化する。歌えなくなるどころか、そのうち声も出なくなるぞ」

 僕はアンヘルを見る。蒼褪めた横顔に、動揺はなかった。彼は知っていたのだ。自分の声が人工的に制御されたものだと、その結果、いつかは声を失うのだと。

「ボクの声はね」アンヘルは僕を見つめて、頬を緩めた。「殴られたときに、肌を切り裂かれたり焼かれたりしたときに、美しく泣き叫べるように、造られたものなんだよ。人買いたちがそうした。そういう子供は長生きできない。死を望まれている。でも父さんはボクを殺さなかった、殴らなかった。誰かに奏でられる楽器じゃなくて、ただそこに在るだけの家具にしてくれたんだ。ただ存在するだけで生きていられるなんて、こんなに幸せなことはないだろう?」

 アンヘルの首に鎖が見えた。彼がまだ薄暗い部屋につながれていた頃の、幻だ。僕は自らの手を見下ろす。空っぽだ。ヨアンやアイーシャたちと村を襲っていたころのカラシニコフはない。思えばもう、どうやって撃っていたのかすら忘れてしまっている。

 唐突に、甲高い叫びが鼓膜を裂いた。アンヘルの、歌唱も音階もない叫びだ。女の子の絶叫とも獣のそれともつかない。懐かしさすら覚えて、彼の高音に唱和する。僕らが初めて出逢ったときに合わせた、マライア・キャリーのホイッスルボイスだ。

 束の間、呼吸半分だけ、アンヘルに動揺が走った。それもすぐに、僕との調和を目指して整う。僕らはずっと、歌うために育てられてきたのだ。

 僕とアンヘルの、ヒステリックなまでの高音が音楽を編む。彼の声に機械の気配は感じられなかった。それでも幽かに、僕たちが襲ったあの村の埃っぽさが宿っている気もする。「学校」では思い出せなかった旋律が、考えるより先に口をつく。荒々しく自由奔放で、ともすれば暴力的な音だ。

でたらめな歌詞で歌い終えた僕らは、弾んだ呼吸を整えることもなく互いを見た。

「マライア・キャリーだ」と僕が。

「クリスティーナ・アギレラだよ」とアンヘルが、苦笑して言う。

「ディマシュ・クダイベルゲンの曲だろう」と男が告げる。「知らないで歌ったのか? カザフスタンの、七オクターブの音域を持っていた男性歌手だよ」

 僕らは顔を見合わせる。お互いに血の気が引いていた。初めて聞く名前に動揺する。歌姫女性でも性器を失ってもい天使でもない男が、あの高音を歌っていたというのだ。では性器を失ってまで七オクターブの音域を守った僕らは、なんだというのだろう。

 はは、とアンヘルが笑う。大人の男になれない声で、少女のすすり泣きに似た声で。ゆっくりと踵を返して部屋を出て行く。さようならも、またねもない、別れだ。

 咄嗟に彼の腕をつかんだ。でもかける言葉が喉に閊えて、頭が真っ白になる。こんなはずじゃなかった。僕らはともに、等しく天使になったのに。

 アンヘルの白く美しい指が、僕の黒い手を解く。薄茶色い彼の瞳に、僕が映り込んでいた。山に下りた堕天使の影かもしれない。

 アンヘルと入れ違いに、肩を怒らせたデイジーが入ってきた。「冗談じゃないわ」と苛立ちもあらわな怒声が耳を突く。

「買い取らないって、どういうこと? 白人のカストラートよ? 国籍さえ与えればカストラートのために書かれた曲を、表舞台で歌える存在よ?」

 男は短く、呆れと侮蔑が宿る息を吐いた。

「人工咽頭だよ。売り物にはならない」

 刹那、デイジーが青ざめた。「そんな」と喘いだ声がすぐに「ありえない」と力強さを取り戻す。

「ゲリラから買い取った子供よ? リベリアの、電波もろくに入らない、インプラントはもちろん医療施設だってろくに知らない連中が、人工咽頭なんて代物を持ってるわけないでしょう」

