第82話 タイムトラベルして

 黒い背中が土曜のリンクにするりと滑り込む。

 一蹴りで巻き上がった風にわたしは息を呑んだ。

 考えるより先に、わたしの足も動き出す。


 近付いては離れる、その背中を追うほどに摩擦まさつが減った。

 コマ撮りのようにぎこちなかった背景が後方へと溶け出していく。

 関節で働いていたリミッターが外れる。


 確かにここはグランピアのリンクで、ヘルメットをかぶった幼児からホッケー選手まで皆めいめい滑っているのに、わたしたちは誰ともぶつからなかった。

 摩擦係数はもはやゼロに近い。まるでブレードを介さないかのようなダイレクトな氷の感覚に震える。


 ふと見ると、身体が透けていた。

 ギョッとする。

 けどそれも一瞬のことで、別にいいやと思った。

 だって、わたしはうんざりしてる。

 地上にはうんざり。

 コンクリートの壁が、フェンスのアクリル板が、打ちっ放しの天井が、モノクロになってがれ落ちた。

 重力。マニュアル。口うるさい大人。だるい日常。うざい陰口。

 全てが近い、近すぎる。

 気付いてしまった。

 ここにわたしの欲しいものは一つも無い。

 だから、身体が透けてて清々せいせいする!


 一蹴りごとに風景が割れ、足元の氷は新たな層を重ねた。

 螺旋を描きながら上昇していく。

 今失いたくないのは、目の前の背中だけだった。

 あまりにも少年は速い。

 多分この速度そのものに、わたしはがれている。

 今にも風に消えてしまいそう。

 置いて行かれるわけにはいかない。

 わたしは弧を捨て、対角線上に乗ろうと決めた。

 世界の果てから果てを結ぶ直線。

 くるぶしの真上の一点に体軸を置く。

 重心が変わった。透度が上昇する。


「裏切るんだよ、世界を」

 大切なものは、いつだって遠くにある。


 銀色のエッジがひらりと光を反射した。

 バックアウトカウンター。

 前を向いた肩が完全に並ぶ。その横顔は清々すがすがしかった。

 紡いだ連綿を置き去りにし、別の次元へと飛び移る。

 新しい気圏にダイブ。

 わたしと氷が完ぺきに繋がった、その刹那せつな


「……この賭けはぼくの勝ちだ」


 ――トリプルアクセルは好きです。前を向いて飛べるから。


 最初の半回転は、無限に広がるこの宇宙。

 光の海の中、たった一つに手を伸ばすために与えられた猶予ゆうよ

 つまりは恩寵おんちょう

 定めて始まる三回転半。

 わたしの、トリプルアクセル。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る