第60話 氷帝

 その人のエッジからは、音がしなかった。

 いや、よく耳を澄ませば聞こえたのかもしれない。ささやき合うような、氷との密かな対話が。

 しかし、周りは騒がしかった。


「食堂で見たって言ってた子マジだったんだ」

「噂あったやんな? 全日本繋がりで、今年は絶対そうやって」

「大学とか大丈夫なのかな」

「夏休みじゃけぇ、大学も」

「てか生で見るとキラキラしすぎててやばくない? 王子様みたい!」

「いや、王子様は氷帝ひょうていに失礼でしょ」

「そのあだ名もテレビが勝手につけただけやん」


 ツイズルの回転が等しく三本の円柱をつくる。

 スリーターン、チョクトウ、ループターン。

 広げた腕が空中に、エッジの軌道が氷上に、二重の波形を描く。

 左ウォーレイ、右ウォーレイ。無重力のシンメトリー。

 よく練り混ぜられた空気の層がベスティスクワットイーグルで大理石へと変わる。

 カウンター。逆回転のツイズルが再び三連続。

 円柱が細く高く天を指す。神殿の顕現。

 何か大きなものと繋がっている。そしてそれをび起こそうとしている。


 この上なく静かなスケーティングなのに、氷から伝わってくる響きはダイレクトだった。

 切り、削り、突き、撫でる。

 一つ一つの動きに、わたしの右のくるぶしが呼応する。

 繊細なパルスを描くように。痛みの解像度が上がっていた。

 気付けば鳥肌が立っている。毛穴の一つ一つまで。

 光にひらかれ、つまびらかにされていく。

 怖い。なのに、目が離せない。


「……あの人、誰」

「誰って、溝口みぞぐちさんだよ。溝口みぞぐち達也たつや

 フルネームを言われ、やっとわたしは合点がいった。

 洵が一番好きなスケーターだ。この人が出る試合では、洵はテレビの前で正座する。

 昨年度の全日本王者にして、世界王者。通称、氷帝。

 でも三月のワールドではもっと地味だった気が……


「あんな金髪だったっけ?」

「染めたの! 四月の国別でいきなり金髪になっててみんなビックリしたの。でも、似合ってるよね……」

 可憐は甘いため息をついた。

 画面の中のリンクが大量の薔薇の花で埋め尽くされていたのを思い出す。

 女性ファンの多いフィギュアスケート界で、その人気を一身に集めているのが一目で分かった。

 カメラがパンすると氷上に鮮血が飛び散ったように見えたのが、ほんの一瞬グロテスクだった。


 浮足立つ女子とは対照的に、男子は畏怖の念に支配され静まり返っていた。

 洸一くんは溝口さんのエッジさばきに完全に釘付けで、口はぽかんと開いている。あんな顔した洸一くんは初めて見た。


「……シェヘラザードや」

 真剣さがこぼれる声で、寒河江さがえくんが呟いた。

「うそ、前のショートの? あきらくん、よく分かるね」

 ギクリとする。いつの間にか可憐は寒河江くんを下の名前で呼んでいる。

 寒河江くんは特に意に介する様子もなく、眉にけわしさをたたえてうなずいた。

「分かるが。ハメがバチバチだでステップだけで音聞こえてくる、なあ?」


 同意を求められたトーマは、凍結したように固まっていた。話し掛けられたことにも、多分気付いていない。

 目を見開き、上の歯で下唇をきつく嚙んでいる。

 全身が、今にもわなわなと震え出しそうだった。

 負の感情がみなぎっていた。

 ……トーマは、溝口さんが嫌いなんだろうか?


「そういえば、入江選手が金メダル取った時のショートもシェヘラザードだったよね?」

 ここぞとばかりに可憐もトーマに話を振る。

 けど、トーマは答えない。トーマには今、誰の声も聞こえていない。

 わたしは確信した。

 きっと、今目の前で溝口さんが再現しているシェヘラザードは、トーマの母親――あるいはトーマ自身と、何か関係がある。


 返答を諦めたように、寒河江くんがハッと鼻で笑った。

「そんな昔のよう知らんわ」

「知っときなよ、それくらい! ……でも男の人がシェヘラザードやるの珍しいよね」

「そりゃあシェヘラザード自体女の人だがね」

「えっ、シェヘラザードって人の名前なの?」

「そんなんも知らんの? 人のこと言えんがや」

 寒河江くんがほんの突っ込みで可憐の肩を叩き、可憐がエヘヘといたずらっぽく笑った。

 その紅潮した頬を見て、わたしは可憐は寒河江くんのことが好きなんだと気付いた。

 ぴりぴりと胸の先端が痛みだす。強い静電気のような、昨日よりはっきりした痛みだった。

 たまらなく不愉快な気持ちになる。

 足首が震える。


 わたしは誰とも繋がりたくない。

 透明でいたい。

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