第57話 Calling

「あっ! そんな甘いモノ飲んで」

 お風呂から出ると、ロビーで洸一こういちくんと寒河江さがえくんがコーヒー牛乳を飲んでいた。

 可憐かれんの声色は非難というより悲鳴に近い。


「ほんっと男子って体重気にしないよね」

「女子が気にしすぎなんだよ。滋賀ちゃんも飲めば?」

「飲まない。もう一グラムも重くなりたくないもん」

 そっぽを向いた可憐の横顔がやけに大人びて見え、そら寒さを覚えた。


「……あいつ、北海道から来とるって」

 ゴト、と牛乳瓶を置いて寒河江くんが言った。

「もう七級持っとるって。けど、大会には全然出てこんらしい。今日初めて会ったって、涼子ちゃんが言っとった」

 引き結ばれた唇に悔しさが垣間見える。

 スケート王国名古屋で天才ジャンパーの名をほしいままにしていた寒河江くんには、トーマの登場は衝撃だったのだろう。

 さっきエレベーターで行き合ったことは黙っておく。


「え、涼子ちゃんって新潟じゃないの」

 可憐が言うと、

「新潟は北海道・東北ブロックなんだよ」

 洸一くんが答えた。

 隣の県なのにやけに遠く感じる響きだと思う。知らないことがたくさんある。


「ほんで、親もフィギュアスケーターらしい」

 

 ――母親。

 そこだけパキリと凍ったようなトーマの声が蘇る。


「……入江いりえ瑞紀みずきでしょ」

 急に可憐が真面目な顔で言った。

 洸一くんと寒河江くんは目を見開き、顔を見合わせる。


「え、でも名字ちがうがね」

 ……芝田? 柴崎?

 トーマの名字は曖昧だった。


「結婚したら女は名字変わるでしょ。顔がそっくりだもん」

 可憐はポケットからスマホを取り出し、検索画面を見せてきた。


 入江瑞紀。

 ソルトレイクシティ五輪金メダリスト。


「……結婚と同時に現役を引退、か。でも、子供がいるかどうかは書いてないな」

「そんなのいちいち書かないよ。前から思ってたけど、洸一くんってほんっと疑い深いよね」

「え、前から思ってたのか……」

「そんなどえらい二世やったらみんな知っとるがね」


 ウィキの画像は何かの大会の演技中なのか、キャッチフットスパイラルのポーズで、血のように赤いオフショルダーのドレスを着ていた。

 目を伏せた横顔。

 似ているといえば似ているし、似ていないといえば似ていない。

 目を開けているところが見たいと思った。

 暗いのにギラついた、野生の瞳。


「俺は霧崎に似てると思ったけど」

 ふと洸一くんが口を開いた。

「……洵に?」

 思わずわたしは眉をひそめる。

 だって全然似てない。顔も性格もスケーティングも。


「……まあ、声は似てるかも」

 昔の。声変わりする前の洵に。


「や、紛らわしくてゴメン。兄じゃなくて、君の方ね?」

「……わたし?」

 洸一くんはうん、とうなずく。

 霧崎、と初めて名指されたことに動揺した。

 それはずっと洵の呼び名だったから。


「俺達部屋一緒なんだけど、あいつベッドに寝っ転がって、ずーっとパズドラやってるんだよ。全然話さないし、正直何考えてるのか分からない。だからちょっと怖いっていうか……」

「……わたし別にパズドラやらないけど」

「そーゆーとこだがや。メシん時、行儀悪いのも一緒やし」

「それな!」

 寒河江くんの突っ込みに、可憐が手を叩いて笑う。


 瞬時に、目の前に空気の膜が張った。

 わたしは、ドヤ顔を浮かべている寒河江くんが一気に嫌いになった。

 爆笑する可憐にも嫌気が差した。

 まんざらでもなさそうに苦笑している洸一くんにも。


 またか、と心が冷めていく。

 ここでもわたしは疎外される。膜に押し返されている。

 スケーター同士ですらこうなのだ。

 わたしはどこにも馴染めない。


 ずっと氷上練習だったらいいのに。

 ……早くへ行きたい。


 そう心の中で呟き、足のうずきに気付いた。

 惰性ではなかった。

 静かな焦燥。

 意味も目的も理由も要らない。

 いつぶりだろうと思った。

 忘却していた属性。

 再び、わたしに立ち上がっている。

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