第66話 Wilder than Heaven

 溝口みぞぐちさんは進み、わたしのサークルエイトをなぞり始めた。


「滑りながら目を閉じるというのは、不自然なことだね。普通は見なきゃ滑れない。自分が今どこにいるのか、どんな風に身体と動きが連動しているのか。常にモニタリングをして、軌道修正を続けていく必要がある」


 硬いプラスチックを無理矢理たわませたような弧が、柔らかいスケーティングで整えられていく。進行方向へと向けられた目線がトレースを先取りする。

 そしてわたしの起点と終点を結び直した。


「それでも目を閉じたまま滑ることができていたとしたら、それはどういうことだと思う?」


 円環が浮かび上がる。

 天の水底。かつては遠心していた足場。

 手の届かない光に満ちていた。そこでは呼吸が必要無かった。


「……まだ生まれてなかったのかもしれません」


 胸のつかえが一つ転がり落ちた。

 修正される前のトレース。標本の成れの果ての上を。


「ほう」

 溝口さんは感慨深げにうなずく。その頬に神経質な皺は浮かばない。

 近くで遠くで、立体感を持って鳴っていた氷を削る音が、平らにならされ背景へと押しやられた。

 鼓膜の圧力が整う。

 わたしは、自分の感覚を言葉にするための微かな呼吸を確保した。


「……ずっと、星空にいるみたいでした。一人で光を追いかけて、わたしは完ぺきに満たされていました。でも、それは今思うとそんな感じがするだけで、本当にそうだったかどうかは、もう分かりません。思い出としてしか思い出せないっていうか……感覚を呼び戻すことができないんです」


 白い靴の爪先が矢印のように、二重のトレースを指し示していた。

 この歪みは生まれ出た代償なのだと悟った。

 楽園から異邦へ。


 世界とわたしが一致する世界で、わたしはずっと死んでいた。

 でも洵の靴を盗み取ったことで、わたしはそこから吐き出された。

 呼吸は自分でしなければならず、自分の足で立たなければならない。

 感知し、変化し、痛む身体を引き受けること。

 この純粋な負荷を覚悟に変換し、未来を生きること。

 それが、すなわち――


「大人になるってしんどいねぇ」

 溝口さんは深々とため息をついた。

 妙な口調の軽さにわたしは脱力する。そんな単純なことだろうか……。


「嫌だなぁ。もしかして君、大人になることが成長だと思ってるの?」

 溝口さんはオーバーに肩をすくめて見せた。

「……違うんですか」

 だってそういうことになっている。辞書にもそう書いてある。

 溝口さんは険しく眉をしかめた。


「成長ってのは変化だろう。一度死んで生まれ直すことは、変化とは呼ばない」

 そして氷面に視線を投げる。

 きらきらと否応なく氷は光り続けていた。


「なぜかできてしまうのとやろうとしてできるのも、同じくらい違う。スケーターが絶対のラインをなぞる時、魂が宿るのはトレースではなくエッジの方だ。一ミリのエッジが氷と接してすぐに離れる、この瞬間だけ、僕たちは世界に触れることができる……」


 無限の円環を差す指先に、極限まで伸ばして引き裂かれる果ての亀裂が見えた。


「……溝口さんにも、絶対のラインをなぞれない時があるんですか?」

 躊躇ちゅうちょより言葉が勝る。

 溝口さんは一瞬目を見開いた後、ふふっと笑った。その笑顔はやけに子供に見えた。


「できたらとっくにやめてるよ、こんなこと……。できないから続けてるんだ」


 こんなこと。


「それが実現したら、僕が僕である必要はもう無くなる。そして僕は心の底からそうなりたい。もうずっと僕は、僕を消すためにスケートをやっている」


 そして最後にわたしの肩を叩き、唇を寄せてこう言った。


「目を開けて滑るんだよ。視線が怖いのは、自分が見ていないからだ」


 羽のような金色の巻き毛が、ふわりと頬を撫でた。

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