第2話

 目覚めたとき、僕は硬いベッドに横たわっていた。襲った村の家だろうか、と考えてから、すぐに自分の勘違いに気が付いた。硝煙を酸っぱくしたような臭いが鼻を衝く。ベッドの傍らには銀の棒が立っていて、透明な液体が入ったパックをぶら下げている。そこから伸びた管が、僕の腕に突き刺さっていた。

 え? と間抜けな声が漏れた。いや、漏れなかった。口の中が乾燥している。喉が痛かった。水を求めて顔を巡らせると、隣のベッドが目に入る。

 アンヘルが、上体を起こして枕に凭れていた。白すぎるシャツではなく、黄ばんだ半袖シャツを着ている。僕も、同じシャツだった。着替えた記憶はなかった。そもそもここがどこなのかもわからない。

 両肘を使って、透明な管が腕の変なところに刺さらないように注意しながら、上体を起こす。つもりが、腰から下の感覚がひどく鈍かった。

「随分とお寝坊だ」

 アンヘルが、穏やかに微笑んでいた。疲れ果て表情を作ることすら億劫になってしまったようにも見える、弱い笑みだ。

「……ここ、どこ?」

「シエラレオネだって」

 僕らが暮らしていたリベリアの、隣の国だ。もっとも僕らは国境なんか関係なしにリベリアとシエラレオネを行き来していたし、シエラレオネがどんな国かと問われたところで、なにひとつ特徴らしきものなんか思い描けない。

「そうじゃなくて……ここは、なんなの? 子供兵士の矯正施設?」

「もし、ここが兵士の矯正施設なら、ボクが入れられるはずがないよ」

 それもそうだ。彼は、家具なのだ。歌う家具。ああ、そうだ。僕はようやく思い出す。

 僕らは歌える子供として買い取られたのだった。ならばここは。

「『学校』なんだって。きみとボクは、ここで音楽を学んで」

 アンヘルが息を継いだ。背中がざわりとする間が一拍。彼は歌うように、言葉を続ける。

「天使になるんだ」

 きみのことか、と皮肉な笑いを返したかった。アンヘルとは天使を示す言葉だと、アイーシャが言っていた。けれど僕は、笑えなかった。冷たく痺れた下半身が、彼の冗談めいた宣言に不吉さを与えている。

「ボクはね、ずっと父さんに言われ続けていたんだ。おまえは特別なんだって、天使なんだって。ボクは天使の歌声を持っているんだ」

 僕は恐るおそる掛け布団を剥ぐ。ひざ丈の緩いパンツに包まれた自分の足を見る。裾から管が生えていた。ベッドの向こうへ消えている管が、足の付け根から体の中に入っているのを感じる。身じろぐたびに、管が内臓を振動させる。皮膚の感覚がない。雨の夜に野宿を強いられたときのように痺れている。股間に手を伸ばした。ごわついたガーゼが触れる。そのすぐ下に、骨がある。あるべき性器の柔らかさが、ない。

「天使は」

 アンヘルの囁きが、甲高く鼓膜に刺さる。

「両性具有なんだ」

 緩いゴムウエストのパンツを引き下げる。

「男でもあり女でもあり、男でもなく女でもない。そうでなければ天使の声は出せない。そう教えられてきた」

 下腹部には分厚いガーゼが張り付いている。ガーゼの隙間から尿を出すための管が生えているのに、その管は性器ではなく直接体に刺さっているのだ。

 男でもなく女でもない。

 アンヘルの言葉を口の中で転がす。頭が真っ白になる。アイーシャの熱く柔らかな肉体を思い出す。ヨアンの、カラシニコフの反動にも揺るがない屈強な体格を思い出す。

「きみは……」

 感覚のない両脚をベッドから下ろす。パンツの裾を引っ張って管が抜けていく。とろとろと生温かい液体が股間から脚から、ベッドまでを薄桃色に濡らしている。それが尿なのか血なのか判然としない。点滴パックを吊るした銀の棒を握って杖にする。アンヘルのベッドとの、たった一歩がひどく遠かった。

 重たい素足が銀の棒を蹴飛ばした。顔面からアンヘルのベッドへと突っ込む。それでもよかった。僕は両腕の力だけで、ベッドに乗り上げる。

 アンヘルの、金色の瞳があった。茶色かもしれない。ひどい眩暈が僕から思考を奪っていく。背後が騒がしくなった。騒動に気づいた人たちが入ってきたのだろう。

 僕はアンヘルの肩に縋る。黄ばんだシャツ越しにも、握りつぶしてしまえそうな頼りなさが伝わってきた。

「知ってたのか? 僕がこうなるって、知ってて、歌ったのか」

「ボクは」白い頬をうっとりとした微笑みが覆っている。「天使なんだ」

「そんなことっ!」

 知ったことか、きみだけがそうなればよかったのに、どうして僕を巻き込んだ! 感情に任せて怒鳴り散らしたかった。けれど、声が喉に閊える。

 掌の中で、アンヘルの肩が震えていた。唇も戦慄いている。掛け布団の上の手が、拳を握りしめていた。

 彼も知らなかったのだ。いや、予期していたとしても受け入れるしかなかったのだ。僕たち子供の生き死には、いつだって大人が握っている。でも。

「……どうして、笑えるの?」

「知らないの? 天使の歌声を持つ子は特別珍しいんだ。誰も天使を殺したりはしない。天使は神さまの御使いだから、人間には傷つけられない。学校で学んでプロの歌手になれば、大人になれる。大人の歌手になれたなら、ボクらはひとりで生きていける。自分の声で稼いで、生きていける」

 アンヘルの頬が紅潮していた。瞳には妙に脂っぽい生気が宿っている。

 僕はアンヘルの白い喉に触れる。長年鎖が巻かれていたせいで、かさぶたが分厚く重なった首筋を掌で包む。そのまま握りつぶしてしまえそうだった。握りつぶしてしまいたい衝動がぞわりと僕を震わせた。そんな僕の胸中を知ってか否か、アンヘルは仔猫のように僕の手に体重を預けてきた。これが彼の処世術なのだ。僕が大佐の顔色を窺い、従順に役割をこなし、カラシニコフで村を襲ってきたのとなにも変わらない。

 誰かが僕を羽交い絞めにした。ベッドから強引に引きずり降ろされる。痺れたままの脚に力を入れ損ねて、踵を床にぶつけた。痛みは感じない。振動だけが骨を駆けあがる。

 アンヘルに触れていた自分の掌に目を落とす。彼の熱の残滓を、握りしめる。

きっと僕らは同じ生き物だ。生き延びるために、相手に望まれる自分を演じてきた。だから今回も、僕らは天使になれる。男でも女でも、人間でもない天使になるのだ。



 性器を失った僕らは、永遠に子供の歌声を保ち続けるのだという。高く柔らかく、ともすれば女性のそれともきこえる声だ。歳を重ねて背が伸び、大人の男と同じように体が大きくなったとしても声音だけは変わらない。成長した体に見合う肺活量と無垢な幼子の声で、神さまに歌を捧げるのが天使の役割なのだ。

「でも」と僕は、病室のベッドの上で首を傾げる。「神ってなに?」

「概念だよ」アンヘルは即答した。

「がいねん?」

「いつだって神さまが見守ってくれているって信じること。そういう信仰を作り出してくれた先人たちに、感謝するんだ」

「見守ってくれているだけの存在を神さまって呼ぶの?」

「嫌なことやつらいことばかりが身に降りかかっても」アンヘルはシーツに包まれた自分の体を見下ろす。「ボクがなにかを間違えたからこうなったわけじゃなくて、神さまが勝手に与えて寄越した試練なんだと思えば諦められるでしょう?」

 不意に母の顔が浮かんだ。僕が大佐に脅されてうっかり撃ち抜いてしまった、真っ赤に潰れた母の顔だ。あれも僕のせいじゃないというのだろうか。

「この苦痛を乗り越えれば」アンヘルの呂律は、酔っ払ったように危うい。「もう少し好い将来がある。今、堪えれば、将来は怯えることなく生きていられるかもしれない。そういう可能性を、神さまって呼ぶんだよ」

