第62話 銀盤問答
「……神様は、どこにいるんですか」
氷の盤面に雫が落ちるように、声が響いた。
尋ねたのは
うつむいたまま、
「私、ずっと思っているんです。神様がいるのなら、どうしてどれだけ練習しても、どんなに祈っても、私はトリプルアクセルが跳べないんですか? 持っている力、ありったけの時間を全部スケートにつぎ込んで、こんなに跳びたい跳びたいって、誰より強く思っているのに……」
そばかすの浮いた白い頬を涙が伝い落ちる。
わたしは視線を足元に落とした。
銀色のエッジが氷を反射し、冷たく光っている。
一度しゃくりあげて鼻をすすると、可憐はか細い声で続けた。
「それに私、最近ビールマンをやると、腰が痛いんです。こんなこと、とても長くは続けられないって思うんです。これ以上何も変わりたくなんかないのに、何とか今のまま踏ん張って上を目指したいのに、背も伸びて、体型も変わって……自分でも、もうどうしていいか分からない。どうして、世界はこんなにも残酷なんですか。リンクに神様なんて……私は、いないと思います」
「神様は何もしてくれないよ」
そう言い放った溝口さんの視線は、氷面に打ち棄てられていた。
どこも見ていない、あるいは何もかも透かして限りなく遠い一点を見ている。
「助けてなんかくれないし、願いも叶えない。……その代わり、全てを見ている。君が氷上で行う、全てをだ」
そして、強い目を可憐に向けた。
「トリプルアクセルもビールマンスピンも、フィギュアスケートの本質とは微塵も関係が無い。だから、そんなものはやめてしまえ」
空気が凍り付く。
しかし、すぐに溝口さんは目元をゆるめた。
「……と、僕なら言うけどね。だが僕は君のコーチじゃない。難易度の高い必殺技じみたジャンプやスピンに執着するのは当然だ。どんなに身体に負担を掛けても、成功すれば高得点が見込めるのだから。フィギュアスケートがスポーツである以上、それは避けられない」
そして、突然滑り出すと、少し離れた前方で大きな円を描き始めた。右足から、フォアイン。
アンドロイドのように垂直な体軸、平行な肩の線を保ったまま、エッジの角度から生まれる推進力だけで、溝口さんは進んでいく。
「長くは続けられない――その通りだ。スケーターの命は短い。しかし、それでも君がスケートを続ける意志があるのなら、覚えておくべきことが一つある。……それは、フィギュアスケートには“絶対”がある、ということだ」
真円が一つ浮かび上がった。
間髪入れず、左足に蹴り変える。
「フィギュアスケーターは、必ず曲線の上にいる。どちらかのエッジに傾き、体重を預けていれば、自然と円を描くからだ。……慣性によって、このように」
二つ目の円が出来上がる。無限の記号。
ふうと息を吐き、しばらくそれらを見つめ、突然ふっと微笑みを浮かべる。
その時、わたしの目には、空気をくすぐるように、ほんの少し溝口さんの唇が動いたように見えた。
……何かと話してる?
すぐに顔を上げる。もう、元の真顔に戻っていた。
「演技開始から、スケーターは円の上に
無限を背負いながら、溝口さんは語り続ける。
宇宙と氷上が繋がっているのではなく、氷上に宇宙が立ち現れていた。
「なめらかさの敵は、止まることだ。正確に言えば、停止を連想させる全て。引っかかり、ズレ、ためらい、転倒――これらは地上を
言葉を加速し、拳を握りしめながら、溝口さんは震えていた。
その身体は、一つの天体だった。
噴気孔から水蒸気が立ち上がる。
自らの足場まで溶かさんばかりの熱。
しかし、スケーターである限り、そんなことは不可能だった。
「こういう言葉をはね
「……達也、もういいかげんに」
「すみません、ちょっと長すぎましたね」
連盟の先生に
しかし、目は笑っていない。すぐに再び声は低くなった。
「……だから、コンパルソリーだ。なめらかさに立ちはだかる全ての要素を打ち消すために、エッジのコントロール感覚を極限まで研ぎ澄ますこと。――それは、やがては君のジャンプにまで及ぶだろう。そして、いつか君がトリプルアクセルを飛べるようになったら……それは神様からの贈り物だ」
溝口さんの目は、真っ直ぐに可憐へと向けられていた。
その光は、可憐を媒介に全てのスケーターの魂を束ねようとしている。
「はい」
高められた声が響く。共鳴し、増幅する、スケーターの声。
……そこにわたしは含まれていただろうか?
「トリプルアクセルは神様からの贈り物なんかじゃないよ」
突然、宇宙は引き裂かれた。
完全な虚無の表情で、しかし声はどこまでも澄み、凛とトーマはただそこに立っていた。
「……どういうこと?」
踵を返しかけていた溝口さんが、ゆっくりと振り返る。
口元の微笑みは残したまま、眉間には神経質な皺が現れていた。
「なめらかに動けるから神様の領域、というのが全然分からない。そんなの、科学とかでそのうち明らかになると思うし……」
「構造に神は宿らないという話?」
「ちがう。もっと始まり。世界が現れるその瞬間。――
ぎらりと瞳が光る。暗く、悪魔的な光。
わたしはトーマが何歳なのか分からなくなった。
トーマの身体は氷の年輪だった。
子供から老人までの連綿と続く時が何重にも繰り返し刻み込まれている。
しかし、どの輪にも欠落している時間がある。
赤ん坊。生まれてから、言葉を獲得するまで。
「ずいぶん難しい言葉を知っているね」
溝口さんの口角が上がる。皺が深くなる。
「ぼくがトリプルアクセルを飛んだということを、神は認識できない」
「……」
「ぼくと似たスケーターがトリプルアクセルを飛ぶことと、ぼく自身がトリプルアクセルを飛ぶことの区別は、神にはつけられない」
「……」
「年齢、性別、属性、来歴――全てを取り払ってなお残る、ぼく自身。ここから見える、聞こえる、感じられる、トリプルアクセルの全感覚を、神は知らない。……つまり、神はぼくの存在を知らない」
暗く通底したマントルの更に下、一番深くの氷の核が震えていた。
共鳴。
なるほど、と溝口さんはうなずく。
「……しかし、なぜそれを君は語れるんだろうな? それを言葉にしている時点で、君はスケーター特有の感覚というものを、語っているにすぎないんじゃないか? 君自身の――つまりは、僕自身の――これ、この、比類無さは、構造に溶けて消えるんじゃないか?」
氷のように。
「……やっぱり、滑るしかないってことか……」
共鳴は開闢に飲み込まれる。
マントルは引き裂かれ、核は再び静止する。
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