第68話 羽化(Visage and Outline)

 それからトーマは「あなたは今日はずっと一番だけをやってなさい」と言われて、露骨に不機嫌になっていた。

 つまんねー。

 背後で呟く声が聞こえたけど、無視して定位置に戻る。

 フォア、アウトサイド。トーマは左からやっていた。

 ……わたしは、右からでなくてはいけない。


 神様を信じている? 何もしてくれない神様を?

 無数に存在するスケーターの中、今、ここからのみ視座が、感覚が、世界が発生している、他でもないこの「ぼく」を――つまり「わたし」を――見つけられない神様。

 でも、ぼくにぼくをくれた……。


 ――神様からの贈り物だなんてクソくらえ。

 トリプルアクセルを飛んだ先にいるのが、本当のわたし。それを取り戻す。

 でももう昔には戻れない。

 それは時間を巻き戻すということですらない。次元は貫かれ、構造が変わってしまった。

 わたしが死んだままでいられたのは、知らなかったからだ。

 絶対を実現した先に、本当のわたしはいない。氷に溶けて消えている。

 わたしは消えたくない。この靴を履いたまま、消えることはできない。


 ――魂が宿るのはトレースではなくエッジ。そこでだけ世界に触れられる。

 その世界とは、わたしのこの世界ではなく。

 一ミリのエッジの端。

 触れた先から逃れ去って行く、境界線の向こう。


「目を開けて滑るんだよ」


 乱反射する氷を見据え、開始地点に立つ。

 両腕を水平に伸ばした。その指先から音が聞こえる。

 電気信号音。

 切断され尽くしどろどろに溶けた細胞がうごめき、接続を開始する。わたしの肉体を再構成する、フィギュアスケートの神経系。

 もうわたしは流体ではない。

 最初の意識が右のくるぶしに宿った。種火のようだ。かすかな痛みが身体をあらわにする。燃え移り、内側からさらけ出す。

 この輪郭。わたしと氷を分かつもの。

 たずさえて、滑り出す。


 アウトにだけ乗らなければならない。この靴を履く限り、二つのエッジに乗ることはできない。

 一面に洵の顔が浮き上がった。

 本当に分かたれているのは、洵とわたし。

 だから、この氷は洵なのだった。


 重心を保ち、力をエッジに掛け続ける。

 一定間隔で痛みが刺さる。力が逃げる。

 手の届かない場所へ。もう思い通りにならない。

 どこまでも真っ白な氷。目も鼻も唇も無いのに洵だ。

 光っているから。またたいてなお、彼方へあふれ出すから。

 捕まえられないのは分かっている。手に入らないものを照射している。

 

 今、乗り換える。

 円環という閉じた運動を、近接して、反対方向へ。

 無限の記号に回収される愛。

 二つ並んだ、パーフェクト・サークル。


「……あなた、コンパルソリーは好き?」

 眼鏡を掛けた小太りの先生が、しゃがんだり遠ざかったりして、わたしの描いた円を何度も見た。

 溝口さんにはもう会えないだろう。

 溶け消えるために彼は滑るのだから。


「いいえ」

 好きなのは洵だ。


「とてもイイですよ。あなた、今スケートが楽しいでしょう」

「はい」

 先生は優雅に微笑んだ。

 もう一度自分のトレースを見る。

 三回×二。六度行き交ったトレースが限りなく密接し、重なっていた。

 完ぺきにとはいかない。

 這いつくばるようにして見れば、やはり少しずつズレている。

 ここに、一つとして同じものは無いのだ。


 それでも似ている。

 前橋。グランピアのリンク。

 朝練で真っ先に手を付ける、洵のサークルエイト。

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