「可能性のために歌うのが天使の役目?」

「可能性という神さまを信じるために、歌うんだ」

 なんだそれ、と鼻を鳴らした僕から目を逸らし、アンヘルはぼんやりと天井を仰いだ。まるでそこに神さまの瞳があるように、天使の資格が浮かんでいるように。僕もつられて視線を上げる。なにもない。カビっぽい黒ずみが僕らを見下ろしていた。

「独りじゃないって思えるのは、それだけでもう、救いなんだよ」

 僕はアンヘルの横顔に視線を下ろす。僕やアイーシャ、ヨアンとも違う白い顔だ。薄茶色い瞳も薄っぺらい唇も、蒼天にたなびく雲みたいに危うく不確かに思える。

 これが天使の横顔なのだろうか、と僕は考える。大佐が僕とアンヘルの代りに受け取った武器と、濁ったダイヤモンド。そのどちらもアンヘルには似合わない。あの攻撃的な存在の前にあっては、彼はかき消されてしまうだろう。

 僕は無自覚にマライア・キャリーを口遊んでいる。アイーシャやヨアンに好評だったアップテンポの明るい曲だ。僕はもう、大佐のような威嚇的な声を出せない。大人の男にはなれない。その事実が喉を締めつける。

 ふっとアンヘルが唇を緩めた。苦笑したのだろう。磨き抜かれた高価なダイヤモンドみたいに彼の歯が瞬く。

「クリスティーナ・アギレラだよ」と囁いて、アンヘルは僕の旋律を追ってきた。僕らの小さな歌声はいつまでも病室に漂い、「学校」へ移る日まで消えることはなかった。



「学校」に入ってからは、ひたすら音楽と言語を学ぶ生活が待っていた。ラジオから聞こえてくる音楽を真似るだけだった僕は、初めてどの曲にも楽譜という普遍のお手本があることを知った。僕らが話す英語だけでなく、国ごとに信仰ごとにさまざまな言語が存在するのだと教えられた。ラテン語、スペイン語、フランス語、ドイツ語。言語ごとに音感の硬さが違い、音域が変り、基本となる音階が決まっていく。

 まる一日を費やして、そういうものを体に叩き込むのだ。もはや銃を持って食料を奪いに行く必要はない。洗濯や食事の支度をせずとも、スタッフがみんなやってくれる。僕らが世話を焼くべき大人など、ここにはいない。大人たちが、僕らの生活に必要なすべてを整えてくれる。

 気持ち悪かった。そんな生活の中で僕は、ときどき大佐を思い出す。大佐の暴力を、脳天から足の裏まで轟く怒声を、彼が見せびらかすナイフのきらめきを、大佐が僕とアンヘルを「学校」に引き渡す際に受け取っていたダイヤモンドの眩しさを、思い出す。僕らはあの輝きと引き換えに、大佐のような大人の男になる未来を取り上げられた。大佐にとって僕らはあの光る石ころ以下の価値しかなかったのだ。だからたぶん、僕らがここで生き残るには天使になるしかないのだ。完璧な、あの石よりも価値のある、永遠に子供の声で歌う天使。それが唯一、僕に残された生き方なのだ。



 教室の天井からぶら下がった扇風機が寄越す風は生温い。強盗除けの鉄格子がはまった窓から吹き込む砂雑じりの風のほうがよほど涼しい。僕とアンヘルは窓際で、課題として与えられたアリアの楽譜を手に顔を寄せ合っていた。横目に「学校」を囲む高い塀が見えた。背の高い青い鉄板を隙間なくつなげた壁だ。白く燃え上がる太陽で、塀の頂上を彩る有刺鉄線が揺らいでいる。子供たちを誘拐しようとするゲリラから僕たちを守るためだ、とスタッフは言うけれど、その実あれは、ここに集めた子供たちが逃げ出さないための拵えだろう。実際に僕らは何度も、脱走を試みた仲間を見ていた。逃げおおせた子、捕まった子、捕まった後にどこかへ連れて行かれてそれっきりになった子。いろいろだ。

 その中には、「普通科」の子供たちもいた。僕らの「音楽科」と、子供兵士を矯正させる「普通科」に交流はない。修める科目が違うのだから教室も宿舎も別だ。ひとつしかない食堂を使う時間だって違う。顔を合わすことはない。お互いに、窓にはまった格子越しに存在を知るだけだ。

