第69話 虚構(Hope There's Someone)

 地を踏みぬき、跳び上がる。ピークだ、と思ったらもう波を逃している。

「音聞いて!」

 遠ざかるシンセサイザーの分厚いフレーズ。空気の薄さが肺に迫る。

 右にサイドステップ、ターン。腕を回しながら、酸素が足りないと切実に思う。

「歌来るよー! 動き合わせて」

 左腕を伸ばす。豊かに伸びゆく歌声を追うのではもう遅い。指先があと少し長ければと思う。

 背中をしならせ、ターン、スライド、バックステップ。

 鏡の中。

 ぎこちなく踊る自分を見ていると、誰にも動かされていないから、わたしは誰かに動かされているようだと思う。

 ダンス。身体表現。その根源にあるものを考える。

 本当の感情。


「そんなんじゃ伝わらないよ! もっと大きく!」

 でも一生、きっと誰にも伝わらなくても、この感情は存在する。


 ――そんなの意味ある?

 たとえ嬉しくも悲しくもなくたって、伝わればそれは本物だ。向こう側に像を結ぶのだから。

 表現は虚構。氷上で虚構を具現化するのがフィギュアスケート。


 ――できてしまうのと、やろうとしてできるのは違う。

 意図して虚構と成らねばならない。虚構を支えるのは、伝えるという意志。

 向こう側へと。特定、不特定、一人、複数……自分以外の誰かに。

 誰にも見られなくていいなんてありえない。

 ありえないんだよ、トーマ。


 トーマは最後列の端で踊っていた。

 ……音が聞こえてないんだろうか? ちょっと信じられないレベルで遅れている。

 身体のパーツが連動していない。目は鏡を向いていても、意識の大元には何も届いていない。

 氷上での姿が幻みたいだ。


「はい、鏡見なーい」

 コーンロウで編み込んだダンスの先生は先頭で踊りながら、明確にわたし一人に対して声を発していた。

 立ち止まりそうになる足を、規則的なビートで持ちこたえる。もう何度も繰り返したパターンステップ。

 鏡越しに目が合い、先生はキッと細い眉を上げた。

「鏡の向こうをイメージして」


 ……鏡の向こう?

 映る自分の先にあるもの。ジャッジ、観客――


 突然、幕のように鏡がり上がるイメージに襲われる。

 スモークをいたような暗闇を背に、じゅんが立っていた。


 電子音の波が一度去り、いだ空間を呼吸が満たす。メトロノームのような指音が響く。パントマイム。

 その姿を久しぶりに見た気がした。

 ポケットに片手を突っ込み、もう片方の手で指を鳴らし、リズムを取っている。

 また少し背が伸びた?

 成長の途上にいる洵は、常にわたしの想像を超えて細長い。


 ――成長っていうのは変化だろう。

 大人になるのが生まれ変わることなら、死んだ子供はどこへ消えるの。

 音楽は止まらない。

 両手を勢いよく天に向かって振り上げ、洵は踊り出した。

 四つ打ちのリズム。波動を捉えている。寄せては返すミクロの波。マクロの満ち引き。俊敏に上下し、飛び跳ね、回転する身体の残像。

 それは、かつてとは異なるものだった。


 かつて、洵はわたしの中で踊っていた。

 それが頭の中に住む小人のようなものなのか、身体に染み渡るイメージなのかは定かじゃない。

 ダンスやバレエのレッスンで、わたしはいつも洵をなぞっていた。

 洵はとても上手に踊るから、その鮮明なイメージを内側からシンクロさせることで、わたしはどうにか自分の身体を動かしていた。

 この亀裂だらけの地上で。


 今は、向こう側にいる。そして向き合っている。

 愉悦ゆえつ苦悶くもんのグラデーションを屈託くったく無く行き来する電子音。クレシェンドが高まる。

 初めて、本当に洵と目が合ったという気がした。

 視線が交差する。

 光は真っ直ぐ進む。

 暗く果てしない宇宙をどこまでも直進し、最後に辿り着く場所はきっと――


 鏡に亀裂が入る。

 わたしは四肢ししを解放した。


「いいじゃん。あんな迫力で踊る汐音しおん初めて見た」

 汗がぽたぽたと床に垂れる、その雫の丸さをしばらく見ていた。

 息も絶え絶えなわたしと対照的に、可憐かれんは涼しい顔をしている。

 手渡された水筒を受け取り、ポカリを一気に飲み干した。

 氷は溶けきり薄まっているのに、解像度の上がった甘さが口の中でいつまでもきらきら輝いていた。


「……地上と氷上って、繋がってるのかも」

 世界の表と裏。わたしというあなを通して反転する。

「そんなん当たり前だがね」

 可憐のグラン・ジュテの到達点は洵より高く、寒河江さがえくんのアクセルターンはビタリと着地する。

 氷上の活路を確保する地上の身体性に、わたしも手が届いたのかもしれない。


「世界に興味が無いの?」

 甲高い声が響き、わたしたちは振り返った。

 トーマが先生に怒られていた。


「音楽に合わせてリズム取ったりしてる? 鼻歌とか口笛とか」

「……分からない」

 トーマは力なく首を横に振る。

「じゃあ好きな曲は? バンドとかアイドルとか一つくらいあるでしょ?」

「……思いつかない。興味無い」

 先生は一気に眉を吊り上げた。


「持って。興味を。じゃないと、心の羽根は広げられない」

 世界に飛び出して行くことはできない。


 おもてを上げたトーマの瞳が、鏡越しにわたしと合う。

 そこに光は無い。

 一瞬で目を逸らされ、わたしは途端に頼りない気持ちになった。

 胸が痛み出す。

 標本の羽根は一回性。氷を降りた瞬間朽ちるもの。


「嫌われちゃったみたいね」

 くすくすと、湿地から伝うような声。

 喪服のシオリがバーに腰掛けて笑っている。


 シオリが手渡すタオルを何の躊躇ためらいもなく受け取り、トーマは部屋から出て行った。

 掴んだはずのダンスの実感は消え失せ、胸の痛みだけが残った。

 つんと張った乳首を中心に、じわじわと円状に広がっていく。

 もうあまり時間が無い。


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