第73話 The World is under our edges.

 先生に向け、手を挙げる。ジャンプの宣言。

 痺れを切らしたように、先生はリンクサイドでうんうんとうなずく。

 その横に、シオリが立っていた。

 震えている。多分めいっぱい背伸びをしている。


 ……大丈夫だよ、シオリ。絶対見捨てないって言ったでしょ。

 そこにいてほしい。

 今のわたしには重力が必要だから。

 くびきをすり抜けるのではなく、手綱たづなでコントロールする。

 氷壁を超える。


 羽根は氷でできていた。

 青と水色。モザイク状に凍結したステンドグラス。

 ずっと空気に馴染むのを待っていた。

 もう背中で石化はしないとわたしは知っている。

 なぜなら重さは0グラム。

 つまり、あってもなくても、大丈夫。

 光はもう落ちてこない。神様は何もしてくれない。ただ見ているだけ。

 でも、全てを見ていてくれる。

 行くよ、とわたしはわたしに言った。


 ゆるやかに軌道に入る。

 借りるのでも真似るのでもなく、先取りする。

 じゅんのトリプルアクセルを。

 そのために、わたしの加速度。わたしの高さ。わたしの身体が必要。

 だからもう透明にならなくていい。

 ターンし、狙いを定める。

 実体を持たない、形而上の一本。

 それでもその軸は確かに存在する。

 スピードはそのままに、左のアウトエッジを勢いよく滑らせた。

 力の雪崩。ノンストップで右足を振り上げる。

 軸を捉えた。やっと見つけた。

 

 揺れる視界の中、水色と青の氷の結晶が一面に広がるのを見た。

 一、二、三。プラス最初の半分。

 確かに世界は回っていて、わたしはその中心だった。


「オーケイ! タイミングいいよ! 次は降りれる!」

 リンクに美優みゆ先生の声が響く。聞いたことのないくらい生き生きとしていた。

 最後の最後で降り損ねたわたしの身体は、あっけなく氷面を転がった。

 いつの間にか受身を取っていたので、大丈夫だった。

 視界の隅で先生が大きく両手でマルを作っているのが見える。

 その横で、シオリが誇らしげに微笑んでいた。

 ——スケートをやっているジュンくんが好き。

 あの時の言葉の意味が、ようやく分かった気がした。

 仰いだ天井が高く見えた。


「飛べるわけないだろ」

 空気を裂くように、澄んだ声が降る。

「そんなチートみたいな踏み切りでさ」

 トーマがフェンスに寄り掛かってこちらを見下していた。

 わたしは静かに立ち上がり、氷の屑を払う。

「……チートかどうか決めるのはジャッジだから」

「直線は曲線の一部じゃないし、地球は丸くない」

 手が止まる。その顔をもう一度見る。

 目も鼻も唇もあるのに、無限に白い。

 氷の現前。


「この足場が丸いと実感したことが一度でもあるか?」

 硬質な冷源が足を捉える。

 どこまでも果てしない氷床。その平面に歪みは無い。


「全ては今、ここ、この世界だよ。それを地上にしてしまえば、君のスケートは嘘になる」

 凍結の静寂に、震えるエッジが拮抗していた。

 くるぶしの骨が絆創膏の下で疼いている。痛くて熱い。

 もう持ち込んでしまったから。二つの世界を繋げてしまったから。


「……変わらないものは無いよ、トーマ」

 その目の最奥。

 雪氷をかき分けながら、わたしは目指す。


「変わらないものはある。忘れるな、シオン。ぼくたちは世界の外に出ることはできない」

 逆光でシルエットが霞む。

 世界の裏側で出会った時から気付いていたのかもしれない。

 あなたはわたしの影。ずっと一緒だった。

 シオリが洵の中にいたわたしだったように、トーマはわたしの中の……

 

 ――ならどうして、なんて言ったんだ?


 内側で洵の声が響いた。

 瞬間、氷そのものと感じられていたトーマの皮膚が剥がれ落ちた。

 ぽろぽろと霜のように肉体を伝い落ち、その下に本当の顔が現れる。

 実はそこまで肌は白くない。濃い眉。垂れた目尻。ぽつりとあるほくろ。真っ直ぐな鼻筋。薄い唇。角ばった輪郭。

 なるほど、わたしにも洵にも似ていなかった。

 けど、たとえどれだけ要素を挙げ連ねてもその存在に追いつくことはないと分かる。

 今この瞬間も、肌の下には時を刻む「ぼく」がいる。

 いるんでしょ、トーマ?

 神様からそれをもらったんだもんね。

 眼前のあなたは未来へと逃れ去る残像。

 その痕跡を捉えつくすことはできない。


「外はあるよ」

 だから、わたしたちは出会えた。


「ちょっと何、ケンカ? あなた、先生誰?」

 割って入ってきた美優先生の声に、トーマは目を上げた。

 一瞬夕陽が差し込むように、頬に血色が差す。


「……ぼく、先生いないんです。だから教えてくれますか」

 本当のフィギュアスケートを。

 面と向かって言われた美優先生の顔には、困惑と警戒が入り混じっていた。

「冗談ですよ」

 意地悪く微笑んだトーマの顔色が再び真っ白に戻る。

 そして無言で踵を返し、リンクを降りた。

 ゲートを通る時、その背中がわずかに透けて見えた。

 この時、わたしは二度とトーマに会えないんじゃないかという予感を抱いた。

 それは本当に一瞬で、風のように氷上を吹き渡り、消えた。


「……気にしちゃダメよ」

 据わった目付きで、先生はぼそりと言った。

 全て聞かれていた。

 トーマの言葉。極めて本質的なこと。

 と、


「それでいいのよ」

 先生はわたしの心を読んでいるかのように言葉を継いだ。

「私には、今のあなたの方がよほどフィギュアスケーターらしく見える」


 足元を見る。

 エッジと氷の接線に、淡い光が宿っている。

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