第67話 氷と宇宙の子供たち

「えーっ。またもう一回?」

 頓狂とんきょうな声が斜め後ろで上がる。

 振り返ると、トーマが仏頂面を浮かべていた。


「そうです。やります。あなたのトレースがきちんと細くなるまでね」

「細くなってるでしょ、さっきに比べれば」

「じゃあ、これはどちらのエッジでやったんですか?」

 眼鏡を掛けた小太りの先生が、忌々しげに何度も人差し指を振って言った。


「……イン。じゃない、アウト? インなら逆回りになるもんな……」

 ぶつぶつ言うトーマに、先生は呆れを通して無表情になる。

「自分がどちらのエッジに乗っているかも分からないなんて」

「や、先生が言ったんだから先生が覚えててよ」

 妙に甘えた声を出す。

「私が覚えてないから聞いたんじゃありません。あなたが覚えてないことが問題なんです。……ここ。それから、あのあたりも。トレースが分厚いのが分かりますか?」

「うん」

「どうしてだと思います?」

「わかんない」

 トーマは首を振る。先生はため息をつく。


「……それは、あなたのエッジがフラットになっているからです。フラットになると、インとアウトが並んで直線になります。だからこんな風に太くなって円が歪むんです」

「えー、それってダメなの」

「ダメに決まってます。それから、ここはレッスンの場です。先生には敬語を使いなさい」

 眼鏡の奥から厳しい眼光がトーマに向けられる。

 はぁい、と脱力してトーマは頭をかいた。


 ……ガキ。

 聞いてるだけでイライラする。

 ちゃんとやれよ。


 出来損ないの団子のような二つの円を横目で見ながら、脳裏に焼き付いたクリーンなジャンプとの落差を不気味に思う。

 スケーティングがてんでダメというのはハードジャンパーにはよくいるタイプ。

 けどトーマほど激しいのは初めて見た。

 そもそもトーマのようなスケーターを見たことがない。

 ……ただ一人。わたしを除いて。

 くるりと背を向ける。


 洸一こういちくんの言う通りだ。そろそろ認めてもいい。

 トーマは、昔のわたしによく似ている。


「いつもはできるのに……」

 ……ほら、出た。言い訳。

「見られてるとダメなんだよなー」

 じゃあ、これからもダメだね。キレイなトリプルアクセル飛べても意味無いよ。

 フィギュアスケートは見られて成り立つスポーツだから。


「それが本質?」

 わたしは固まった。

 心を読まれている。

 背中を、トーマの真っ直ぐな視線が射抜いている。動けない。

 恐ろしく低い声が心の壁を飛び越え、リンクをリフレインしていた。

 ――本質?

 ゆっくりとわたしは振り返る。


 人が消えていた。殺風景な氷とコンクリートだけがそこにった。

 底無しの瞳が、窪んだ目元を歪ませる。

 闇の一点が仄暗く光っていた。


「誰にも見られてなくたって滑れるくせに」

 痛みも切なさもその孔に吸い取られ、消える。

 やがてコンクリートもホログラムのように溶け、目の前には白銀の世界が一面に広がった。

 ホワイトアウト。


「……そんなの意味ある?」

 わたしは震える喉からかすかに声を発した。

 それもまた分子の結合に吸い取られる。


「スケートに意味が必要?」

 トーマの笑みが深くなる。

「世界中誰も見てなくたってぼくは滑るよ。だから生きていられるって思うだろ」

 

 大気圏の彼方で星々が明滅している。そのまたたきを受け取るたびに、身体は薄くなる。光は核を伝い落ち、足元を照らす。

 透明な床を見下ろしていた。


 ……前橋のリンクだ。

 フラッシュバックなどではなかった。

 ヘルメットを着けて、貸靴を履いて、今まさに初めて氷の上に行こうとしている幼いじゅん

 その瞳は、氷の輝きをそのまま映し出していた。

 時空を超越している。


 ――もっと上だよ、洵。

 わたしは強く叫んだ。

 聞いて。本当にここには何も無いよ。

 ただ遠いだけの世界なの。

 足を踏み入れたら最後、わたしたちは――。


 洵の目の光が、天地をつらぬき、わたしを捉えた。

 どくんと右のくるぶしが脈打つ。まるで小さな心臓を植え付けられたみたいに。

 そしてその痛みは本来の心臓に律動を送り、わたしの胸を熱くさせた。

 体温が戻り始めていた。


「……あんたってヘリクツばっかだね」

 冷たい息を吐く。

 天上は閉ざされ、輪郭は蘇り、ざわめきが再び空気を満たす。

 足元には無限になり損ねた二つの円。

 目の前のトーマはただの顔だった。


「何? ヘリクツって」

 きょとんとトーマは言う。


「ぼくぼくぼくって、自分のことばっか。そんなんだから氷の神様に見放されるんだよ」

 わたしも同じだった。


「……そうなのかなあ」

 心底落ち込んだような、か細い声を漏らした。

 わたしは再び固まる。


「え、あんたもしかして信じてるの、神様」

 丸く瞳が見開かれ、トーマの顔は完全な子供に戻る。


「もちろん。だって、ぼくをくれたからな……」

「……誰に?」

「ぼく」


 またぼくか!

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