第58話 不全(All this time)

 蝉の鳴き声が聞こえる。

 グラウンドの木陰で一人、わたしはうずくまっていた。


 長距離走の途中で足を止めてしまった。

 陸トレの先生はわたしを見るなり深刻な面持ちで、貧血じゃないか、顔色が青い、と言った。

 貧血じゃないことは自分が一番よく分かっていた。確かに足元はふらふらしていたけど、単に止まってしまっただけのこと。いつもの地上の亀裂。

 それでも、日陰で休んでいなさい、とクーラーボックスに入っていたアイシング用の氷を渡され、今こうして持て余している。


 標高の高い野辺山のべやまは涼しい。真夏とは思えない。

 前橋なんかヒートアイランド地獄だ。夏は蒸し上げられるみたいに暑くて、冬は吹きさらされるように寒い。

  “らいと空っ風、義理人情”

 ……うんざり。上毛かるた、大嫌い。

 それでも、わたしは無性に恋しかった。まだ一日しか経っていないのに、もうずっと長く離れているみたいに思えた。

 心のふるさと。

 でも、洵だって今はそこにいない。


 ふいに視界の隅で影が揺らいだ気がして、わたしは振り返った。

 斜め後ろ、もう一つの木陰にトーマがいた。

 グラウンドに背を向け、小さくしゃがみこんでいる。

 遠くから、はい、ラスト一分! とメガホン越しに先生の声が聞こえてくる。メニューは五分間走に切り替わったようだ。

 脱落したんだろうな、と思った。

 昨日の体力測定で、トーマとわたしは男女それぞれ最下位だった。


「……大丈夫?」

 近付き、声を掛ける。

「具合悪いの? アイシングあるけど」

 冷たい袋を揉み込むと、手の中でからからと氷がぶつかった。

 トーマは一切反応しない。

 よく見ると、うなだれているのではなく、地面の何かを凝視していた。


 木の根元を、一匹の蝶が歩いている。

 羽がうっすら黄色い。けど、確かにモンシロチョウ。

 隣に座り込み、恐る恐る見つめる。

 歩く蝶が珍しいかと言えば、初めて見たように思う。

 でも何かもっと別の、根本的な違和感があった。


 あっ、とわたしは叫んだ。


 触覚が無かった。よく見ると、目も口も。

 つるりと緑の丸い頭。

 頭だけ、青虫。


 全身に鳥肌が立つ。

 頭がぐわんぐわん鳴って、自分が今何を見ているのかつかめない。

 蝶は震えながらよたよたと前進し、急に風に飛ばされたように地面を転がった。


 突然トーマは立ち上がり、わたしの目の前でぐしゃりと蝶を踏み潰した。


「ひどい、何てことするの」

 血の気が引いたまま、わたしは言った。

 トーマは無言でスニーカーをどかす。

 わずかに体液を散らし、蝶は粉々になっていた。

 見上げると、トーマは真っ白い顔をしていた。


「どうせ死ぬよ」

 あっさりとトーマは言った。

「そんなの分からないじゃん」

「この頭じゃ蜜も吸えない」

 死体を見下ろし、トーマは言う。

 土の上、黒く細長いものは六本。全て足で、何度数えてもストローの口は見当たらなかった。


「……葉っぱを食べるかもしれないでしょ」

 わたしの言葉に、トーマはくく、と笑った。

「シオンってバカだよね」

「は?」

「体が蝶なんだから蜜しか受け付けないに決まってる」

 ぞっとするほどの冷たさで言った。

「見ただろ、ヘンな飛び方してさ。自分はまだ青虫だと思ってたんだろうな」


 わたしは黙って立ち上がり、草むらから木の葉と枝を拾ってきた。

「何しようとしてるの?」

「お墓を作る」

「手伝うよ」

「触らないで。殺した人間に埋められるなんて、わたしだったら絶対いや」


 これ以上トーマと関わり合いになりたくなかった。

 枝と石を使って葉っぱの上に蝶の死体を乗せ、プレハブ小屋の影に行った。

 尖った石で一心に土を掘る。

 ばらばらの死体に手を合わせ、土をかぶせる。


 生まれ変わったら、ちゃんと蝶になってね。


 ぶはっとトーマが背後で噴き出した。

 胸の中が真空になった。


「……わたし、あんたと仲良くなんかできない。生まれ変わっても絶対しない」

「生まれ変わりなんてあるわけないだろ。死んだら終わりだ」


 突然の低い声に、わたしは振り返った。地から響くような、不吉に掠れた声だった。

 洵が喋っているのかと思った。

 トーマは口元に不真面目な微笑みを浮かべている。


「あんた、死んだことあるの?」


 トーマは答えない。ただじっとわたしを見ている。

 その細い肩の向こうの木陰、土の上で、アイシングの氷が溶けて袋がぐにゃりとなっていた。

 

 ……最初の氷上で。

 どうしてけられなかったのだろう。

 ずっと考えている。

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