第81話 はじめのはじまり(Innocent on a silent rink)

汐音しおんちゃん! いつまでもそこで座ってないで!」


 ジャンプゾーン、と貼り紙された三角コーンのかたわらでわたしはへたり込んでいた。お尻が冷たく麻痺している。

 薄雲のような喧噪が覆う、週末のグランピア。

 美優みゆ先生はシャッと鋭い滑りでわたしの元へと来た。


「転んだらすぐ立つ。約束よ」

 言われるがまま立ち上がり氷の屑を払う。

 顔色をうかがうまでもなく先生は苛立っていた。

 全日本ノービスまであと二週間を切っている。


「何度言ったら分かるの? ターンはエッジでするの! ほらここ」

 先生はわたしのダブルアクセル踏み切り直前のトレースを忌々しげに指した。

 前方で絶命したように途切れる、わたしの太く歪んだ軌道。


「ちゃんと踏み変えないからこうなるのよ。身体で前を向くんじゃないの。エッジを踏み変えた結果、身体が前を向くの。分かった?」

「……はい」

 わたしの力無い返事に、先生はため息をついた。


 ずっと同じことを言われ続けている。

 丸く滑り、軌道を巻き込むようにスピードを回転に変えること。

 でも、どうしてもスリーターンが上手くいかない。力のスイッチングにいつも失敗する。

 膝と足首が連動しないまま臨界点を迎え、踏み切ってしまう。

 オーバーターン気味になり、軸を締めきれずに着氷。

 よくてステップアウト。でも大体転倒。


「今日はもうシングルアクセルでタイミングの練習をして。最後にもう一度見るから。あなたはここのリンクだけじゃなく群馬、関東ブロックを背負っているのよ。それを自覚してね」


 そして先生は返事を待たずにくるりと背を向け、ハイ次いいよー! と大きな声で言った。

 はーい、とニコニコ可憐かれんが手を振るのが見える。

 慌ててわたしはジャンプゾーンを抜けた。


 可憐は大きなバッククロスで曲線の軌道に乗り、自然にターンを決めると、そのままの流れでふわりとダブルアクセルを跳んだ。

 着氷。指先まで優雅なロシアンチェック。

 オーケイ! と先生が叫ぶ。

 ……綺麗。どうしてわたしはあんな風に跳べないんだろう。

 先生の言う通り、自覚が足りないから?

 でも、わたしの背中はこんなに重い。


『祝・霧崎きりさき汐音しおんさん、全日本ノービス<B>出場』

 真上の横断幕が目に入り、咄嗟とっさに目を逸らした。

 あれと同じようなのが、学校にも貼り出されている。


 ――どうして可憐ちゃんじゃないの?

 放課後うっかり聞いてしまった言葉がフラッシュバックした。


 ――私十一月生まれだから。七月までに九歳になってないと出られないんだ。汐音は五月生まれだからね。

 ――汐音ちゃんって、なんかヘンじゃない? 忘れ物ばっかするし、いつもぼーっとしてるし、じゅんくんと全然違うよね。本当に双子なのかな?

 ――しょーがないよ。あの二人、全然似てないもん。


 教室のドアの前。細くて深い亀裂が口を開けていた。

 黒いもやが立ち込め、複雑に絡まった根茎こんけいがわたしの足首に手を伸ばそうとしている。

 わたしは後ずさり、忘れ物も取らずに走り去った。

 予感と直感が同時にあった。

 あの黒い靄は今この瞬間も、わたしの見ていないところで少しずつ領域を広げている。

 はじめは地を満たし、水を染め、やがては氷を取り囲み、無数の目玉でわたしを見つめるだろう。

 糸を張り巡らし、わたしの身体を閉じ込めるだろう。

 ゆっくりと片方ずつ進めていた足が、気付けば差し出せなくなっていた。

 だが、身体はすぐには止まらない。

 滑走には氷の力が伴う。わたしの外側にる、大いなる力。

 そこに意志は無い。願うのは……


「逃げたいな……」


 静かな場所へ。誰の手も届かない場所まで。

 わたしは、わたしを振り切りたい。


 しゅるりと、自分の中から何かが抜け出す音がした。


「飛ぶなら遠くを見るんだよ」


 ハッと見回す。

 喧噪が一気に遠ざかった。

 洵が喋ったのかと思った。

 けど、まだスケートを始めてもいない洵が氷上にいるわけがない。

 隣にいたのは、全然知らない子。髪が短くて背も小さい。

 あたかもはじめからそこにいたと言わんばかりに、わたしの目を真っ直ぐ見つめていた。


「遠く、高く、上へ。振り切るんだ」


 その瞳には星が流れていた。

 天から氷へと降り注ぐ、銀色の光。

 いくつもいくつも落ちてくる。


「さあ、行こう!」

 ぱっと笑い、少年は滑り出した。

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