 そして僕らは感じている。圧倒的に僕たち「音楽科」が優遇されていることを。「普通科」の子たちがその事実に気づいて妬んでいることを。

 そんな「学校」に入ってから三年が経ち、僕たちの背は大人と遜色なく伸びていた。歌声によって震わせる喉と胸には薄い脂肪が乗っている。歌手としては理想的な体型だと「音楽科」のスタッフは言う。天使となるべき無垢な幼子に相応しい、柔らかくふくよかな体なのだと言う。だから僕は、大佐とは違う天使の体なのだと、僕は自分に言い聞かせながら、なだらかな股間を探る。

 と、不意に背後から衝突音がした。だだっ広い教室には、なにもない。「音楽科」の少年たちが好き勝手な場所に陣取って、それぞれの楽譜を練習している。そのひとりが、壁を殴りつけていた。何度もなんども、手の皮が剥がれても殴り続けている。

「学校」に来て間もない子に多いヒステリだ。中には隠し持っていた手榴弾や拳銃を使う奴もいる。なにをせずとも食べ物が手に入る生活が、怖いのだ。遠い井戸まで水を汲みに行く必要も、銃弾が詰まった木箱を運ぶ必要も、大人たちの気まぐれで殴られることもない。少年兵士たちはそんな平和に耐えられるようにはできていない。

 教室の仲間たちは遠巻きに眺めている。平穏という恐慌には耐えて慣れるしかないと、経験から理解しているからだ。

 僕はわざと足音を立てて少年に近づく。ここに連れてこられたころの僕より少し幼いだろうか。決して攻撃的にならないよう、最大限の注意を払って少年の肩に触れる。

 激しく振り払われた。野生の獣のような唸り声で威嚇される。でも彼の拳を壁から遠ざけることには成功した。僕はにっこりと、努めて明るい笑顔を作る。

「大丈夫だよ。みんな、仲間だから」

 少年は相変わらず歯を剥いて僕に噛みつかんばかりだ。

ばたばたとスタッフたちが駆け込んできた。手慣れた速度で少年に鎮静剤を注射し、引きずり出していく。少年の楽譜が蹴り荒らされ、教室の床を滑る。

 その一枚をなんとはなしに拾い、僕はアンヘルの隣へと戻る。

「お人好し」と心底呆れたと語るアンヘルの眼差しだ。

「だって」僕は苦笑しつつ応ずる。「僕にはきみがいたけど、ほかの子は違うじゃないか」

 僕が、性器を奪われた挙げ句に平和な生活に放り込まれてなお発狂せずに済んだのは、アンヘルと引き離されなかったおかげだ。体や生活が変化する前に得た仲間が、変化の後も傍にいてくれる。それはとても大きなことだ。

 肩を竦めたアンヘルは僕の手元の、連れ出された少年の楽譜を覗き込んだのだ。初歩的な音階が記されていた。

 アンヘルが音を生む。のびやかに、誰よりも美しいビブラートを利かせて歌い上げる。

 ここに入ったばかりのころ、僕の目にはどんな種類の音符も修飾記号も全部同じものに見えていた。五線譜だって、見るたびに線が六本になったり七本になったりしていた。きっとヒステリを起こしたあの少年も同じだろう。

 僕は彼が消えた扉を見つめる。彼も楽譜が読めるようになるころには、平和な生活を享受できるようになるだろう。それが生きるということなのだ。

 もっとも、アンヘルは初めからここでの生活を受け入れていた。彼が兵士ではなく家具だったからだろう。彼は最初から、音楽のための家具だった。あの村で鎖につながれていたときから、彼は音楽に生かされていたのだ。

 楽譜と握る僕の手に、彼の白い指先が触れる。手の甲は黒く、掌はピンクがかった僕の手とは違う。彼の手は表も裏も眩く白い。それは彼の歌声も同じだった。

 僕は連れ出された少年の楽譜を手放す。するりと床を滑るそれから意識を切り離し、自分に与えられていた課題曲に目を落とす。たどたどしい発声になった。音符が示す音と自分の喉が紡ぐ音とが同じなのか自信が持てないせいではない。そんな稚拙な理由で声を震わせていたのは、「学校」に入ってからせいぜい一年くらいの間だ。