「そういう思い込みを差別って言うのさ、白人さま」

 舌打ちをして、デイジーは言い募る。

「わたしはこの耳で、この子たちの声を確認して買い取ってるのよ」

「ああ」と男の頬に哀れみが差す。「そうか、おまえさんくらい若い世代だと、もう本物の歌声なんて訊くことはないのか。録音、合成音声、そりゃ耳なんてまともに育ちゃしないさ。おまえが生きてきたのは、ラジヲで男が女の歌を紹介しただけで非難される時代だ」

 デイジーの白い頬がかすかに痙攣している。何事かをブツブツと呟いてから、「それでも」呻く。

「黙っていればいいのよ。ただの人工咽頭でしょう? 客は気づかないわ」

「なら、余所を当たれ」男は面倒くさそうにチェンバロの蓋を閉じた。「俺は偽物を扱わない。こっちは規定量のダイヤで買い取る」

 男は僕の背を押して部屋を出ると、カウンターの下から小さな手提げ金庫を取り出した。透明なガラス片が詰め込まれている。大きい物でも足の小指の爪くらいしかない。ダイヤモンドだ。僕らが大佐から買い取られたときの支払いに用いられていたものは黄色くくすんでいたけれど、ここにあるものはどれも光をかき集めたように澄んでいた。

「こういう小さいダイヤモンドはわざわざ日本に運んで加工されるんだ。職人がひと粒ずつ指輪だの首輪だのにはめ込むらしいぞ。日本って国がどこにあるか知ってるか?」

 僕はもう国名なんかには興味がなかった。アンヘルは不合格になったのだ。もう二度と僕らの路は交わらない。

「ダイヤモンド……」僕らにつきまとう仰々しい名称を噛みしめる。「ただの石じゃないか」

「まあ……そうだな」男が心底愉快そうに鼻を鳴らした。「こんな石ころが世界じゃ高値で取引されているんだよ。だがメヤ川で大きめのダイヤを掘り当てたって」男は店中にひしめく家電へ顎をしゃくる。「景品としてこれを持って帰れる程度だ」

「ダイヤモンドとクーラーと天使は、全部同じ価値ってこと?」

「泥に塗れてダイヤを掘る連中は、ただ働き同然ってことだよ。どれもこれも、本当は価値なんてない」

 男は爪の先に乗る程度の小さな石を二つ、つまみ出す。ぎらぎらと眩いほど輝いている。三年前、デイジーは大佐に何粒の濁ったダイヤモンドを支払ったのだろう。僕とアンヘルは同じように「学校」で学んだのに、彼だけが石ころひとつ分の価値すら失ってしまった。

「ちょっと」と緊張を孕んだデイジーの声で、我に返る。「あの子は、どこ?」

 乾いた泥でスタンプされた足跡が散る店内を見回す。誰もいない。その事実に、呼吸が苦しくなった。彼は、逃げたのだ。自由になるために走り出した。僕らの道は別たれた。

 そうわかっていたのに。覚悟もしていたのに。

 僕は駆け出していた。見えもしないアンヘルの後を追って、家電製品ばかりが並ぶ大通りを駆ける。デイジーの制止が絶叫になって届く。どうして彼を追いかけようと思ったのか自分でもわからない。さようならも言わずにすれ違った彼の、白く美しい横顔が瞼に焼き付いていた。

 いくらもいかず、建ち並ぶ建物が閉鎖的なバラックになる。道路を掘り返したのか、掘った後の土を積み上げているのか、赤土の道は立体的で足をくじきそうだ。

 町を断ち切る大きな川に出た。茶色く濁った川面のあちこちに半裸の子供たちがいる。ザルを片手に岸辺へと引き上げてくるところだった。今の僕といくつも変わらない青年から、デイジーに買い取られたころの僕と同じくらい幼い子もいる。

