第51話 萌芽(In a cocoon)

 全てのメニューに栄養価が張り出されている。赤、緑、黄に色分けされた家庭科で習う図とともに。ビュッフェスタイルの夕食。

 チキン南蛮。100gあたり260kcal。肉だけどタンパク質より脂質が多め。

 “揚げ物は控えめにしましょう”

 ……無視して三切れお皿に乗せる。


「これくらいにしとこ」

 そう言って可憐は大きな電気釜の蓋をバタリと閉めた。お茶碗には白いご飯が仏様のお供え物みたいにちょこんと乗せられている。

「最近ジャンプ重いんだよね……」


 可憐の身体は丸みを帯びてきた。胸も服の上から分かるくらいに膨らんでいる。かなりしっかりしたスポーツブラを着けているのを、更衣室で見た。

 自分の胸部を覆っているガーゼの二重布を思い出す。わたしも、スポーツブラを着けているのだった。


 “胸の膨らみは、乳頭から始まります” 

 保健の教科書にはそう書いてある。

 けど、わたしの胸はどこまでも平坦で、乳首が肌の内側からスタンプを押したみたいに、わずかにピンク色なだけ。


 洵と部屋を分けた翌日、ママはわたしの下着を新調した。

 薄いピンク色のタンクトップ。さりげなく胸部に縫い付けられた当て布に、わたしは強い嫌悪を感じた。

 ――こんなの着たくない。前のやつどこ?

 ――もう捨てたわ。これからはこっちを着なさい。目立つといけないから。

 ――目立つって何が? 勝手なことしないでよ。

 ――汐音。

 ママは引き出しに手を掛けたまま、真剣な目でわたしを見た。


 ――もう少し、人の目を気にしなさい。スケートで有名になって、応援してくれる人が増えたのは有難いことよ。でも世の中にはね、怖い人もいるの。女の子は、隙を見せてはいけないのよ。


 女の子は、と口にする時、ママは少し躊躇ためらったように見えた。ほんの一筋、苦悶の色が走った気がした。

 だからわたしは、それ以上口答えができなかった。


 ママの言うことは分からなくもない。

 大会に出ると、気持ちの悪い視線を受ける時がある。そういう人たちは大体一人でぽつりぽつりと座っていて、前のめりの姿勢で身体のパーツをズームで見てくる。

 二の腕。脇。うなじ。胸元。腰。お尻。太もも。

 その粘ついた眼差しが性的なものであることは明らかだった。

 写真を撮るわけでもない、話し掛けてくるわけでもない。ただ見ているだけだから、何も言えない。


 ――キモいよね。アップ中も見てくる奴いない? 東伏見とかさぁ、後ろに衝立ついたて欲しいよ。

 ――見るならちゃんと見ろよって感じ。あたしたちマジメにスケートやってるのに。


 フィギュアスケートを、ちゃんと見る。

 ちゃんと見る人だけが、フィギュアスケートを見る資格がある。

 競技として。あるいは芸術として。

 みんなそう信じている。

 ……フィギュアスケートは、見られて成り立つスポーツだから。


 わたしは、全ての視線がおぞましかった。

 氷上のわたしを瞳で捉え、網膜もうまくに映し出し、脳へと送り込む他人たち。

 無意識に働く一連の作用には、感情が糸のように絡み合う。

 期待。憧憬しょうけい。好奇。嫉妬。憎悪。性欲。

 他人の感情をまとい、わたしは滑る。まるでさなぎのまゆだ。

 糸の重なりに投影される像と、中身のわたしは一致するのだろうか。

 わたしは誰かの影なのだろうか。


 ちくり、と胸の先端が痛んだ。

 今まで感じたことのない種類の痛みだった。


「あっ、汐音ちゃん、久しぶり~! 背伸びた?」

「伸びてない」

「うそぉ。だって全日本の時より大きくなった気する~」

「うるさい」


「……何あれ。こわ~い」

「気にせんとき。難しい子やもん」


「……汐音、今のは感じ悪いよ」

 無視してテーブルに着く。

 胸がまだぴりぴりしている。無性にイライラする。

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