 今の僕はもう楽譜が読める。それなのに音がぶれるのは、僕の心が不安定だからだ。

 僕は、迫りくる別れの予感に怯えている。

 アンヘルが唱和した。自分の複雑な楽譜などには見向きもせず、頬を寄せて美しい声を惜しみなく僕の楽譜に注ぐ。芯の感じられるはっきりとした音だった。

 連続トリルから、一小節に詰め込めるだけ詰め込まれた音符にスタッカートを利かせて歌うメッサ・ディ・ヴォーチェ、主音からわずかに音を下げてはすぐに音階を戻すモルデント。装飾音を散らせた挑戦的な楽章を次々と歌い上げていく。

 大丈夫、と彼の歌声が僕を励ましてくれる。自信をもって。誰よりも美しく、誰よりも大声で、歌えるはずだから、と。そうやって彼は、この三年の間ずっと僕を励まし続けてくれたのだ。

 その代り、僕は「仲間」の生徒たちからアンヘルを守り続けた。リベリアやシエラレオネの各地から集められた元少年兵士たちは、僕と同じ黒人ばかりだった。僕は知らなかったけれど昔、白人たちは黒人を家畜のように扱っていたらしい。古い歴史を大人から、たっぷりの悪意を込めて語られつつ育った元子供兵士たちは、当たり前にアンヘルを敵とみなした。敵は、速やかに殺さなければならない。躊躇えば自分が殺される。そう骨の髄まで学んで生き抜いてきた子供兵士たちだ。有形無形の敵意を、兵士ではなく家具であったアンヘルはうまく躱すことも抵抗することもできなかった。

 必然的に僕はアンヘルの騎士となった。純白の天使を守る、漆黒の騎士だ。

 けれどもう、この関係も終りが近い。僕らはじゅうぶんに成長した。背は伸び、けれど筋肉質ではなく、声を震わせる喉と胸は分厚すぎない適度な脂肪に包まれている。歌唱技術を駆使し、天使という名に恥じない歌声を望むまま操れる。その事実が、なによりも怖い。

 アンヘルが僕の手を強く握った。互いの声が重なる。単調な音階から複雑に跳ねる曲調へ、フェルマートの余韻にはビブラートをかけて、幽かな掠れは曲に感情をまとわせるために。合図を送り合うこともなく、僕らは絡み合う。初めからあるために生まれたような、ふたりでひとつの完璧な調和だ。

 僕ら以外の声は聞こえない。教室の誰もが聞き入っている。

 僕はもう、楽譜を追っていない。アンヘルだって瞼を閉ざしている。ふたりともが滲みそうになる不安を、押し殺していた。天使となった僕らに待つのは別離だ。

 呼吸を止めたのは、同時だった。顔をあげる。ぱらぱら、と芝居がかった拍手がきこえた。ヒステリを起こした少年が引きずられていった扉の前に、白人女性が立っていた。この「学校」において、白人スタッフは珍しくない。音楽や国語の授業を受け持つ教師、手術や診察を担う医師、アサルトライフルを提げて塀の内側を歩き回る警備員。正直、見分けなんかつかない。

 でもあの女だけは、見間違うはずもない。僕とアンヘルをダイヤモンドで買い取った、あの女だった。名前は知らない。仲間たちは伝統的にデイジー雑草と呼んでいる。

 どちらからともなく手を離した。

 彼女は教室を見回すと「アンヘル、カラマ」と有無を言わせぬ強さで僕らを呼んだ。仲間たちの眼差しが、憐れみと羨望を帯びた。

 あの女は売人だ。この「学校」に連れてこられる子供たちも、この「学校」から出ていく子供たちもみんな、あの女が管理している。もっともあの女は、何代目かのデイジーだという。ひとりが辞めても次の白人女がデイジー雑草というあだ名の通りに何度でも、子供を仕入れては売り飛ばしているくのだ。デイジーに呼ばれて「学校」を後にした子供は二度と、戻ってこない。