 彼らの流れに逆らう、白い影が見えた。アンヘルだ。土手を転がり下り、泥の中に倒れ込む。アンヘルの金髪が半ばまで沈んでいた。

 溺れてしまう、と血の気が引いた。少年たちを押しのけて川面へ駆け下りる。はずが、少年たちの悪態とぬめった足場とに阻まれて思うように距離が縮まらない。

 と、泥の中でもがくアンヘルに大股で近づく男がいた。泥だらけのハーフパンツから伸びる引き締まった脚にも、裸の上半身にも、強靭な筋肉が張り付いている。

 束の間、僕はアンヘルを救い出す男の、大人の男の肉体に、見惚れた。僕には──去勢された天使には、どれほど望んでも得られないものだった。

 脚にまとわりつく泥が重みを増した気がした。抱き起されるアンヘルの、生白く華奢な体に自分を重ねる。背ばかりが伸びて、喉と胸に脂肪を抱えた、永遠の子供の体だ。天使の歌声のために、大人の男としての成長を奪われた。これから僕はオークションに掛けられて、新たな持ち主の下で天使として生きていく。

 子供の僕はただ、生きたいと願った。大人になるために、死なない道を選び続けてきた。

 懐かしいアイーシャの顔が浮かぶ。空っぽの手にカラシニコフの重みを探す。あてもなく伸べた手が、ヨアンの幻影をかすめる。

「カラマ?」

 アンヘルを抱き起した男が不思議そうに僕を呼んだ。見覚えのない男だった。それなのに、目元に既視感がある。なによりも男はアンヘルを見下ろし「おまえ」と言葉を続ける。

「家具を廃業してダイヤモンドの露天掘りに転職するのか? そのひょろい体じゃ倒れるのがオチだぞ」

 ヨアン、だった。別れたころよりも背が伸び、体が二回りは大きくなっている。それなのに筋肉に覆われた腕にあるのはカラシニコフではなく、大きなシャベルだった。

「なにを……」

 しているの? と問うのはあまりにも間抜けだった。僕は口を噤む。

「今ここで」アンヘルの力ない呟きが僕らの間に転がる。「ボクを殺して。ひと思いに、昔のよしみで。ボクは、他人に弾かれる楽器にはなりたくない。天使じゃない白人なんて、なぶり殺されるだけだ……」

 ヨアンの顔が険しくなった。事態を飲み込めぬままに、それでもアンヘルの身に降りかかる災難に見当をつけているようだ。その精悍な雰囲気に、ぞくりとした。恐怖じゃない。羨望だ。彼の全身から立ちのぼる大人の男の、ともすれば大佐にすら匹敵する屈強さに、叫び出したいほどの渇望を覚えた。そんな自分を誤魔化すために首を巡らせる。

 川に散った少年たちは興味深そうに、そのくせ口も利かずにこちらを窺っている。ゲリラ時代の僕たちとは違い、彼らは仲間どうして談笑したりしないらしい。

「……アイーシャは? 一緒じゃないの?」

「カストラート!」

 ようやく追いついたらしいデイジーの声が、妙に遠くでした。汚れることを厭うて土手の上で立ち止まっているのだろう。

「あいつは……」

 ヨアンは言い淀み、しゃがみ込んだ。尻が泥水に浸かることも気にせず、アンヘルの脚にへばりつくズボンを直して立たせてやる。

 背後から乱暴に水をかき分ける音が近づいてきた。デイジーが雇っている運転手がかり出されたのだろう。腰に吊られていた拳銃だけを鮮明に思い出した。

「アイーシャは……」水音に紛れる、ヨアンの返答だ。「NGOの学校に通いながら売春婦をしてる」

 瞬きふたつ分、なにを言われたのか考えた。NGOのおかげでアイーシャは学校に通えている。銃ではなくペンを握っている。それはいい。歓迎すべきことだ。けれどなぜ、売春婦をしているのだろう。大佐の下でゲリラとして行動していたときにはなかったことだ。女の子たちはゲリラに入ったときには全員平等にレイプされるけれど、そのあとは特定の誰かの妻として扱われる。女の子部隊の隊長であったアイーシャには、大人の男たちでさえそれなりの敬意をもって接していた。

