第84話 星月夜(Zypressen/Alphard)

 お楽しみ会の花火ではしゃぎ疲れた可憐かれんはすっかり寝入っている。

 わたしは忍び足で部屋を出て、中庭へ向かった。

 霧崎きりさきじゅん

 表示されたLINEに通話を掛ける。十回以上の呼び出し音でようやく出た。


汐音しおん。何? こんな夜中に……」

 久しぶりに鼓膜を震わせたその声は、少し眠そうだった。


 わたしは覚悟を決めて一度息を吸い、洵、とはっきり呼びかけた。


「勝手に靴をすり替えてごめん。……わたし、アニキの靴壊しちゃった」

「え、壊したって何?」

「ブレード、真っ二つに折れちゃったの。右足」

「マジ? そんなことあるんだ……」

「怒んないの?」

「別に怒らないよ。帰ったら見せて」


 あ、ちょっと待って、とささやくように洵は言った。

 足音が響く。

 わたしも何となく見回りの死角になりそうな位置まで移動した。

 誰の影も見えてこない。やはり向こう側の音。

 寄りかかった壁がひんやりと冷たい。一枚羽織ってくればよかった。


 一度喉を整える音がして、汐音、と洵は言った。


「おれ、お前の靴履いてみたらもう爪先痛くて履けなかったよ。だから今度新しい靴買ってもらう」


 空には満天の星。黒い流れ。多分、あれが天の河。


「……もしかして塾の合宿に靴持ってった?」

「だって部屋に置きっぱなしにしてたら呪われそうじゃん」

「おばあちゃんの幽霊ならいいんじゃなかったの?」

「いや、ばあちゃんじゃなくてお前にだよ!」

 憮然としながらも、極めて正しい。正しいよ、洵。

「もう滑り方忘れてたりして?」

「や、マジでその不安はあるよ。てか、お前こそどうしたの? 靴壊れて。発表会とか大丈夫だったの?」

「うん。友達から借りた」

滋賀しがちゃん?」

「ううん、ちがう。でも面白い子だったよ。アニキにそっくりでさ」

「へえ。会ってみたいな」


 同じこと言うんだな。思わず笑いが漏れる。


「何で笑うんだよ」

「いや、仲良くなれなそうだなーと思って」

「決めつけんなよ」


 洵も笑う。耳元がくすぐったい。


「わたしね、トリプルアクセル久しぶりに飛べたんだ」

「マジで! 見たい。動画撮った?」

美優みゆ先生が撮ってるよ。てか先生に早くLINE返してあげて。心配してたから」

「……実はさ、おれスケートやめようかと思ってたんだ」

「知ってたよ」

「うん。でも、今はもう滑りたくてたまらない。スケートより楽しいことなんてないと思う。おれ、スケートやってる自分が一番好きだ」

「……アニキ」

「え?」

「わたし、神様っていると思う」

「急に何?」

「いや、いるんだよ、絶対。いるだけだけど」

「は? それ意味無いじゃん」


 そう。意味なんか無い。けど、こんなにも胸は熱い。

 わたしも、スケートをやってる自分が一番好き。

 この気持ちは誰にも手の届かない場所へ仕舞っておこう。

 遠く、高く、上へ。

 わたしの心の中。一番大切なもの。


「てか、さっきからそのアニキって何? なんか気色悪いんだけど……」

「いいじゃん。だって、わたしのアニキだもん」

「まあ、いいけどさ」


 やべ、そろそろ見回り来る。また明日ね。

 ほとんど一方的にまくし立てるようにして、通話は切られた。


 わたしはiPhoneをポケットに戻し、一本一本が矢のような形をしたさくの向こうの暗闇を見た。

 高く伸びる針葉樹。

 その幹の分かれ目に腰掛けて指を構え、星を撃ち落とす少年のシルエット。

 一瞬で消える。

 明確に思った。


 あなたは、わたしではない。

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