第63話 感情標本

 スッ。ゴリゴリ。シャッ。

 あちこちから氷の上に図形を描く音が聞こえてくる。

 皆それぞれに与えられた課題をこなしている。溝口みぞぐちさん以外にも連盟の先生が何人かいて、合格と言われたら次の課題に進むことができる。


 わたしはワンフットエイトに入ったあたりで右くるぶしの痛みがひどくなってきた。集中していればある程度痛みを掌握できるけど、精神の消耗がすごい。

 革の内側はもう真っ赤に腫れている気がした。

 荒くなった呼吸を落ち着かせていると、


汐音しおんちゃん」

 リンクサイドから美優みゆ先生に呼ばれた。帯同のコーチはリンクに入ることができない。

 わたしは他の子達が描く円の軌道に入らないよう、慎重にフェンスへと寄る。

 昨夜のロビーの件から、先生とは口をきいていない。

 気まずかった。化粧っ気の無い先生の顔は白い紙のようで、表情が読み取れない。


「右足、怪我してるんじゃない?」

 淡々と先生は言った。

 わたしはすぐには答えられなかった。はたから見て分かるほどに動きに違和感があるのかと思うと、今まで感じたことのない重さが胸に生まれた。

「……分かりません。でも、痛いです」

 言葉にするとなぜか少し痛みは静まり、引き替えに悔しいという感情が沸いてきた。また、氷上では初めての感情。

 ここに来てから自分の感覚や感情につまづいてばかりいる。分厚い氷の岩盤に爪先がかちんと当たる音がした。


 先生は無言でうなずき、近くにいたスタッフに一声掛けると、わたしに手招きした。

「ここ座って。靴脱いで」

 言われた通りにベンチに腰掛け、右の靴紐を解く。

 おずおずと足を抜くと、くるぶしの一番高い部分が赤く擦れ、皮がめくれていた。

「……靴擦れね」

 腫れてもいないし血も出ていない。こんなにじりじりと熱を帯びているのに。

 わたしが脱力すると、

「靴擦れをナメちゃだめよ。化膿して滑れなくなることもあるんだから」

 ぴしゃりと先生は言った。経験談なのかなと思ったけど聞くのはやめた。


 ストッキングを片足だけ脱ぐ。

 先生はわたしのくるぶしを丁寧に消毒すると、傷よりほんの少し大きい絆創膏ばんそうこうを貼った。

「……前にもこういうことあったわね」

 思い出せない。

 まばたきをして目を泳がせるわたしを見て、先生は苦笑する。

「一昨年。四年生の時の全日本。汐音ちゃん、一週間前に靴替えたの覚えてる?」

 わたしは無言で首を横に振った。

 靴の慣らしには最低一ヶ月掛かる。どうしてそんな直前に替えたんだろう。

「三・三のループ・ループをものすごく練習してたでしょう。試合じゃ使わないからやめなさいって言っても、全然やめなかった。きっと、よっぽど楽しかったのね」

 ……楽しかった? 

 わたしは、楽しいという感情が一番分からない。

 呼吸を楽しいという人はいないと思う。少し前まで、わたしのスケートはそんな感じだった。

 今それを思い出すと、ダイアモンドダストを顕微鏡で覗いているような気持ちになる。

 本来捕らえられないもの。でも、確かにきらめいている。

 また一つ、凍結した感情に足を止める。


「ループは足全体に負担が掛かるから、予定より早く革がへたっちゃったのね。私も怒ったけど、お母さんはもっと怒ってたわね。いくらすると思ってんの! って」

 声の出し始めにコブシをきかせる感じが怒ったママそっくりで、わたしは吹き出してしまった。

「やだ、そんなに似てた?」

「似すぎ。じゅんにも見せたかった」


 言ってからハッとした。

 先生の目が大きく見開かれていた。

 言わなきゃよかった、と一瞬思った。でも滑り降りるようにその名前は口から出てきた。

 わたしと先生の間で、洵のことを避けるなんて不可能だ。

 

 先生はきゅっと鼻にしわを寄せ、勘弁して、と笑った。頬がほんの少し赤くなる。

 氷の音が響いている。重なったり途切れたり、断続的に。

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