 彼女は教室に入ってくることもなく、戸口で淡く両腕を広げた。

「おめでとう。卒業よ」

「学校」という体裁を取っている以上、僕たちには卒業がある。それは新たな管理者の下に売られていくことだ。それはアンヘルと別たれるということだ。

 ぎゅう、と心臓が締め上げられる。窓から吹き込む熱風を努めて深く吸う。デイジーが仲間に向かってなにかを話し続けている。ふたりのように、とか、勉強に励んで、とかそういう文句だ。

 不意に熱風が雑音を帯びた。鉄格子の向こう、青一色の鉄板壁の足下で誰かが暴れていた。小さな男の子と、ジーンズ姿の女だ。遠目にも事態が飲み込めた。課せられた訓練を投げ出して脱走を試みる生徒と、それを諌めるスタッフの諍いはよくあることだ。「学校」に入学したての子供たちが隠し持っていた武器を使うことだってある。

 風に乗って届く叫びに、その喉の使い方に、その子が「普通科」の子だと知る。子供がスタップの腕を振り払った。

 ──半袖だった。

 服装の話じゃない。腕だ。肘から先がないのだ。

 瞬間的にアイーシャの笑みが脳裏を過ぎった。ゲリラ時代の僕らを思い出す。大佐の太い指が、握られたナイフが、アイーシャが振り下ろす鉈のきらめきが、押し寄せる。

「天使は」デイジーの声が、鼓膜から脳へと突き刺さる。「幸せになれるのよ」

 スタッフに抱き締められた子が腕を振り回している。半袖の右腕と、長袖の左腕が交互に僕の視界で明滅する。

 記憶の中で無邪気に笑うアイーシャは返り血で汚れている。「肘から先を斬り落とされた腕は半袖、手首から先なら長袖。半袖なら半袖で、長袖なら長袖でそろえてあげたほうがいいでしょう?」と同意を求められたとき、僕は確かに鉈を握っていたはずだ。不運な村を襲って、逃げ遅れた誰かの腕を斬り落としていた。

「天使の歌声は人々を幸せにするの」デイジーの口上が雨のように降り注ぐ。「だから、天使自身も幸せになれるの。高値で売買され、裕福な人によって広い世界に連れ出してもらえるの。だからみんなも、幸せになりたければ、ふたりを目指しなさい」

 教室に残る仲間たちの間に、母を見る。僕が撃ち抜いた母が、真っ赤に潰れた顔で、僕の卒業を見守っている。

 体が芯まで冷えていく。アイーシャやヨアンと体を寄せ合った荒野の夜のようだ。雨の日は大人たちだけが車の中で過ごし、子供たちはカラシニコフを抱いて濡れるままに木々の下で眠った。年少の子の中には濡れた服で体温を奪われて夜明けには死んでいる子もいた。大佐は子供たちに時間をとられることをひどく嫌ったから、朝食を作る間にこっそりと埋めてあげるのが年少部隊の暗黙の了解になっていた。

 でも僕らが腕を斬り落とした子は、そのまま野ざらしにした。生き死にを確かめることもなく、荒野に追い立てた。猛獣に襲われることも、そのまま死んでしまうことも、気に留めなかった。自慢の高音を響かせて、歌って囃し立てたことすらある。

 そんな僕が、誰かを幸せにする天使になれるのだろうか。だって僕は、僕のためだけに歌を学んだ。いつだって僕は僕のためだけに歌っていた。より安全に、よりよく生きられる可能性を信じるために、ただ歌ってきたのだ。

 僕は立ち尽くす。ここがリベリアの荒野なのか教室なのか、自分がゲリラなのか天使なのかわからなくなる。

 マライア・キャリーが歌いたかった。自由奔放でヒステリックで、銃声にも負けず仲間を鼓舞する力強いあの歌が恋しかった。それなのに、旋律が思い出せない。オペラや宗教声楽曲モテトばかりを学んできたせいだ。

 そうだ、僕は声楽を極めた天使となった。もうゲリラじゃない。本当に? 僕は天使か? 天使とはなんだ? 歌う希有な存在だ。それ以上でもそれ以下でもない。他人を幸せにするか否かは関係ない。