「戻りなさい!」とまた、デイジーの絶叫だ。

「あの女……」ヨアンが、目を眇めた。「おまえたちを買って行った女か?」

「うん」うまく働かない頭で、ぼんやりと機械的に話題を振る。「きみは? 今も大佐のところにいるの?」

「いや。おまえたちが連れて行かれたすぐあとにNGOが来て、アイーシャや俺や、子供たちのほとんどが武装解除に応じたんだ。更生施設で職業訓練を受けたりもしたが」

 今はしがないダイヤモンド掘りだ、と呟いたヨアンはシャベルを握り直した。アイーシャは銃をペンに持ち替えて売春婦となった。ヨアンはシャベルを得てダイヤモンドを掘っている。僕は、いったいなにになったというのだろう。掌に残った泥を頬になすりつけ続けるアンヘルを見下ろす。

 ダイヤモンドで買い取られたアンヘルは、少なくとも天使にはなれなかった。僕はまた別の誰かに買われて、求められるまま歌い続けるのだろう。

「どうして僕らだけ……」自分の声が聞こえてから、呻いたことを自覚した。「どうして子供僕らだけが、こんな風に扱われるんだろう」

 はっとアンヘルの瞳が正気の色を帯び、僕を捉えた。朝焼けに照らされた大地めいた色彩だ。瞼を汚す泥も相まって、僕らが出逢ったリベリアを彷彿とさせる。

「あのひとは」アンヘルが喘ぐように、囁いた。「ダイヤを持っているよ」

 ヨアンを、そして僕を、元兵士であった僕らを唆す囁きだ。

懐かしい気分に襲われる。カラシニコフを構えて家々を襲って回ったあの日の、獰猛な笑みに頬が引きつる。腹の底が温かくなった。「学校」の平和な生活の中で押し殺してきた本能が、穴ぼこだらけの川の中で蘇る。

 僕らはずっと、兵士だった。空腹を感じれば村を襲って食料を手に入れ、服を新調し、酒やたばこや覚醒作用のあるカットの葉を嗜んだ。大佐をはじめとする大人からの暴力を恐れてはいたけれど、同時に大佐のような大人になることを夢見てもいた。それが今はどうだ。

 ヨアンの逞しい腕に支えられたアンヘルを見る。身長こそ迫るものの四肢は華奢だ。喉と胸に張り付いた脂肪ばかりが目立つ。大人の男にはほど遠い、天使の体がそこにある。

 急激に恥ずかしさがこみ上げた。たとえ性器がなくとも大人になれるなんて、天使の歌声が武器になるなんて、どうして信じられたのだろう。そんな生き方を、大人の機嫌におもねる生を、どうして恥ずかしげもなく受け入れられたのだろう。僕は兵士なのに。

「おい」と力強い手が僕の肩をつかんだ。デイジーが雇っている白人運転手だった。ヨアンの視線が素早く運転手の腰を観察した。拳銃を確認したのだろう。

「大丈夫」僕は穏やかな微笑を作って振り返る。「戻ります」

「取り乱してごめんなさい」とアンヘルもまたしおらしく詫びる。

 運転手はバツが悪そうに顎をしゃくると踵を返した。手を貸す素振りもない。好都合だ。僕は大人しく運転手のあとに続く。アンヘルを支えたヨアンも倣った。

 早々に川から引き揚げたダイヤモンド掘りの少年たちが、土手のあちこちに座り込んで食事を摂っていた。

「きみたちみたいな」と、僕らと一緒に川から引き上げて来るヨアンを振り返る。「ダイヤモンド掘りの報酬は、やっぱりダイヤモンドなの?」

 はは、とヨアンが声を上げて笑った。先を歩いていた運転手が、ぎょっとした表情で振り返る。白い手が腰の拳銃に掛かっていた。気にせず、ヨアンは朗らかにも聞こえる声で「まさか」と続ける。

「昼に汁飯を食わせてもらって、あとは日に七〇〇レオン。デカいダイヤが出たって、親方が儲けるだけで俺たちには回ってこないよ。まあ、デカいって言ったってせいぜい〇.二カラットだけどな」

 カラットという単位がどの程度の価値を持つのかはわからなかったけれど、七〇〇レオンという金額については理解できた。朝夕に食事を摂れば消える額だ。もちろん僕らが「学校」で与えられていた肉や魚、野菜なんかが入った料理じゃない。土手の少年たちが腹に流し込んでいるような、スープにちょっとした穀物が雑ざった椀がひとつきりだろう。

