第78話 Mission Statement (Skaters' Secrecy)
「……ウソだと思う、おうちの事情なんて」
箸を無駄なく動かしながら、先生たちのテーブルには聞こえないよう小さな声で
「だって昨日の夜練の後、トーマくん、先生たちと二階でモメてたもん」
「え、モメてたって何?」
「あの子、ホッケーもスピードもやってるみたい」
からんとフォークが転がり、床に落ちた。
――本当は靴だって何だっていいよね。
ビニール傘越しに聞いた声が蘇る。
慌てて立ち上がって拾う。新しいのと交換しに行く。
「何それ、
「えっ、どういうこと?」
「ホッケーの靴でも滑れるの。習ってもいないのに普通に」
「えー! それ普通じゃないよ」
「……昔の話だから」
わたしは再び席に着いた。
ついこの間のことでしょ、と可憐がため息まじりに呟く。
なぜあんなことができたのか、今となっては不思議で仕方ない。
「信じられん。スピードの靴とかブレード長うて別物だが」
「だからヘンな癖が付くんだ、もうフィギュアのために全部やめなさいって先生たちは説得してた。でも、トーマくんは絶対に嫌だって言い張ってて……」
――誰かのスケートを取り上げることはできないよ。
また、あの時の言葉。まるで雨の音がまとわりついているみたいに内側で鳴っている。
わたしは冷めたクロワッサンをちぎり、口に運んだ。もそもそと咀嚼すると染み出したバターが口の中で油膜を張った。
――だから、最後に取り上げるのは自分しかいないよね。
トーマの声が無邪気に響く。
わたしは食べるのをやめない。
プログラムされた鼠のように次々とパンをちぎっては口に入れ、噛んでは飲み込んだ。
もう分かっている。
今のは違う。今のは誰の言葉でもない。
「おはよう」
「お、みんなしっかり食べてるわね。感心感心」
そして先生はわたしの肩に一瞬手を添えると、コーヒーを注ぎに行った。
――あきらめてよ。
これも。わたしに帰ってきただけの、わたしの言葉にすぎない。
手掴みでプチトマトを一つ、二つ、三つ口に放り込む。噛むと弾ける、どろりとした汁で口がいっぱいになった。青臭い香りが充満する。
相変わらず食事は嫌いだ。
でも、甘みと酸味がとぐろを巻くように混ざり合っていく。
味が分かる。
「……ねえ、今言った方がよかったんじゃないの」
可憐がテーブルの下でわたしの足をつつく。
――“飛べてしまう”世界は楽しかった?
思わず笑った。
だから楽しいとかじゃないんだって、知ってるくせに。
――天使とか妖精とか持て
ただの悪口だよそんなの、気付いてたでしょ。
――今度こそ、自分に自分で退場を告げる時だ。
喉奥に潜んでいたトマトの種が粘膜を刺激し、食道が一斉にささくれ立つ。胃の内肌が波打つように蠢き、強烈に突き上げられた。
――汐音。この世界を、
ジャンプの軸は細く! わたしは喉の筋肉を巻き込むように締めた。胃酸の混じった吐瀉物寸前の中身を押し戻す。全身に脂汗が滲んでいた。
それは確かにトーマの声で、だから本当に洵に似ていたけど、どちらの言葉でもない。
もう、わたしは妄想には振り回されない。
「……汐音ちゃん、さっきから一人でぶつぶつ何を言ってるの?」
わたしは牛乳を一気に飲み干し、ごんとコップを置いた。
「あきらめてよ」の大合唱が響いていた。
やがて地を踏みしめ、立ち上がる。
亀裂に飲み込まれないことを祈った。
一度深呼吸し、背筋を伸ばす。
そして選手宣誓のように真っ直ぐ手を挙げると、神様、と言った。
全スケーターの視線が集まり、声が一気に意識へと流れ込んできた。
「わたしは、スケートをあきらめません」
「あ!」
ほとんど同時に大声が響き渡り、ガタンと椅子が倒れた。
立ちつくすわたしの隣で、
「……
異様な注目が集まる中、啓示を受けたように宙を見つめたまま洸一くんは言った。
「22だけど……」
ほとんど機械的にわたしは答えていた。
くるりとわたしを見る鉱石のような無表情。
その下から何かに突き動かされるようなパワーで、洸一くんはわたしの手を取った。
「ちょっと部屋に来て」
「え、何で?」
「アイツ靴忘れてったんだよ!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます