第54話 Brute fact of life
「可憐ちゃん、汐音ちゃん。お風呂の時体重測るの忘れないでね」
「……来てすぐ測定あったんですけど」
「同じ時間同じタイミングで測るのが大事なの。家でやってるように、ここでもちゃんとやって。そして私に報告しなさい」
「はーい。汐音、行こ」
「あ、汐音ちゃんは、ちょっと」
美優先生はそう言ってわたしに手招きし、可憐に目くばせする。
可憐は空気を読み、あとでね、とエレベーターで部屋に戻って行った。
「……何ですか」
混む前にお風呂済ませたいのに。また何か小言を言われるのだろうと思った。
けど、美優先生はいつになく不安げな表情を浮かべ、わたしをロビーの隅へ引っ張ると、あのね、とためらいがちに口を開いた。
「洵くんが休んで、もう一ヶ月経つでしょう。だから私、どうしても話をしたくて、昨日洵くんのスマホに掛けてみたの。でも全然出てくれないのよ。汐音ちゃん、何か知ってる?」
……直接掛けたのか。
胸がスッと寒くなった。
先生はそわそわと瞬きを繰り返していた。その姿に、好きな男の子からLINEの返事を待つ同級生が重なり、シンプルに気持ち悪いなと思った。
わたしは声が漏れるほど大きなため息をついた。
「洵は、今塾の合宿行ってます。ママから聞いてますよね」
「ええ。それはもちろんそうよ。でも……」
「迷惑なんですよね、そういうの」
声が、今まで美優先生に向けたことのないような声になった。
冷たさに徹した声。
洵は誰かをなじったりしないけど、もしなじるとしたらこういう風に言うだろうというトーンで、わたしは喋っていた。
美優先生は目を見開き、まだ思考が追い付かないという顔をしていた。
わたしは洵になったつもりで、言葉を一気に吐き出した。
「こういうのって、結局親の言うことが全てですよね。わたしたちまだ小学生なわけだし。なのに直接電話掛けるなんて、大人としてどうなんですかそれ」
かっこいい! まじかっこよかったよ!
脇をきゃーきゃー女の子たちが通り過ぎる。何の話をしているのか。全員髪の毛が長くて、つやつやとキューティクルが揺れていた。
先生は唇を噛み締めていた。薄い下唇の歪んだラインに、見たことのない色気が匂い立つ。
まるで誘発されたように突然乳首がつんと痛み出し、わたしは自分の胸を叩き壊したい衝動に駆られた。
気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。
チンとエレベーターが鳴って一団が去るまで、重石を乗せられたように黙りこくっていた。
「私は、洵くんと話したいの。洵くんの本当の気持ちが知りたいのよ」
「……本当の気持ち?」
わたしは美優先生をにらんだ。にらみながら、穴が開けばいいのにと思った。
この憎しみの強さで。
本当の気持ちが手を伸ばせば届く距離にあると思っている。その無邪気さが憎くてたまらない。
違う。もっと深層にある憎しみだ。
本当の気持ちなんてものがあると信じていること、それ自体。
……自分の欲望にすら気付いてないくせに。
その滑らかに斜線を描く白い頬がわずかに紅潮していることに、わたしだけが気付いている。こうして、今洵がこの場にいなくても。影を炙り出すだけでこの人はこうなる。
わたしは自分が薄笑いを浮かべていることに気付いた。
「わたし、先生が嫌いです」
「……」
「自分なら洵を氷の上に戻せるって思ってるでしょ?」
息を呑む、その音すら白々しいと思う。
「洵が自分のこと好きって知ってるから。その気持ちを利用しようとしてる」
「……そんなわけないでしょう」
「自覚無いんだ。最悪」
先生はうつむき、黙っている。
わたしは自分の血の温度が冷めていくのを感じた。
……大人って本当に汚い。
決め台詞めいた言葉を吐き捨てようとしたその時、
「汐音ちゃんは、洵くんがスケートやめてもいいと思ってるの?」
顔を上げ、静かな声で先生は言った。
真っ直ぐにわたしを見ている。
突然、気圧が変化したみたいに意識に波が生じた。
視界がぼやけ、音が遠ざかり、足元が揺れる。
「……それは、洵が決めることじゃないですか」
「答えて。本当に、洵くんがスケートをやめてしまってもいいの?」
あなたの、本当の言葉を聞かせて。
切れ長の大きな目の下は、クマで縁取られている。
とても綺麗な人だけど、夜の闇を何層も織り込んだような目元だけは、影の加減次第で時折老婆のようにも見えるのだった。
瞳はたっぷりと涙を湛えていた。
けど、それは絶対に零れ落ちないだろう。
目元の影が決壊を留めていると思った。
それは気迫であり覚悟であり、自分が泣かないことで洵を氷上に留める手綱であろうとする、祈りのようなものだ。
「……わかりません」
わたしには分からない。本当なんて。
それは、無いこともあるんじゃないか。
けど、そんなことを口にしたら、わたしは今度こそ大人になれないと思った。
大人になんかなりたくなかったはずなのに。
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