 ヨアンはもう、今日の稼ぎなんかには未練がない様子だった。意気揚々と、ともすればアンヘルを抱き上げそうな足取りで運転手の背を追って土手を登っていく。

 僕も息を詰めて、運転手の腰で揺れる拳銃を見つめていた。掌が汗ばんで、ひどく気分が高揚している。

 運転手がアンヘルに追いついたことに安堵したのか、デイジーはすでに土手の上、場違いにカラフルなビーチパラソルの影に置かれたビーチチェアの傍らにいた。真っ赤なアロハシャツを着た大柄な黒人男が、ビーチチェアにふんぞり返っている。

「俺の親方だよ」くるくると手の中でシャベルの柄を回しながらヨアンが教えてくれた。彼に続いて、僕らは自然な足取りでビーチチェアの影に近づいていく。

「クズダイヤを後生大事に手提げ金庫に詰めてる」

 ダイヤはいくつあったっていい、と続けたヨアンの声が聞こえたわけでもないだろうが、親方は大きな体を窮屈そうに丸めてビーチチェアの下から小型の手提げ金庫を引きずり出した。掌ですくってデイジーに見せているのは、きらきらと攻撃的に輝く透明なガラス片──ダイヤモンドだ。

 僕とアンヘルは大佐から、黄ばんだダイヤモンドで買い取られた。あれはこの川で少年たちが掘った、クズダイヤだったのだろうか。

 デイジーは親方から幾すくいかのクズダイヤを買い取ったらしい。ヨアンの日給を優に超える札があっさりと交わされるのが見えた。デイジーはまた、あのクズダイヤで子供たちを買い取り、カストラートとするのだろうか。

 デイジーの白い肌が太陽で赤く染まっている。あの日と同じだ。僕とアンヘルが買い取られたあの日も、この女は太陽に肌を焼かれながら僕の前にいた。

 どうしてここにアイーシャがいないのだろう、と瞬間的に、強烈な寂寥感を覚えた。

 譲り受けたクズダイヤを透明な袋に無造作に入れたデイジーは、憎悪のこもった瞳でアンヘルを一瞥する。彼女はアンヘルに耳を──幼いころの夢を否定されたと思っているのだろう。鋭い舌打ちの下から低く「死ぬまで」と呪詛を吐く。

泣き叫ぶ歌えるところに売り払ってやるわ」

 アンヘルは俯いたままだった。わずかに口元が緩んでいる。彼女が自分の耳ではなく、天使の歌声を呪ったことを嗤ったのかもしれない。

気づく様子もなくデイジーは「その男は?」と胡乱な眼差しをヨアンに向けた。

「俺の」

 部下だよ、と言いかけた親方が「あ?」と間抜けな声を上げた。

 ヨアンの振りかぶったシャベルが、親方の頭に叩き下ろされる。鈍い音がして親方の顔の半分がそげ落ちた。手提げ金庫から、天気雨みたいにクズダイヤが散っていく。

 僕は運転手の背後から腰の拳銃を抜き取る。撃鉄が発撃位置にあることはとうに確認してあったので、親指で安全装置を外すと同時に引き金を絞る。骨を駆け上がる衝撃で狙いが逸れた。体のど真ん中を狙ったはずなのに、運転手の顎の下が真っ赤に爆ぜる。僕の母みたいな最期だ。

 僕の発砲音を合図に、河原の子供たちが一斉に駆け出した。元兵士、ゲリラに襲われた子供たち、彼らは銃声に敏感だ。川を渡って対岸へと逃れようとする子、土手を駆け登ってそれぞれの親方に襲いかかる子、あちこちでシャベルが翻り、護身用の銃が火を噴く。

