第70話 世界の中心で少女達は叫びたい
夜のリンクは明日の発表会に向けた練習で混み合っている。
可憐はダブルアクセル+トリプルトウループのコンビネーションを入念に練習している。ジャンプの調子は上がっているようだ。
バッジテストの直後、可憐はトウループ以外の全ての三回転ジャンプが跳べなくなった。しかし、この一ヶ月でルッツとサルコウとループを取り戻している。
重いと自ら評する、今の可憐のジャンプの方がわたしは好きだ。
以前は重力とは無縁のふわりとしたジャンプを跳んでいた。
今は迫力がある。重力をいなし、手懐け、けしかける。細い回転軸に頼るのではなく、踏切と着氷で手綱をコントロールしている。
「フリップが戻らないんだよね……。まあしょーがない、フリップ苦手だし」
リンクサイドで鼻をかみながら可憐は言った。
「でも取り戻せそう。合宿のレッスン、すごく手応えあるから。いい方に向かってる気がする」
面差しは落ち着き払っている。言葉には静かな力があった。
トイレでタンポンを握りしめて泣いていた可憐を思い出す。あれが何度目の生理だったのか、今となっては知るよしも無い。
子宮は時限爆弾のようなものだと、まだ初潮が来ていないわたしは思う。
でも、可憐はもうそういう捉え方はしていないようだった。
体内を循環する月のリズム。その波を受け入れているように見えた。
隣にはシオリが座っている。
黒いレオタードに包まれたしなやかな曲線美。
シオリは遠くを見ている。氷の上に結ぶ、ある一点。
「……来てよかったね」
呟く声がかすかに濁った気がした。
「ほんとに?」
可憐はそれを逃さない。
「
鋭い目が刺さる。今や弱さの中心はわたしだった。
また逃げ出せばよかったなんて、もう思っていないのに。
来なかったら、どうなっていただろう。
それでも洵の中で死ねるのなら、喪失ではないと思う。
今は?
氷を切る音が迫る。振り向く間も無く、トーマがすごい速さで視界に飛び込んできた。
漕がない、構えない。停止を一切連想させない。
直線的な軌道に乗ったまま力みなく前を向き、振り子のように足を上げる。
トリプルアクセル。
――わたしは、あんなにも速く、鋭く、高かった。
着氷と同時に、いいぞと声が飛ぶ。トーマのお父さんだろうか。CDデッキを携えていて、そこからは何かレースゲームらしき音楽が流れていた。
ひりひりと胸が痛む。黒い影が焼け焦げていた。
本当に、わたしのトリプルアクセルだと思う。
変化ではない。切り離された。
失ってしまった。
「……私、汐音のスケートずっと嫌いだったよ」
「え」
突然のカミングアウトに、ショックというより意表をつかれる。
可憐は少し気まずそうに微笑み、また真顔になって氷上へと視線を向けた。
「綺麗だけど、なるべく遠くに行こうとしてるみたいで、足元も周りも全然見てないのが、我慢できなかった。近いものは全部嫌いって叫んでるみたいで。だから、いつも思ってたよ。汐音が自分のこと好きになれたらいいのにって。自分って世界の中心じゃん。好きになれたら、色々広がっていくかなって。……私は、自分を好きでいたい」
そして立ち上がり、背中で言う。
「いつかさ。この合宿のこと思い出して、楽しかったねって言おうね。何年後でも、私は待ってるから」
可憐はエッジガードを外し、再びリンクへ飛び出して行った。
「あなたは行かないの?」
視線をリンクに向けたまま、シオリは言った。
「時間は限られてるよ」
薄墨を溶かしたビー玉のような瞳が氷を映し出している。可憐はもう半周を過ぎようとしていた。
層を重ねる反時計回りの流れは、まるで天から巨大な何かにかき混ぜられているように見える。
でも、誰も操られてなどいない。生き急いでいるだけ。
シオリはいつの間にか喪服に戻っていた。黒いスカートから細い脚がのぞいている。足首は無い。
シオリ、とわたしは呼びかける。
「あなた、本当は誰なの? どうしてわたしの元に来たの」
目を見る。瞳から光が消える。真っ黒な鏡にわたしが映る。
「わたしは、かつて洵くんの中にいたあなた。でも、洵くんは大人になって、わたしを忘れてしまった。だからわたしはこうして
氷の音が満ちていた。
エッジで切られ、削られ、突かれ、最後には溶ける。
一つ一つの瞬間が重なっては消え、繰り返す。
リンクという空間で。スケートという行為が無くなる日までずっと。
「けど、それももうすぐ終わり。あなたにも分かるでしょう。その時が来たら、わたしは消える。だからその前にお願いがある」
そしてシオリは息をした。小さな唇が震える。
そこには確かに空気が存在していた。
「あなたのトリプルアクセルがもう一度見たい」
「……OK、シオリ」
やっぱり滑るしかないってことか。
任せて。
わたしは生まれた時から、それが一番得意。
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