第46話 統覚(Leave me alone)

 野辺山のべやま駅に着くと、塔のように屹立した灰色の建物が見えた。新緑の背景から切り取られた異様な人工物。今回の合宿が行われるホテルだ。その隣には、古いスケートリンクが併設されている。

 受付を済ませ、ホテルに荷物を預ける。

 駐車場に停められた車から、続々と人が出てきた。大会でよく一緒になる顔見知りの子が何人もいる。全日本でしか顔を合わせない西の子たちも。お母さんと一緒に来ている子が圧倒的に多い。時々お父さんも。子供だけで来ている方がまれだった。


「さっき駅で見たって子、いる?」

 開講式中、可憐が辺りを見回しながらひそひそ声で訊いてきた。

 わたしは無言で首を横に振る。

 駅でも道でもホテルの敷地でも、わたしはずっと彼を探していた。

 けど、反対側の電車に乗ってしまったのなら、仮に気付いて引き返したとしても間に合うはずはない。

 もう忘れた方がいいのかもしれなかった。手繰れば手繰るほど、残像は手垢にまみれていく。


 レッスンはすぐに始まった。

 百人の選手が六グループに分けられる。

 わたしと可憐は水色のグループ。何を基準に分けられているのかは不明。

 男子は十人と少ないので、全員が青のグループにまとめられていた。

 三日間で、氷上練習、陸上練習、ダンスの三種類のレッスンをローテーションしていく。

 計画表を見ると、水色と青は常に一緒のようだった。

「洸一くんと一緒でラッキー」

 え、とわたしは固まる。

「あのスケートを近くで見れる」

 ぎゅんと真剣な目で、可憐は言った。

 確かに洸一くんのスケーティングは綺麗だ。親子三代でフィギュアスケート選手のサラブレッド。

 けど、わたしはあまり意識したことがない。男子のカテゴリーはたいてい洵の演技にどぎまぎさせられて、他を見る気力を根こそぎ奪われてしまうから。


 最初のレッスンは、氷上練習だった。

 レオタードに着替えて靴を履く。

 結局持ってきた、洵の靴。持ってくるしかなかった、洵の靴。

 そっと足を入れながら、本来の靴に想いを馳せた。

 ……わたしの分身。

 今、どこでどうしているのか。


 考えるまでもない。鍵の掛かった部屋に置き去られているに決まっている。

 灯りに照らされることもなく、暗闇に一人きりで。

 何億光年も離れている気がした。


 手元の紐をきつく締め上げる。

 ……痛いくらいじゃなきゃだめだ。

 氷上では、わたしは痛みを忘れてしまうから。

 今ここにある靴だけがわたしの靴。

 氷晶に散らばる感官かんかんを、痛みの核に統合する。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る