 シャベルを投げ捨てたヨアンが、ビーチチェアの下からカラシニコフを引きずり出した。親方が護身用に置いていたのだろう。淀みなく安全装置を外して残弾数を確認している。

 僕は拳銃をアンヘルに渡してから、散らばったダイヤモンドをかき集める。

「俺たちが集めたダイヤモンドだ!」ヨアンが気紛れな発砲の合間に怒鳴る。「取り戻せ!」

 思わず吹き出した。取り戻せ、と言って子供たちを煽りながら、その実彼はダイヤモンドを分け合う気など毛頭ないのだ。彼の甘言は混乱を深めるためだけの嘘に決まっている。

 ダイヤモンドを収めた手提げ金庫はずっしりと重たかった。アンヘルから拳銃を受け取り、代りに手提げ金庫を持たせる。

「僕は」アンヘルの、独り言じみた問いかけだ。「なにに、なるの?」

 永遠の子供の声を持つ僕ら天使は、もう大人たちの持ち物ではなかった。アンヘルの手にはダイヤモンドがあり、僕には銃が戻ってきた。

 はは、と自然と笑いがこぼれた。僕はアンヘルの手をつかんで、走り出す。カラシニコフを軽々と提げたヨアンも一緒だ。家電店が並ぶ大通りに出る。川辺の騒ぎを聞きつけた家電店が次々と鉄格子を閉め始めていた。僕らが乗ってきたワンボックスカーが見えた。運転席に座る女と眼が合う。デイジーだ。護衛の男を捨ててひとりで逃げていきたらしい。

 足を止めたヨアンがカラシニコフを構える。台尻を肩につけた、安定した姿勢だった。

 ワンボックスカーのエンジンが息を吹き返した。舌打ちをしたヨアンが引き金を絞る。雷が落ちるような発砲音が連続した。ワンボックスカーに駆け寄ったヨアンが運転席の扉を開けると、ずるりとデイジーの体が流れ出た。その首元が真っ赤に潰れている。ごぼごぼ、と声にならない断末魔が血を泡立てているのが見えた。

 不意に視線を感じて首を巡らせる。家電屋の前に立つ男が僕らの凶行に立ち竦んでいた。チェンバロを弾いていた、マエストロだ。強盗除けの鉄柵を閉めるところだったらしい。

 僕はゆっくりと拳銃を構える。今度は撃ち損じないように両手で銃把を握って、マエストロとの短い距離を詰めて、銃口を直接胸に押し当てる。脂肪がなく薄っぺらい、壮年の男に似合いの胸だ。

 マエストロは、怯えていなかった。命乞いをする様子もない。死への恐怖も僕への憤りも感じられない、完全な無の表情でただ僕を見つめている。

 出逢った直後のアンヘルを彷彿とした。この男は諦観を抱いている。僕に殺されることを受け入れている。仕方がないと生存を投げ出してしまっている。

「……どうして抵抗しないの?」

「俺は、自分の行いが悪だと、理解している。この歳までよく生き延びたものだと、自分でも呆れるよ」

「だから、殺されても仕方がないと思っているの?」

「罰はいつか下るもんだ」

 罰? 天使を売買する行為への罰が死だというのだろうか? ならば僕らを天使にした連中への罰はなんだ。誰が連中を罰するのだろう。天使となる前の、ゲリラ時代の僕らの行いは悪だろうか。「長袖」や「半袖」にした人たちが僕らを罰しに現れるとでもいうのか? それとも大佐のような大人の男になれない、永遠の子供の声を有する天使にされたことが罰だというのだろうか。

 神さまに歌を捧げるのが天使の役割なのだと言ったのは、誰だっただろう。

 銃を握った手に力が入らない。頭の中で彼のチェンバロが流れている。すすり泣く子供のようなアンヘルの歌声が聞こえる。幻聴だ。僕は緩く頭を振って追い払う。昂っていた気持ちが急速に冷えていく。寒気すら覚えるほどだ。

 乱暴にマエストロを押しやって店内へと侵入した。視界を遮る冷蔵庫やクーラーの群の向こう、チェンバロを閉じ込めた扉の前、ダイヤモンドの手提げ金庫がしまわれていたカウンターを回り込む。カラシニコフが立て掛けてあった。バナナ型の弾倉が刺さっている。懐かしいのに、どこか忌々しさすら覚えるシルエットだ。手に取るとずっしりと重たい。

