第61話 氷上神学
コンパルソリーをやる、と告げられ、皆の間からは小さな悲鳴と失意のため息が上がった。
わたしは心の底から暗い気持ちになった。
世界王者がどうしてそんなありきたりなことを教えるのか、憤りにも近い感情が湧き上がった。ステップとか表現とか、腕の見せ所は他にいくらでもありそうなものなのに。
コンパルソリーは嫌いだ。飛ぶことも回ることもできなくてつまらない。
……というのは表向きの理由で、本当は
氷を通して、ある大きなものと。
課題の円が定められた瞬間、氷上には絶対的なラインが浮かび上がる。
やがて、声が聞こえ出す。
「これしかない」
「こうでしかありえない」
本当は言葉ではなく、音声ですらない。氷が水へと溶けていくノイズにすぎない。
それが絶え間なくエッジを撫で擦り、震わせる。足から
体勢が定まってしまう。腰のひねり、肩の位置、指先から頭のてっぺんまで、一つの波動に支配される。
正しい円が浮かび上がる。
わたしが刻んだ。だが、氷が示した。
普遍。必然。絶対。つまり、再現性。
わたしの身体を通して。
わたしのスケートは一回性だ。同じ円に乗ることは二度と無い。
特別で、偶然で、相対の果てに消えるもの。
けど彫刻された円を前にすると、この空間はどこか遠く大きな宇宙と繋がっていて、そこに保存されていた真正の円が、今、ここ、この氷上に、立ち現れた、と思うのだ。
円は巻き戻され、わたしの身体を逆算的に
「これしかない」
「こうでしかありえない」
……そういう意味だったということになる。
それは採掘や標本とは違う。
わたしの身体は具象ではなく形式だから、溶けることは許されない。
あるいは、もうこれ以上溶けようがない。
そう、氷に言われているみたいに。
「フィギュアスケートの特徴とは何だと思う?」
沈黙。誰も答えない。
特徴、と溝口さんは繰り返した。
「つまり、フィギュアスケートと他のスポーツを分けるもの。フィギュアスケートにしか無いもの。それは一体何だろう?」
皆を見渡す。リンクにいるのは、総勢二十人。
そんなはずはないのに真っ直ぐ見られていると感じる。
全てを等価に見る、無機質な目。
はい、と遠慮がちに手を挙げたのは、いかにも利発そうな顔をした涼子ちゃんだった。
「表現力が必要なところです」
「ふむ」
続けて、と溝口さんは目で
「ええと……PCSの……特に、身のこなし、振り付け、曲の解釈に、芸術の特徴があると思います」
指を折り数えながら、涼子ちゃんは言った。広いリンクにも立ち消えない、芯のある声。
なるほど、と溝口さんはうなずく。
「しかし、新体操、水泳のシンクロ、女子の体操の床。芸術性が採点項目に入っている競技は他にもあるね」
「……女の人がやるスポーツのイメージが強い、とかですか」
ぼそりと標準語で
「無視できない観点だ」
素早く溝口さんが答える。
「男子のフィギュアスケーターは、常に好奇や偏見の目に
ふん、と鼻で笑い、寒河江くんに再び視線を投げる。眉間に神経質そうな
寒河江くんは、戸惑いの表情を浮かべていた。
急に早口になったから、後半何を言っているのか、わたしには全然分からなかった。
「だが、イメージの話はひとまず置いておこう。話を戻す。フィギュアスケートをフィギュアスケートたらしめている特徴とは何か、という話だ」
「……いいですか」
スッと真っ直ぐ手を挙げたのは、
もちろん、と溝口さんがうなずく。
「なめらかさ、だと思います。動きが繋がること」
静かな声。余韻が染み渡る。しばしの沈黙。
溝口さんの目が確信的に見開かれる。
その通り、とクリアな声が響き渡った。
「そう。フィギュアスケートの最大の特徴は、滑走だ。なめらかさ。すなわち運動の連続性」
え、そんなこと、とわたしは思う。
横目で可憐を見ると、やはり腑に落ちない表情を浮かべていた。
皆の当惑をお見通しと言わんばかりに、口角の片側を吊り上げて笑うと、溝口さんは勢いよく滑り出した。
「ただ移動するだけでいい。ここから……ここまで、動くこと」
なめらかに滑走し、きゅ、と止まる。
「何てことない移動だ。ただ滑っているだけ。僕たちには歩くことよりも当たり前かもしれない。だが、その歩くこと……地上で、この移動をやることを考えてみよう」
再び、溝口さんは滑り出す。ゆっくりと、フォアクロス。
「地上でこの距離を動くには、必ず縦の動きが入る。こうして、足を一個ずつ振り上げて」
手で、歩く足の動作を真似る。今この瞬間も溝口さんの足は滑っている。
「ランナーでもダンサーでも……地上を移動する際には必ず、大地を踏みしめなければいけない」
そして、溝口さんはわたしたちの目の前に戻ってきた。
ブラケット、ダブルスリー、と流麗なターンを
「こういう動きはね、地上では絶対に不可能なんだよ。できる場所はたった一つ、氷上だけだ。しかし、なぜそんなことが可能なのか? ……もちろん、氷の力を借りるからだ。しかし、なぜその氷の力で僕たちは滑ることができるのか? ……それは、厳密には分かっていない」
目の光が一段階強くなった。
金色の髪の毛が、オーロラのように波打つ。
「本当に、分かっていないんだ。科学的にもね。世界中の誰にも分からない。……つまり、ここは神の領域というわけだ」
ずっと気配を殺していたトーマの肩が、ぴくりと動いた。
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