第45話 天末線
待合室で、可憐と洸一くんはずっと喋っていた。
主に榛名学院のスケート部について。リンクがバレエスタジオのように鏡張りになっているとか、全員揃ってフットワーク練習をするとか、中等部から大学まで強化選手は優先的に貸切が取れるとか。
わたしは隣で黙って聞きながら、自分が榛名のリンクで滑っているところを想像した。フェンスが取り払われた氷上で、鏡に映る自分と向き合う。……それってどんな気持ちになるんだろう。うっすら鼓動が速くなる。悪くない未来に思えた。
――けど、六級持ちでも落ちる。
可憐の言葉が頭を過ぎる。
全日本ノービス二位はもう過去の実績にすぎない。今年も表彰台に乗れる保証はどこにも無かった。
榛名に憧れて全国からスケーターがやって来るということは、これから始まる合宿の中、確実にライバルがいるということだ。一人二人ではなく何人も。
身震いがした。両膝で拳を握りしめる。
……取り戻さなければいけない、わたしのトリプルアクセル。
でも、どうやって? もうずっと単発の練習ですら降りられていない。
天から降る光に飛び込む――ただそれしか知らなかった。
その感覚を失くした今、わたしは肉体の動きの一切を惰性に打ち遣っている。
自律を捨てた形式。氷への従属。
能動は気配すら無い。
わたしのスケートは空っぽだった。
「ねえ、見て。電車一時間に一本しか無い」
「あーね。逃したらやばい」
水色の、二両しか無い電車に乗り込んだ。三人とも荷物が多いので、ゴロゴロガタガタとうるさい。空いているから網棚に荷物を載せるのはやめにした。
腰を下ろして一息つく。
視界が開けていた。
高架のプラットホームは、実際よりずっと高い場所から町を見下ろしているように感じる。標高は相当に高そうで、天空に一番近い列車という文言は嘘では無いと思った。雲一つない青空に、切れ目の無い稜線が
ふと窓の向こうを影が横切り、ハッと息を呑んだ。
黒ずくめの少年。背が小さくて髪が短い。
両手をポケットに突っ込み、ホームぎりぎりを歩いていく。白線の上を綱渡りでもして遊んでいるように見えた。背中に青いシューズバッグを背負っていて、それは洵と同じものだった。
「あの子」
がばっとわたしは立ち上がった。
「え?」
可憐が顔を上げる。
「反対側の電車乗ろうとしてる」
「……そういう人もいるんじゃない?」
「でもスケート靴持ってる! 合宿に参加する子だよ。教えてあげなきゃ」
「だめだよ! 汐音」
わたしの手を可憐が掴もうとして空を切ったのが分かった。
あと一歩で、わたしは電車を降りるところだった。
本当に足一個分。目の前で、ぷしゅ、と扉が閉まった。
倒れ込むように窓ガラスにおでこを付け、ああ、と情けない声を漏らした。
がたん、がたん。ゆっくりホームが遠ざかる。
ガラスの外、背景が早戻しのように後方に吸い込まれていく。どんどん速く。
ホームの端、もう少しで見えなくなる豆粒ギリギリの大きさで、突然少年は振り返った。
鋭い目が距離を貫き、直線でわたしを捉えた。
電車は高架を落ちるように降り、あっという間にホームは視界から消えた。
わたしはしばらく呼吸を忘れ、過ぎ去った方向を見ていた。視座の発生点。角度さえ失わなければ、繋がっている気がして。
「汐音、本当にそんな子いたの?」
「……うん」
可憐の声に引き戻されて、ようやくわたしはドアから離れた。
席に戻ると、洸一くんは膝に両肘で頬杖をつき、長い身体を折り曲げてじっと何かを考え込んでいた。
「……ひょっとして、これ俺達が逆に乗ってるパターン?」
「ええ? うそ、やだー」
可憐がのけぞる。
ほどなくして車内に、
わたしはスニーカーの爪先を凝視しながら、あの子に似ていた、と思った。
どしゃぶりの雨の中、闇を背負って立ちつくす、足首の無い少年。
世界の裏側からわたしを見返すスケーター。
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