第64話 Wings of me(Frosti)

「……それで靴を替えて、そしたらまだ革が硬くて、かかとのこの辺りが炎症を起こしてた。けど、汐音しおんちゃんは全然痛がらなかったわね」


 そっと、白くて薄い手のひらが、わたしのかかとから足首を包み込んだ。

 先生の手はずっと冷たい。

 わたしの体温は粒子になって、肌の境界線から逃げていく。その向こうで、二つの体温が混ざり合っているのかもしれない。

 鼓動が速くなる。

 先生はひざまずいたまま、伏せていた目を真っ直ぐ上げた。


「代わりに、じゅんくんが痛いって言った。でも、足見ても何とも無いの。結局それが汐音ちゃんの試合まで続いて、終わったらけろっと治っちゃった。本当に不思議。……きっと、あなた達の間には、二人にしか分からない何かがかよっているのね」

 そして先生は目を細めて笑った。


 胸の血流がぎゅっと強く乳首に集まり、わたしはどうしようもなく切なくなった。

 対応しようのない、ただ生まれて膨れ上がる感覚に途方に暮れる。

 あと何回、わたしはこれを味わえばいいんだろう。

 大人になるまで? それとも、大人になってからもずっと?

 鼻の奥にツンと涙の気配が生まれた。

 白状したかった。

 先生。

 今わたしが履いているのは、洵の靴です。

 ……でも、その理由も意味も言葉にできない。

 理由も意味も分からないことができてしまう自分の理不尽さだけが、屹立きつりつしていた。


 先生は手を放し、クーラーボックスから青くて薄いジェルパッドを取り出し、わたしのくるぶしに当てた。

「どう? 熱が引いていくでしょ」

「……はい」

 正確には、既に引いていた。わたしの痛みは先生の手のひらに吸い取られ、小さく丸い眠りについていた。

 わたしは再び靴を履いた。


「大丈夫? 違和感ない?」

「はい」

「よかった。行ってらっしゃい」

「……先生」

「なに?」

「苦しいならトリプルアクセルやめた方がいいって、先生も思いますか?」

「思わないわ」

 先生は即答した。


「私は、ジャンプが飛びたくてフィギュアスケートを始めた人間だから」

 そして凛とした瞳を氷上に向ける。


「……病気が治って競技に復帰した時、私は氷の上で真っ直ぐ立つことすらできなかった。周りが三回転をバンバン跳んでる中、私は延々と基礎スケーティングの練習ばかり。体幹はふらふら、エッジもぐらぐら。……あんな綺麗なスケートとは程遠かったわね」


 その視線の先では、洸一くんがフォアでパラグラフブラケットをやっていた。

 難しい形なのに、背筋は真っ直ぐ伸び、エッジはとても静かだ。

 傍らでは、溝口さんが見守っている。

 聖なる光に選ばれたように、その一帯だけほの白く輝いて見えた。


 先生は意を決したように、一つ息を吐いた。

「それでも、絶対やめるもんかって思った。跳ばない私なんて私じゃないと思ったから。ジャンプって、そういう力があるでしょう。置かれた場所や与えられたもの……運命を振り切る象徴だと思う。私にとっては病気がそうだった。それを乗り越えた先に本当の自分がいるって信じたかった。だから、一年ぶりに跳べた時は、本当に嬉しかった。たかがシングルジャンプだけど、私は取り戻した。神様からの贈り物だなんて、クソくらえだわ。私、神様は信じてないの」


 唇の端を吊り上げ、不敵に笑う。

 その微笑みに、シオリの黒い影が這い上がり、しゅるりと重なって同化した。

 ――痩せぎすの身体で、氷の上に行くことを諦めなかった少女。

 成仏など、する必要は無いのかもしれない。

 もう一度飛びたくて諦められないままの自分を、影として引き受けること。

 それが大人になることなのだとしたら。


「……汐音ちゃんにとってのトリプルアクセルもそういうものなら、取り戻しに行きましょうね」


 ダイアモンドダストがまたたく。

 本当のわたし。

 それがあるのかどうかは分からない。

 取り戻したとして、もう昔のわたしには帰れないだろう。

 それでも、光も影も氷壁の向こうだ。

 飛び越えないと何も見えない。

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