第52話 With Teeth

 チキン南蛮に取り掛かる。

 てらてらと甘酢のタレを吸った柔らかい衣。慎重に剥がしていく。

 鶏肉は皮があるから油断できない。


「……ちょっと、汐音。汚いよ。ちゃんと食べなよ」

「今一生懸命だから話し掛けないで」


 揚げ物の衣を外すという行為に、わたしは強く執着していた。

 魚の骨取りや皮剥がしも好き。

 こうして箸で格闘していれば、食べ始めを引き延ばすことができる。

 わたしは食事が好きじゃない。人と食べるのは特に。

 栄養が必要だから摂取しているにすぎない。

 だからかお腹もあまり空かない。


「汐音ちゃん、可憐ちゃん、しっかり食べてる? 野菜も食べなさいよ」

 お盆を持った美優先生が通りすがりに声を掛けてきた。

 ……いちいちうるさいな。渋滞に引っかかって遅れて来たくせに。

 仕方なく、小皿に取ってきたきんぴらごぼうを一口つまむ。

 一瞬、わたしは固まった。


「……可憐、これ食べてみて」

「え、何で?」

「いいから。……味しなくない?」

 可憐はもぐもぐしながらきょとんと首を傾げる。

「うーん、ちょっと味付け薄いかも?」


 その無邪気な反応は、わたしの違和感からは程遠いものだった。

 筋張った木の根を歯ですり潰すような感覚。

 甘いともしょっぱいとも感じない。唾液が沸かない。

 勇気を出して飲み込んだら繊維質が引っかかり、少し咳込んだ。

 隣の皿の、鶏肉の切れ端を一つ口に放り込む。

 ……パサパサしている。それだけ。

 味が分からない。いつまで経っても飲み込めない。

 やがてパサパサはぶよぶよに変わり、突然自分の咀嚼そしゃくしているものが動物の肉という事実が身体の内側から湧き上がってきて、わたしは嘔吐しそうになった。

 咄嗟とっさに水で流し込み、どうにかこらえた。

「……大丈夫?」

 可憐が箸を止め、怪訝けげんな目でわたしを見ている。

 答えられない。全身に脂汗がにじんでいた。

 

「てかさぁ、食べろって親うるさくない?」

「ほんまうるさい。滑るのはうちなんやから黙っといてほしいわ」

「うちは逆。それ以上食べるなとか言ってくる。お菓子も全部隠されちゃった。もう夢に食べ物ばかり出てくるよ~」

「なになに? 何が一番出てくるん?」

「スタバ! フラペチーノ!」

「分かる~!」


 隣のテーブルの会話がうるさくて神経に障る。

 ……全然分からない。

 わたしは一度しかスタバに行ったことがない。

 けやきウォークの一階。ママの買い物が終わるまで、洵と二人で待っていた。

 季節限定の苺のフラペチーノ。

 こんもりと乗った生クリームを見た瞬間、頼んだのを猛烈に後悔した。

 少しだけすすり、予想以上の甘さに辟易へきえきし、あとは全部洵にあげた。

 ――残すなら頼むなよ……。

 ――シャーベットだと思ったんだもん。

 ――同じようなもんじゃん。

 ――全然ちがう。かき氷とシャーベットは好きだけど、アイスクリームは嫌いなの。知ってるくせに。


 甘いのは嫌い。舌に残るから。味覚はダルい。

 氷の切片が口の中で溶けて水になる、その儚さだけをわたしは愛していた。

 固体と液体のあわいで一瞬の冷たさが持つ芯。

 キンと歯に響き、わたしの核と呼応する。


 ――え、じゃあジェラートは?

 ――嫌い。

 ――でもこの間おれたち食べたけど。

 ――いつ?

 ――スズラン行った時。

 ――うそだー。

 ――いやうそじゃないし。


 喉の奥。いつの間にか胃酸の気配が消えている。

 累積した感覚の層を注意深く剥がしていく。

 体内に今も埋もれたままのジェラートの痕跡を見つけたい。


「わたしスタバ行ったことない! わたしもフラペ飲んでみたい!」

 一際声が甲高い女の子がいる。

 あんな子いたかな、と顔を盗み見た。

 おかっぱの黒髪が揺れる。

 窪んだ目元。痩せこけて浮き出た青白い頬骨。


 ……シオリだ。


 たちまち汗が蒸発し、肌が粟立った。

 けど、シオリはわたしには見向きもしない。

 テーブルに手をついて必死に相槌を打ち、笑い喋っている。

 その挙動はいたたまれなくなるほど一方的で、まるで壊れた機械のようだった。

 彼女達に相手をしてほしくて仕方がないのだ。

 声が聞こえないし姿も見えないから、ずっと無視をされている。

 

 シオリには足首が無かった。

 足元には黒いモヤがかかっていて、本来足首がある辺りで濃くなっている。

 よく見るとモヤではなく、粘液を引いた黒い糸が幾重にも重なり、うずを巻いていた。

 

 重力の根。久々に見た。

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