第71話 氷壁(Imaginary High)
空間を切り裂くいつもの鋭角で助走に入っていく。
光はもう落ちてこない。わたしは点ではなく、白く広がる氷一面を視野に入れている。
意識は常に足場にあるが、踏み切りの直前しゅるりとひとりでに先行し、
トリプルアクセルという名の氷壁。
その
「遅い!」
受身の取れないわたしは、転ぶたび氷に叩き付けられる。
痛い、といちいち思わないほど累積していく痛み。腰から太ももは
皮膚から肉へと浸食する氷の冷たさを忌々しいと思っても、すぐに立ち上がることができない。
転倒という事象に、わたしの意識はいつまでも立ち
靴が震えていた。足首が震えているだけなのに、白い革それ自体の
……氷上で教わることなど何一つ無いと思っていたのに。
「足が痛いの?」
先生の眉間には
「もう痛くありません」
強がりではなかった。日中のコンパルソリーでわたしを苦しめていたくるぶしの痛みは、
つまり、これはまっさらなわたしの意識の問題。
対、氷。一対一の。
美優先生は対角線上のエリアを指でぐるぐると示す。
「あそこでもうトップスピードじゃないと。逆サイドからもっと真っ直ぐなライン意識して。で、そのあたりで跳ぶ」
「……ちょっといいですか」
ふとわたしは口を
「なに?」
「逆の方がいい気がするんです」
「逆?」
先生は首を傾げる。わたしはうなずく。
「ストレートに行くんじゃなくて……こう、カーブで巻き込むような」
足元から湧き上がる実感をそのまま言葉にした。そして指でしの字の曲線を描く。氷の盤面で習字をするように、ぐっと引っ張って
洵のアクセルの軌道を、わたしはイメージしていた。
先生は
「確かにその方が一般的だけど……
「今まで通りやっても、もうダメだと思うので」
淡々とわたしは言った。
先生の
氷を切り削り、蹴り放つ音が鳴っては消える。殺伐とした響きが重なり合う。
みんな必死だ。
でも、きっと今までのわたしはこの中の誰よりも心ない音を奏でていたのだろう。
心が欲しい。
一瞬の光ではなく、過去と未来を線で繋ぐ覚悟で、今を引き受けたい。
確かにそうね、と先生はうなずいた。
「前に取材で回りすぎてしまうって言ったの覚えてる?」
覚えている。生意気だと思う。
「それって余裕のことだと思うのよね。だから少し……プレロテ覚悟で、エッジを滑らせて踏み切った方がいいのかもしれないわ」
瞬間、左のアウトエッジが前方で氷をわずかに横滑りし、
脳裏を、洵のアクセルが回り降りた。
あっという間に消える。
重心の点滅だけが残った。まるでエッジそのものが電気信号を発しているかのように。
「そうですね」
パルスが動脈に溶けゆくのを感じながら思う。
確かに三回転半だった、と。
「OK、やってみましょう」
先生の唇が不敵な笑みを形作った。同じものが見えたのかもしれない。
太ももを叩き、乳酸を散らす。足にまだ力が残っていることを確認する。
大きくリンクを回りながら、深く息を吸って吐く。
天の水底とは、魂の避難所ではなく牢獄だったのかもしれない。
誰とも繋がらない孤独。
氷は絶縁体だ。この上に立つ限り、わたしはわたしであることから逃れられない。
……また震えている。
――もう痛くもないのに、そんなに怖い?
くるぶしではなく、靴そのものにわたしは話し掛けていた。
洵の靴。土砂降りの雨の中運んでいた死体。
そこに命を吹き込む。そういう物語を作る。
氷上で虚構を体現するのがフィギュアスケート。
そこに意味は無い。
あるのは意志。本当の感情。
わたしはトリプルアクセルを跳びたい。
生まれた時から絶たれている氷上回路。
その架空の接続という虚構を、今立ち上げる。
――怖いのはおれじゃない。お前だろ。
やがて声が内側から聞こえてきても、洵、とわたしはもう叫ばない。
ただ繋がったと笑うだけ。
呼気の流れを軟骨に邪魔された、
それでも足の震えは
細く長く息を吐く。
――怖いに決まってるでしょ。初めての軌道で跳ぶんだから。
付き合ってよね。だって、ここはわたしたちの世界。
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