第59話 mAntle skate modified

 リンクの分厚いドアを開けると、冷たい空気が出迎えた。

 氷の匂い。肺いっぱいに吸い込む。

 ようやく生きた心地がする。


「……あれ?」

 靴を履いて滑り出すと、右の足首に違和感があった。


「どうしたの、汐音」

「なんか、靴がヘン」

 さっきまでは平気だったのに。

「大丈夫? 陸トレで怪我した?」

「ううん。今リンクに上がってから。右の足首だけ、なんか当たる感じがする」

 ゆっくりとひょうたんで進んでみる。

 やっぱり右のくるぶしに内側の革がれる。

 ほんの少し、でも確実に痛い。


「えー、右だけ? 急に?」

「うん」

 そんなことってあるんだろうか。

 でも、実際に左は何ともなくて、右だけがおかしい。

 可憐はわたしの隣で同じようにひょうたんで滑りながら、少しの間考え込んだ。


「そういえば、昨日トーマくんに何か言われてなかった? それ君の靴じゃないとか」

「……あんなの、ただの言いがかりだよ」

 というか呪いだ。

 あれからわたしの靴に違和感が生まれたようなものだ。

 いや、身体に?

 とにかく、それまでは大丈夫だったのだから。

 振り切るように速度を上げる。


「トーマくんって、やたらと汐音に絡むよね。好きだったりして」

 ぎろ、と可憐を振り返る。

 無邪気な笑顔が強張った。

「……やだ、冗談に決まってるじゃん。そんなムキにならないでよ」

「なる。やめてほしい」

 払い落すように言いながら、胸には物悲しい気持ちが染み出していた。

 たとえ冗談でも、そういう話題を可憐の口からは聞きたくなかった。

 昔は浮ついた雰囲気を軽蔑している節すらあったのに。

 誰が好きとか嫌いとか。

 教室に蔓延はびこってる分には問題の無い空気を、氷上に持ち込まないでほしい。


「……そんなにトーマくんが嫌い?」

「大嫌い」

 わたしは再び前を向き、やるせなさを思いきり右足に乗せた。

 この微熱のような痛みを追放することは無理だと悟った。


 片足スネーク。

 あえて右から始めることで、痛みと向き合う。

 程度を探り、はかってつかむ。

 どこまでなら意識下におけるのか。

 わたしの内部をフィルタリングして、世界の前提条件を書き換える。

 初めてのことだから手探りだ。いや、足探り?

 とにかく、こうする以外道は無い。

 誰もがそうしている。何も特別なことじゃない。

 それでも、じんと痛みが沸くたびに肉体から意識ががれていく恐怖があった。


 ――痛いのと怖いのは違う。

 洵の言葉がフラッシュバックする。

 嘘じゃん、と思う。

 洵。痛いのは怖いよ。


 リンクの中央で、トーマがイーグルを回っていた。

 一本の透明な軸が小さな身体を貫いているのが見える。

 頭上から足元まで、どこにも余計な力が入っていない。

 アウトでゆっくり。それからイン。

 雄大な円。

 描くのではなく、ずっと昔に刻まれたものを採掘している。

 あるいは未来。透明な気圏。

 そこでは肺が氷の粒子に満たされ、呼吸はもう必要が無い。

 天の水底――その顕現は、魔法なのだった。

 もう一度手が届きたい。

 けど、そこに痛みは持ち込めない。

 時空を攪拌かくはんする水流であらかじめ分断されている特別な磁場。

 トーマの肉体は、氷上ではただの輪郭でしかなかった。

 顔を見ると静かに目を閉じている。

 ……まるで世界には誰もいないみたいに。

 

「気持ち悪いよねぇ」

 ふわりと頬をくすぐるような声がして、心臓が跳ね上がった。

 振り向くと、すぐ後ろに金髪の男の人が立っていた。

 降り立ったと思うほどものすごく近くにいた。その柔らかい毛束の一部が羽根のように、本当にわたしの頬をくすぐったのかもしれなかった。

 白いジャージ。白いスケート靴。

 ……え、天使?

 わたしの心を読んだかのように、ふっと笑う。目元に神経質そうな皺が寄る。


「そう思わない? 昔の自分を見ているみたいでさ」

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