第83話 Stop Crying Your Heart Out

 着氷の衝撃は凄まじかった。

 光は受け止めると同時に全身を満たして輪郭となり、最後はエッジを伝い落ちて氷に溶けた。

 割れるような歓声と拍手が響き渡っている。

 記憶が残した直線を抜けながら、わたしは涙を流していた。


 ――And stop crying your heart out.(もう泣くのはやめるんだ)


 乗り換えなくては。モホークで前を向き、新たな弧を描く。

 ウインドミルからのシットスピン。

 濡れた頬は風に乾く。この涙は誰にも気付かれることはない。


「変わらないものはあるよ」


 Get up――やまびこのようにコーラスが響く。

 音楽は止まらない。

 足を替え、回り続ける。


「このトリプルアクセルをずっと覚えていてね。君は確かにぼくと飛んだんだから」


 サイドバイサイドで初めてのトリプルアクセルを飛んだ。

 あの日、本当のわたしが氷の上に生まれた。

 二度目のバースデー。

 ずっと忘れていた。でも、ずっと一緒だった。


 シットフォワードのポジションで胎児のようにうずくまるわたしは、もう一度生まれ出て行く。

 同じ姿勢で天から抱きかかえられている。

 スピンをほどき、最後の祝福を今手放す。


 Why're you scared?(怖いの?)

 ――I'm not scared.(怖くなんかない)


「ねえ、最後に聞いていい? ジュンって誰?」

「片割れ。わたし、双子なの」

「……会ってみたかったな。君のアニキに」


 どうして兄と分かったのだろう。

 空気が震え、微笑む気配がした。


「さよなら。傘をありがとう」


 そうして踏み切った単独のトリプルトウループを、わたしはこれ以上無いほど派手な音を立てて転倒した。

 臀部の痛みが痺れるように下肢へと広がる。

 しかし、わたしは笑っていた。

 ……そうだった。

 まだ始めて間もない頃。

 わたしはこの誰もが真っ先に習得する一番簡単なジャンプが、どうしようもなく苦手だった。

 なぜかはもう分からない。

 ただわたしのプログラムが、繰り返す三回転をいつもループに設定してあるのは、そういう理由だ。

 難度を上げるためなどではなく、トウループが苦手なわたしのために、美優みゆ先生が編み出した苦肉の策。

 これからは、せめて単独で決められるように練習しないとな。

 じゅんが得意なジャンプだから、洵に教えてもらおうか。ちょっとしゃくだけど。

 氷の下で連綿と紡がれていた地続きを頼もしく思う。


 そして顔を上げ、立ち上がった。

 胸筋の張りに連動し、ツンと一瞬乳首が痛む。

 でも、アップのランでは肌着に擦れてもっとひどく痛んだのだ。

 更衣室で可憐かれんが「こっちにしたら」と広げたパッド入りキャミソールを借りた今、肌と布の間にわずかな空気の層が確保され、刺激はやわらいでいる。

 この胸元にある緩衝かんしょうそのものが、シオリなのかもしれない。

 痛み、抵抗、摩擦。

 きっとこれからも増えていく。

 一つ波を迎えるたびに、重ねた層を取り込んでいかなければならない。

 それが高みを目指す覚悟。


 星々が天へと引き揚げていく。

 もうこの手に受け止められないのは悲しい。

 けど、光さえ見えれば何でも飛べるってわけでも別に無い。

 転んだことはそれまでだってあったし、きっとこれからまた数えきれないほどあるだろう。

 かつてのわたしには得意も苦手もあった。

 全部、ただ忘れていただけ。

 妖精でも天使でもないわたしは、フィギュアスケーターとしてもう一度生まれる。

 さしずめ今日は三度目のバースデー。

 全てはこの足元から始まる。

 エッジに宿る光は幻じゃない。

 降り注ぐ豊かなストリングスと共に、ステップシークエンス。

 踏み出した先にもう少年の姿は無かった。

 本当に、氷上にはわたし以外誰もいない。

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