 以前の僕はこの重みと生きていた。萎んでいた心が再び息を吹き返す。素早くカラシニコフを肩にかけ、ダイヤ入りの手提げ金庫をつかんで駆け出す。

 店の出口ではまだマエストロが立ち尽くしていた。僕らの視線が絡んだ。言葉はない。僕は素早くワンボックスカーに駆け戻る。彼は追ってこない。僕の暴挙を告発しようと騒ぎ立てる気配もしない。そっと振り返ると、彼はまだ店の前にいた。まるで僕の出立を見送るようだ。

 説明のつかない震えが走った。僕はワンボックスカーに逃げ込む。

 ヨアンが運転席に着いていた。カラシニコフと手提げ金庫を掲げてみせる。僕らは互いの拳を突きつけて笑う。

「ねえ」とアンヘルの白い腕が僕の肩にしな垂れかかった。「ボクも、できたよ」

「え?」と振り返れば、瞳を輝かせたアンヘルが僕から離れて身を翻した。白い肌を赤土が染めていた。いやに鮮やかな赤が、映えている。導かれるまま後部座席に移る。

 ヨアンがワンボックスカーを発進させる。穴ぼこだらけの道が、車体を突き上げて舌を噛みそうになる。

 後部座席の床がぬらりと光っていた。だらしなく服を寛げた女が転がっている。顔が潰れているせいで容貌は判然としないけれど、肌の色から考えてデイジーだろう。体のあちこちから溢れた血とクリーム色の脂肪とが、たぷたぷと波打っていた。ダイヤモンドを浚うメヤ川のようだ。

 誇らしそうにアンヘルが両腕を広げた。握られたナイフが瞬く。ヨアンが貸し与えたのだろう。刃と血の反射がアンヘルを彩っている。リベリアの夕日の色だ。シエラレオネを貫く赤土の道、メヤ川の泥、デイジーの血。そういう全部がアンヘルを彩っていた。

「ボクはもう天使じゃない。ゲリラになるんだ」

 低く、運転席のヨアンが鼻歌を歌っている。調子外れのマライア・キャリーだ。僕らが出逢ったときに競い合った、あの曲だ。肩のカラシニコフが重みを増した。

 ふふ、とアンヘルは吐息で笑う。

「ボクだって、人を殺せる……」

 僕は愕然としていた。彼がデイジーを、たとえ相手が瀕死だったとしても人を滅多刺しにできたという事実に、打ちのめされていた。そんな自分の失望感に、驚いていた。

 そうか、といまさら自覚する。僕はアンヘルこそが天使だと思っていたのだ。人を殺したことのない彼だからこそ、誰の人生も歪めたことのない彼だからこそ、僕とは違う「なにか」になれるのではないかと勝手に期待していたのだ。

 僕は、ナイフごと彼の手を包む。指を一本ずつ開いて、丁寧にナイフを取り上げる。ナイフを床に投げ捨てて、両手で彼の手を──なにも持たない柔らかな手を握りしめる。彼と自分の手を一緒くたに額に擦りつけてから、祈りの姿勢に似ていることに気づく。

「僕らはゲリラじゃないよ」

 え? とアンヘルが顔を曇らせた。

「僕らは天使だ。昔、きみが言ったんじゃないか。可能性を信じて歌うのが、天使ってものなんだろ?」

 アンヘルは声もなく微笑む。滅びを覚悟した、さみしい笑みだった。

子供僕らを傷つける人間を罰する、天使になるんだ。僕ら天使の歌声はみんなを勇気づける。僕はゲリラ時代に歌で子供兵士仲間を励ましていたから、よく知っているんだ。歌は天使の武器だよ。僕らは自力で可能性を切り開ける」