 半袖と長袖のちぐはぐな腕を振り回した少年がスタッフを突き飛ばした。彼の視線が僕を捉える。憎悪のこもった瞳だ。彼の口が歯を剥く。到底声の届かない距離なのに彼の言葉がわかる。

「こんな腕で、どうやって生きろっていうんだ」

 僕には歌がある。性器を失おうとも、手を失おうとも喉さえあれば僕は天使だ。けれど彼は? 大佐の部隊に残ったアイーシャやヨアンや仲間たちは? 他の部隊と争って負けたら? 反抗を防ぐために腕を落とされたら? 「普通科」の子たちは編み物や縫い物、工作なんかを学んでいるはずだった。それは腕がなくてもできる作業なのだろうか。僕は知らない。知ろうと思ったこともなかった。他人を気に掛けながら生き延びられるほど、世の中は易しくないのだ。

 ふっと指先が湿った熱を帯びた。アンヘルが僕の手を握っている。部隊から買い取られたあの日のワンボックスカーの中みたいだ。出逢ったときのように、僕らは互いの手に縋る。これから離ればなれになろうとしているのに。

「大人になれたら」と性器を奪われながらも希望を捨てなかった彼の言葉を思い出す。「大人の歌手になれたなら、ボクらはひとりで生きていける。自分の声で稼いで、生きていける」

 彼はこの「学校」からの卒業を夢見ていた。たとえそれが性別を持たない天使としてであっても、殺されることなく大人になることを望んでいた。大人とは、彼の言葉を借りるならば「ひとりで生きていける」ことなのだ。僕たちはもう、ふたりでひとりではいられない。その事実を理解しているはずなのに、あの村の薄暗い部屋につながれていたときからの夢が叶うというのに、彼もまた、ひとりになることに不安を抱いているのだろう。

 彼の手を強く握り返してあげたい。でも、しない。彼の手は、ゲリラだったころの僕が斬り落としたかもしれない手だ。僕とは違う。夢のために、銃もナイフも暴力性すら取らず、ひたすら歌を極めた天使の手だ。

 僕は丁寧に、けれど力を込めて彼の手を引き剥がす。大股に教室を横切ってデイジーの待つ戸口へと向かう。アンヘルの戸惑いを背中に感ずる。言い知れぬ罪悪感と寂寞感が押し寄せる。それでも僕は、僕たちは、ひとりきりで教室を後にしなければならないのだ。それが天使として生きるということなのだから。

 デイジーは僕を待たずに廊下に出た。僕が教室を出るころにはもう、数メートル先にいる。ジーンズに白い開襟シャツを身に着け、脇にはこれ見よがしに拳銃を入れたホルスターを吊るしていた。急かすように顎をしゃくり、アンヘルが一緒でないと気づくや忌々しそうな足取りで教室にとって返した。「早く」と怒鳴る彼女の声はラのフラットだ。アンヘルの声は熟れた果実の芳香を思わせるファの音で、僕は一音低いミの音を基調としている。僕たちは天使の体で七オクターブの音域を自在に行き来する。柔らかい曲線を描くデイジーの体は、せいぜい二オクターブが限界だろう。

 教室の戸口でアンヘルを待つ彼女に「ねえ」と声をかける。雑草デイジー、とあだ名で呼びかけそうになって危うく呑み込む。

「……あなたにとって、天使ってなに?」

 デイジーが怪訝な顔で振り返った。僕の夜色の肌は廊下の薄闇に紛れて、きっと彼女の瞳には定かに映らない。僕は唇を引き結んで沈黙を守る。ややして彼女が視線を下げた。

「わたしの耳がまだ音楽家と証明してくれる存在、かしら。わたしが見出した子が歌手として卒業して高値がつくと、わたしの耳はまだ音楽に愛されているのだと思えるの」

「ダイヤモンドより」意外な答えに動揺して、声が少し高くなった。「音楽が好きなの?」

「歌手を目指していたのよ。子供のころ、なにも知らなかったから」

 そんな脆弱な喉で? と思ったけれど、口にしたのは別のことだった。

「なれなかったの?」

「そう……あなたは知らないのね」デイジーはひっそりと、建物の影で揺れる雑草のように唇を歪めた。「もう、外の世界に歌手なんていないのよ。生身の人間が歌うには制限が多すぎて、もう誰も歌手になんてなれないの。だからこそ闇市場で、あなたのような天使が高値で取引されるのよ」

 へえ、と僕は息を漏らす。彼女の言う「外の世界」がどんなものかなんて知らない。僕らは銃と暴力の下で生きていた。きっと大佐だってそうだ。だからあの部隊で僕は生き延びられた。

 けれど今からその「外の世界」に売られるのだ。歌手が存在しない世界に、天使の歌声を持つ僕らが出て行く意味はなんだろう。いや、意味なんてない。ないからこそ売り物になるのだ。くすんだダイヤモンドで買い取られた僕は、三年を経てどれほどの価値を得たのだろう。性器を失い永遠の子供の声を約束された僕の価値が証明される。可能性が、ようやく手の届く場所まで下りて来たのだ。



 僕らは講堂へと連れて行かれた。高い天井と小さな舞台が据えられた建物だ。数ヶ月に一度、僕らはここで歌う決りになっていた。観客は大抵三脚に乗ったカメラだ。ワールド・ワイド・ウェブにつながれたカメラ越しに、この「学校」の支援者たちが僕らの成長を見ているのだという。ときどき生身の支援者がカメラに紛れて立っていたりもした。欧米人やアジア人、支援者の代理人や護衛の兵士。彼らは決まって僕らの歌声を賞賛し、そのくせ僕らの肉体に哀れみの眼差しを向ける。

 支援者とはアンヘルの言葉通り、天使の成長を見守る神さまなのだ。彼らの眼鏡にかなえば卒業となり、天使たちは競りに掛けられるのだ。

 教室から連れ出された僕らはもう自分たちの部屋に戻ることを許されない。講堂で真新しいシャツとハーフパンツに着替えて、ワンボックスカーに乗せられる。私物と呼べるものはなにもなかったけれど、読みかけの童話の結末が二度と知れないだろうということだけが心残りだった。

 僕らはこれから活字の羅列や挿絵ではない、本物の外の世界を知るのだ。



「学校」を出るのは、実に三年ぶりだった。三年前と同じくワンボックスカーには窓ガラスがない。乗客は護衛を兼ねた運転手の男とデイジー、そして僕とアンヘルだけの寂しい旅路だった。

「学校」を囲む青い鉄板の壁を後にしたワンボックスカーは、砂埃を巻き上げながら赤土の道を疾走する。吹き込む熱風が、助手席から体を捻って振り返るデイジーのスカーフを乱していた。

「卒業試験よ」デイジーの声音はどこかうっとりと緩んでいた。「あなたたちの喉に値段がつくの。きっと、とびきりの、今までの誰よりも、高い値がつくわ」

 僕は黙っていた。下手に口を開いて乾いた砂を吸ってしまわないように、喉を傷めないように、シャツの肩口で鼻を覆う。アンヘルは両手で顔の下半分を包むようにして窓の外、どこまでも広がる荒野を眺めていた。

「いいこと?」デイジーは一方的に話し続ける。「あなたたちはただの歌手ではないの。あなたたちは天使よ。世界的にはとうに禁じられた、人造の天使なの」

 無意識に僕は凹凸のない股間を探っている。なにもない。男でも女でもない、歌うための生き物だ。世界的には禁じられた、人道に反する去勢歌手だ。

「僕は、銃とダイヤモンドとで売られた、ただの子供だよ」

 僕の呟きは、けれど車の走行音と吹き込む風に呑み込まれて消えていく。デイジーはまだ、何事かを喋り続けている。僕を買い取ったときのことなど、きっと彼女は覚えていない。たくさん買い取り、たくさん売り払ってきたうちのひとりにすぎないのだ。

 不意に指先にぬくもりが触れた気がした。アンヘルの手だ。僕はその熱を握り返してしまわないように、低い鼻歌でマライア・キャリーを歌う。旋律が正しい自信はなかった。オペラや宗教声楽曲モテトに埋もれた記憶を必死に辿る。初めてアンヘルと出逢ったときに競い合ったあの曲を、繰り返す。

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