第72話 Differential / Integral

 それぞれのスピードでリンクを回るスケーター達の緩急と起伏を視野全体で読みながら、助走に入るタイミングを探る。

 インかアウト。どちらかのエッジに必ず乗るフィギュアスケートに、直線は存在しない。

 なら、どうしてわたしのトリプルアクセルへの軌道は真っ直ぐだったのだろう?


 ――直線も、厳密には曲線なんだよ。

 ……どういうこと?

 一度、喉を整える音がした。

 じゅんが発声で持て余す空気を、わたしは唾といっしょに飲み込む。

 ――完全に真っ直ぐな線は無いってこと。地平線とかさ。どこまでも真っ直ぐに見えるけど、本当は地球って丸いじゃん。


 地平線という単語は、胸に夕陽を連れてくる。

 わたしは去年の北海道旅行を思い出していた。

 冬の釧路湿原。白銀の大地を赤く染め、太陽が沈む。金色の円が黒い裂け目へと、間もなくその身を落とそうとしていた。

 地平線はどこまでも真っ直ぐで、太陽は完ぺきに丸かった。

 やがて触れ合う一点に目を細めながら、あの接線が地続きであることを確かめたくて、足元の雪を踏みしめた。何度踏みしめても何も分からなかった。

 履き慣れないスノーブーツがしつこく音を立て、ママがこんな時まで貧乏揺すりやめなさいと言った。

 でも、そこには隣に立つ洵の音も混じっていたと思う。

 境目を前にした静かな足踏み。両手はポケットに突っ込まれていた。

 あの時洵は何かの確信を得たのだろうか。


 ――逆も言えるんだよ。

 ……逆?

 首を傾げながら、美優みゆ先生の視線が凧糸のように張るのを背中で感じる。もう少ししたら、また眉間にしわが寄るだろう。あと一周ってとこだ。

 ――どんな曲線も、拡大すると必ず直線に見える。

 思わず速度をゆるめた。逆ひょうたんで、トレースに目を凝らす。

 半透明の氷はいくつもの線で削られ、どれがどれだか見分けが付かなかった。

 トウの先のトレースは、白い糸のように生まれては遠ざかる。誰かのトレースと絡み合い、分岐し、増殖する。水中に根茎こんけいを伸ばすはすのようにも見える。


 突然、黒い影がぎり、風圧でった。

 トーマに、インからバッククロスで抜かれたのだった。

「危ないな」

 思わず声に出して言う。もうあんなところにいる。

 トーマはわたしを見ていない。そもそも、抜き去ったことに気付いていないのかもしれない。

 極めて直線的なトーマのトレースは、鮮やかな残像のように光り続けている。軌跡というより、生々しい傷のようだ。


 ……そしたら、結局全部直線になっちゃうんじゃないの?

 どこまでも拡大する氷のレンズ。核に辿り着いてなお、その刻みに終わりはない。

 ふと、鼻の奥をくすぐられる感覚がした。

 洵が笑ったのだった。

 

 ――見えるだけだから。本当はちゃんと曲線だよ。

 ……ちゃんと?

 ――何も心配要らないんだよ。


 だから、汐音しおん

 おれたちは大丈夫だ。

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