「つまりボクらは、天使の兵士ってこと?」

「そう。誰も僕らを罰しない、傷つけない。僕らが罰する側になるんだ。僕らは仲間だから。ずっと、たとえ君が歌声武器を失ったとしても一緒だよ」

 僕らは天使の歌声武器を持っている。僕はカラシニコフ武器を取り戻した。そして僕の神さまは無垢なアンヘル天使だ。

 アンヘルの薄茶色い瞳がヨアンを映す。筋肉に覆われた逞しい腕でハンドルを操る大人の男がそこにいた。

「そうだね」と声もなく頷いて、僕は運転席の背後へ回る。「彼はまだ、仲間じゃない」

 すでに窓の外は広大な赤土の大地だけになっていた。とうに町を脱している。

「おまえたち」顔の半分だけで振り返ったヨアンが、僕らをひと括りに呼んだ。「どこに行きたい? ダイヤも銃もある。どこにだって行ける、なんだってできるぞ」

「学校に行こう」僕は運転席へと身を乗り出す。「あそこにはまだ、僕らの仲間がいるんだ」

「仲間?」

「天使だよ」

 へ? と面白くもない冗談を聴いた顔で、ヨアンが僕を仰ぐ。その刹那、僕は彼の股間に全体重をかけて両手を突っ込む。

 運転席のヘッドレストに上体をかぶせたアンヘルが、ヨアンの両腕を抑え込む。

 柔らかな睾丸の感触がした。ころりとした中身を指でつかみ締める。ヨアンが声もなく体を震わせる。悲鳴の欠片と呼吸の塊が彼を支配していた。両掌にじっとりと汗だか血だかの湿り気が伝わってくる。

 激しく体を揺さぶられて、舌を噛んだ。ヨアンがハンドルを握ったまま痙攣しているせいだ。それでも構わなかった。僕は念入りに掌を強く開閉させて、彼の股間を潰す。別たれている間に僕らが味わってきた苦痛を、共有する。

 どれくらい経ったのか、ワンボックスカーは完全に停まっていた。エンジンすら息をひそめている。

 ひ、ひ、とヨアンの引きつった呼吸だけがうるさく繰り返されている。

 僕はカラシニコフを肩から下ろす。ゆっくりと抱きしめる。血の臭いがした。汗と泥の臭いなのかもしれない。

 穏やかに、アンヘルが歌い出す。神さまという概念を讃えるために去勢された天使の、豊かで上品で残酷な宗教声楽曲モテトだ。

 アンヘルが──血と泥にまみれた天使が、すすり泣く声だ。僕もそっと、秘め事を告白する声音で唱和する。

 ちか、とワンボックスカーの床が輝いていた。沈みゆく陽光に照らされたダイヤモンドだ。あの日、僕らの代金として支払われたクズダイヤが、アンヘルを飾っている。

 意識のないヨアンの、筋肉質で太い腕を撫でる。

「学校に行って、仲間を助け出そう。それからアイーシャを迎えに行くんだ。大丈夫。僕らはずっと仲間だよ。きみも、天使になったんだから」

 すすり泣きめいたアンヘルの歌声が曲調を変えていく。重厚なモテトから陽気なアリア、力強いポップスへ。ラテン語からスペイン語、フランス語、英語へと移り変わり、だんだんと歌詞が失われる。もはやどこの国の言語でもない。声の限り高音へと翔け上がる。

「マライア・キャリーだ」と僕が。

「クリスティーナ・アギレラだよ」とアンヘルが、唇の端を歪めて言う。

 本当はどっちだっていい。どちらでもない。僕らはどちらの歌姫も知りはしない。

 これは声を失うこと滅びを約束されたアンヘル天使の歌だ。大人たちでは届かない永遠の子供たちの領域だ。

「僕らの世界を造ろう」カラシニコフを掲げて宣言する。「子供と天使だけでも生きていける世界にするんだ。銃もダイヤもある。僕らはきっと、もう少し、マトモに生きられる」

 そうだろ? と誰にともなく問うた僕の足下で、血に沈んだダイヤモンドが瞬いた。きっと神さまってやつが同意してくれたんだ。そんな気がした。


                                了


参考図書


・『カラシニコフ』 松本仁一(朝日新聞社)

・『戦場から生きのびて ぼくは少年兵士だった』 イシメール・ベア 訳・忠平美幸(河出書房新社)

・『カストラート』 アンドレ・コルビオ 訳・齋藤敦子(新潮文庫)

・『カストラートの歴史』 パトリック・バルビエ 訳・野村正人(ちくま学芸文庫)


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【2月20日発売】天使と石ころ【試し読み】 藍内 友紀 @s_skula

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